河内国河上「哮ヶ峯」はどこが正解なのか?

2023.09.29(金) 日帰り

チェックポイント

DAY 1
合計時間
3 時間 36
休憩時間
33
距離
7.2 km
のぼり / くだり
382 / 358 m
31
10
1
5
11
1
25

活動詳細

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 久しぶりに星田の山ですが、取り敢えずは登り尽くしたところなので、単に登るだけなら「いまさら」感が強くておもしろくはないので、ある種のテーマを持ち出してきました。 その1:ニギハヤヒの命が天降ったという「哮峯」はどこ? https://heisai.hatenadiary.org/entry/20140528  一般には「いこまかんなび」さんの生駒北嶺説と交野市私市の今はクライミングウオールがある背後のピークと思われます。生駒北嶺説は取り敢えずは置いといて、その拠り所になっているのは「先代旧辞本紀」ですが、そこでは「河内國河上哮ヶ峯」としか言ってないわけで、クライミングウオールがある背後のピークというのは本当なのか?  平斉さんのサイトによれば・・・ https://heisai.hatenadiary.org/entry/20140531 磐船神社の西角明彦宮司の見解によれば同神社の背後の山が本当の「哮(いかるが)峯」であって頂上に”八剣大神”を祀り”はちけんさん”と呼ばれている磐座もある。「ほしだ園地」の方の”哮ヶ峯(たけるがみね)”は星田妙見宮の信仰対象の山である、とのこと。 その2:星田神社の「古宮」はニギハヤヒをお祀りし、「ほしだ園地」の「哮峯」はニギハヤヒの降臨地というが、その信仰上の関係は?特に、途中に妙見宮があるが、その役割は?  こんなテーマを上げてみました。いずれもモヤモヤしていてスッキリ理解できないところがあったのです。 まずは星田神社から ■■1.星田神社成り立ち  星田神社は今は住吉四神が祭神ですが、由緒によると【本殿の住吉四神をお祀りしたよりも遥か以前に、ここに一本の大杉があって、そこに当地の氏神として、当地方の交野の物部の御祖である櫛玉饒速日命(交野大明神)をお祀りいたしておりました。その後、宝永年間(1704~1711)に総社である磐船神社の御分霊を御遷ししてお祀りするにおよび、交野大明神のお社よりも大きな神殿が建てられることとなりました。それ以後、交野社は古宮と呼ばれるようになり、また大杉も枯死したので、その芯をご神体として、お祀りするようになりました。】とあります。ちなみに、分霊の時期は分霊先の私市・若宮神社では江戸時代以前、四條畷田原・住吉神社では江戸初期だそうで、星田神社も、延宝7年の「河内鑑名所効記」の図会の鳥居から判断すると万治3年(1660)以前と判断されるらしい(和久田薫著・星田歴史風土記)。  いずれにせよ星田神社はニギハヤヒ(交野大明神)を祀るのが本筋で、天文4年(1535)の神明帳には、この交野大明神の名が記載され、文化2年(1805)の三浦蘭阪著「川内奨撫古小識」には、当神社に正平21年(1366)の銘の石塔があったとされています。 http://murata35.chicappa.jp/rekisiuo-ku/1511/index.html  星田神社とほしだ園地の「哮峯」の関係を考えるに当たり(宮司さんが同じというのは置いとく)、地図をみながら星田神社から「哮峯」方向を見ていると、あらら、妙見さんの拝殿(か、社務所)が見えます。ちょっと左手(北)に振ると妙見東の入り口が見え、その左手の山続きあたりには、そこは妙見東住宅ができる前には古い妙見山があり、その向うには「妙見山古墳」があったところなのです。今は家屋と樹木が鬱陶しいですが、昔は丸見えだったのでは?この位置関係からすると、ニギハヤヒを祀る(古)星田神社から妙見さんと古墳を奥宮として遥拝していたのでは・・・ちょっとおもしろくなってきました。 ■■2.妙見宮における物部氏痕跡  現在はどこを見渡しても物部氏の痕跡は見当たりません。それは平安時代に大きな事件があって、それにかき消されたものと思われます。 当社の縁起によりますと【平安時代、嵯峨天皇の弘仁年間(810~823)に、弘法大師が交野へ来られて獅子窟寺吉祥院の獅子の窟に入り、仏眼仏 母尊の秘法を唱えられると、天上より七曜の星(北斗七星)が降り、3か所に分かれて地上に落ちたと云います。この時よりここに「三光清岩正身の妙見」として、祀られるようになったと云います。】 http://murata35.chicappa.jp/rekisiuo-ku/1505/index.html 以後、妙見信仰一点張りとなって、これがなかなか馴染めないところなのです。 時代を追ってザッと調べますと・・・ ◆1.古代  磐座信仰。ここのご神体は2つの影向石ですが、影向石は一般に、仏や神が姿を現した霊石のことを指します。妙見さんでは、平安時代に、空から北斗七星が降臨してのち影向石として祀ったという記述もありましたが、隕石がうまく山頂に残されたとは思えないので、大岩は以前からあって磐座信仰されていたのでしょう。どういう神が降臨したかに興味がありますが、分かりません。分かりませんが、後に「織女石」なんて呼ばれたことを考えると、神の衣を織ったとされる機織の女神とは考えられませんかね?「哮峯」に降臨した太陽神の衣を織ったとか・・・むりやりの妄想ですが。 ◆2.平安時代、弘法大師の降星伝説以降  その大岩は妙見石とか織女石とか呼ばれて、御祭神を北辰妙見、御神紋が北斗八星として、そのご神体として祀られるようになります。  妙見宮の佐々木宮司の講演では・・・ http://murata35.chicappa.jp/rekisiuo-ku/1511/index.html  余呉湖や丹後の天女の降臨伝説をひいて、【その天女は8人であって、北斗八星から来たという民話が北辰を祀る妙見宮の神紋が「北斗八星」であることに通じる】や、【平安時代の歌集袖中抄(しゅうちゅうしょう)には、余呉湖の段で「織姫子孫、河内天の川にあり】とされていることから、妙見宮も「羽衣伝説」の原型を伝えていると結論されています。これを契機にして、日本各地の羽衣伝説がある土地は物部氏が深く関わっていることから、妙見宮も物部氏と関わっている(かも)とされていますが、そこまで言っていいんかい? この辺りから、だんだんついていけなくなって来ます。 例えば・・・ 1.物部氏が最高神として祀る「豊受大神」は一族の祖先神(※)、天之御中主神と同一神(※)、また北斗八星から降臨した天女でもあると云われている(※)。星田妙見宮には、織女石の裏側に豊臣稲荷社があり、ここに祀られる「保食神」は豊受大神と同一神であり、この社は妙見山頂上に祀られている(この森での別格の存在)。以上の点から、物部氏がここを奥宮として、祭祀に携わっていたことが考えられます(※)。 2.星田妙見官の近辺には、朝鮮半島からやってきた秦氏が住んでいました(交野山麓)。独自の星信仰を持っていた彼らは物部の管理下(※)にあって、高度な機織技術を伝えました。(丁未の乱以前?) 3.御神体は、織女石(たなばたせき)、御神紋は北斗八星。織女とは七夕の織姫のことである(※)と同時に、北辰の神格を指します。 4.天上から北斗七星が降臨し、星田の里の三か所に分かれて落ちた。天の川を挟んで等距離に織姫と彦星が浮かび上がる妙見宮と天田神社(※)。  (※)はよく分かりません。物部氏との関連を言いたいのは分かりますが・・・また、織女石と呼ばれていたので、七夕伝説の(ひとつの)舞台であったと言いたいのも分かりますが。まあ、貝原益軒元禄2年(1689年)『南遊紀行』には【磐船より入り、おくの谷中七八町東に行ば谷の内すこぶる広し、その中に天の川流る。谷の奥に、星の森あり。星の社あり。その神は牽牛織女なり】とあるので、当地、妙見さんが七夕伝説の地と認識されていたのは事実でしょうけど。 5.延暦4年(785年)、桓武天皇が長岡京遷都達成の神思感謝として、翌年に交野ヶ原の柏原(場所未定)で郊天(北辰)祭祀を行います。郊天祭祀は、古代中国で冬至の日に南の郊外で天を祀ったことに始まります。つまり、その場所から見て、どこから朝日が出てくるかが重要になります。そこで、交野ヶ原南郊の地にある星田妙見宮から、冬至の日の出を望むと、交野ヶ原の原点「咆(ほえる、だが、いかる とも言うらしい。哮の代用?)ヶ峰」から朝日は昇るのです。こうして見てきますと、歴史的、地理的、地形的、民族的、信仰的に、星田妙見宮は郊天祭祀場の最高の候補地(※)に挙がってくるのです。 (※)まあ、宮司さんの考え方ですから否定も何もありません。  しかし、ここで重要な指摘は【星田妙見宮から、冬至の日の出を望むと、交野ヶ原の原点「咆(哮の代用か?)ヶ峰」から朝日は昇るのです。】ということです。ちょっとずれますが、間違いとはいえないようです。古代においては、ここから太陽を拝む、さらに哮が峰に太陽神を祀ったのでしょう。太陽神たるニギハヤヒ降臨の地には相応しいかと思われます。  結局、妙見さんでは物部氏との関連については、冬至に哮が峰から太陽が出ること以外は宮司さんの「ほんまかいな」と思われる仮説しか見当たりませんでした。  少々疲れてきましたので、現在の妙見宮については、上記講演のほか、公式サイトhttps://www.hoshida-myoken.com/ や「星田妙見宮の神々と里人の祈り」講演http://murata35.chicappa.jp/rekisiuo-ku/1505/index.html を参照ください。 ■■3.妙見山古墳  妙見山のちょうど東300m付近に旧妙見山162mがあり、その周辺に古墳がありました。昭和43年、住宅開発が始まった頃で、たまたま四條畷高校生が発見して、交野町で発掘調査が行われたものです。盗掘と破壊が進んでいましたが、際どいところで完全破壊を免れた。さすがに畷高生、こういう感覚は持ちたいものですね。勾玉やガラス玉、鉄剣などの鉄器、石英、異物に付着した朱が採取されたとか。4世紀中頃の造営とされています(和久田薫著・星田歴史風土記)。  位置的には、東に天野川や後の磐船街道、北は星田、さらに広大な天野が原、西近くには妙見の影向石が望めたようです。星田神社から見ると旧妙見山は真正面に見え、冬至の日にはその付近から太陽が登ってくる位置にあります。これから考えると、肩野物部氏の首長を葬ったとしか考えられません。  今は近くに中央公園があり、そこに古墳を模したと思われるマウンドが2つありました。子供の小さい時、よく遊びに連れていきました。まだ工事途中でなぎ倒された木苺かと思われた木を拾って帰り、庭に植えておきましたが、実がなるようになって、なんやいちごと違うやん、ヤブサンザシでした! ■■4.南谷山は絶好の見晴らし  旧妙見山162mの代わりに鴻ノ巣山に登ってみましたが、見晴らしは全然ダメ!南谷山へ急ぎました。ここは絶好の見晴台。たしか4回めですが、こんなに良かったかな?  明治の地図と今の地理院地図を合わせて見てみると、妙見山ー旧妙見山・妙見山古墳ー南谷山を稜線伝いに、大したアップダウンもなく通って、哮が峰にいけたんや!少なくも昭和30年代までは。妙見宮と妙見山古墳、さらに哮が峰の近さがよく分かりました。さらに、星田神社の屋根も見えますので、樹木が茂らずにあったら、この南谷山の先にある哮が峰も遥拝できたんでしょう。 ■■5.哮が峰の石碑  やっと哮が峰にやってきました。たしか4回め。古い山名盤はなくなっていました。山名盤のある高みを過ぎて少し進むと、万治2年(1659年)銘の哮ヶ峰の石碑があります。この碑は昔、小松宮(妙見さん)にあったが明治4年、廃仏毀釈の時小松宮にあることが好ましくないといったので、ここに遷したという。 https://murata35.chicappa.jp/rekisiuo-ku/kisaiti04/index.htm あるいは(和久田薫著・星田歴史風土記)では、日南山の東麓にあったものを明治14,5年頃に哮が峰の頂上に移設したともいいます。 碑の刻銘は (太陽)奉祭妙見法 三年成就必 万治二年大坂釣鋳町 (星)乾元亨利貞 正月七日大行院法元 (月)現世安穏為二世安楽也 乾元亨利貞は易経の言葉で、【元は、種子が発芽すること、亨は、成長、利は、開花、貞は、結実。乾(偉大なる天)は、元(おお)いに亨(とお)りて貞「ただ」しきに利(よ)ろし。仁・礼・義・智の4つの徳が循環してやまない。天の健やかで息(や)む事のない功用は宇宙の原動力であり、一頭の龍のように潜伏、顕現、成長、躍動、飛躍から充足にいたる。】ことらしい。 http://www.ginzado.ne.jp/~ryusei/kamohouwa/back/joumyou0410.htm  あまり良くわからないので、これでどうじゃ?  元は春、植物の芽が出てきますね。新しいスタートです。  亨は夏、植物が大きく育ちます。大きく発展していくところです。  利は秋、植物が実をつけ種を作ります。次に繋ぐものを貯めていく大切な時期ですね。  貞は冬、植物の種は大地に散り、春を待ちます。じっくりと次の芽が出るまでに備え、待つのですね。 https://tamai-psychology.com/blog/2020/06/25/i-ching-2/ (和久田薫著・星田歴史風土記)では首長に供物を捧げる意味を示している、とありましたが、これもよく分からん。むしろ、信じる神、その一族が再生するのをじっと待つ、というように思えます。 ■結果  一通り、計画した所を回りました。  この石碑の向きは新しくできた焼却処理場の煙突右手、というのは磐船神社の祭祀するもうひとつの哮が峯の方を向いています。さらに星田神社からは見えませんが、そこから妙見山はー少しずれて妙見山古墳ー南谷山ー哮が峯ー磐船神社の哮が峯がほぼ一直線に並ぶのです。さらにさらに、星田神社からは、冬至の日には妙見さんから少し北にずれますが、旧妙見山や妙見山古墳のあった場所あたりから太陽が出現するという位置関係になっているのでした。ニギハヤヒを太陽神とすると、このラインは古代においては、ここから太陽を拝み、さらに哮が峰に太陽神を祀ったのでしょう。(星田園地の)哮が峰は太陽神たるニギハヤヒ降臨の地には相応しいかと思われます。 ■「タナバタ」あるいは棚機津女についてちょっとメモ https://polygondrill.com/tanabata-of-topic ◆山旅ロガーデータ:2023-09-29 09:43:49 2023-09-29 09:43:49~2023-09-29 13:48:28 合計時間: 4時間4分 平面距離: 9.29km 沿面距離: 9.59km 最高点の標高: 208m 最低点の標高: 35m 累積標高 (上り): 631m 累積標高 (下り): 631m 標高データの種類: 地理院標高

交野山・国見山 Aコープで食料を仕入れてから出発。まずはココから、星田神社の古宮(こみや)です。
Aコープで食料を仕入れてから出発。まずはココから、星田神社の古宮(こみや)です。
交野山・国見山 星田神社の始まりは古宮から。古宮ではニギハヤヒを祀っています。
星田神社の始まりは古宮から。古宮ではニギハヤヒを祀っています。
交野山・国見山 拝殿前から南東方向を見ると、あれは妙見さん(拝殿?本殿?)ではないか。
拝殿前から南東方向を見ると、あれは妙見さん(拝殿?本殿?)ではないか。
交野山・国見山 左側によって南東をみると、妙見東住宅入り口です。あの方向に旧妙見山とそに先には妙見山古墳がありました。冬至にはちょい左の山裾から太陽が登ります。
左側によって南東をみると、妙見東住宅入り口です。あの方向に旧妙見山とそに先には妙見山古墳がありました。冬至にはちょい左の山裾から太陽が登ります。
交野山・国見山 星田神社拝殿から・・・
星田神社拝殿から・・・
交野山・国見山 妙見さんに向かいます。
妙見さんに向かいます。
交野山・国見山 妙見鳥居
妙見鳥居
交野山・国見山 ここから登りますが、いつもキツイ。右手に大きな石碑があって、創建1200年祭の記念碑です。ボクとヨメの名前もあるよ。
ここから登りますが、いつもキツイ。右手に大きな石碑があって、創建1200年祭の記念碑です。ボクとヨメの名前もあるよ。
交野山・国見山 やっと最後の石段
やっと最後の石段
交野山・国見山 拝殿を覗いてみます。
拝殿を覗いてみます。
交野山・国見山 この狛犬は出雲式だそうです。
この狛犬は出雲式だそうです。
交野山・国見山 明治39年の奉納です。
明治39年の奉納です。
交野山・国見山 ご神体の影向石
ご神体の影向石
交野山・国見山 織女石と書いてたなばたせきと読ませるようです。少なくも元禄の頃には「七夕」の地として認識されていました。あるサイトで、当地の七夕伝説は昭和になってからという見解があったので念の為。どうでもいいですけど。
織女石と書いてたなばたせきと読ませるようです。少なくも元禄の頃には「七夕」の地として認識されていました。あるサイトで、当地の七夕伝説は昭和になってからという見解があったので念の為。どうでもいいですけど。
交野山・国見山 織姫子孫が河内天野川におるとな
織姫子孫が河内天野川におるとな
交野山・国見山 スイフト・タットル彗星のかけらが落ちたと。
http://murata35.chicappa.jp/rekisiuo-ku/1511/index.html
この最後の方に記載
スイフト・タットル彗星のかけらが落ちたと。 http://murata35.chicappa.jp/rekisiuo-ku/1511/index.html この最後の方に記載
交野山・国見山 もう一つの影向石(注連縄が張られています)
もう一つの影向石(注連縄が張られています)
交野山・国見山 これは第3の磐座(注連縄なし)。なお、この上はもう禁足地になっています。
これは第3の磐座(注連縄なし)。なお、この上はもう禁足地になっています。
交野山・国見山 豊富稲荷社
ここが物部氏の最高神として祀る「豊受大神」とはこれ如何に?
豊富稲荷社 ここが物部氏の最高神として祀る「豊受大神」とはこれ如何に?
交野山・国見山 白鬚大明神
どういう意図かよくわかlませんが・・・
http://murata35.chicappa.jp/rekisiuo-ku/1505/index.html
を参照ください。
白鬚大明神 どういう意図かよくわかlませんが・・・ http://murata35.chicappa.jp/rekisiuo-ku/1505/index.html を参照ください。
交野山・国見山 一応、三角点を。点名は妙見山です。ここは見晴らしがなくて残念。
一応、三角点を。点名は妙見山です。ここは見晴らしがなくて残念。
交野山・国見山 裏参道(南参道)の階段上に来ました。ここからの見晴らしはよく、左に南谷山、右に日南山を望む。
南谷山の右側にある平たい山が哮が峯でしょう。
裏参道(南参道)の階段上に来ました。ここからの見晴らしはよく、左に南谷山、右に日南山を望む。 南谷山の右側にある平たい山が哮が峯でしょう。
交野山・国見山 妙見東住宅地のメイン十字路にきました。このすぐ先に旧妙見山と妙見山古墳があった模様。
妙見東住宅地のメイン十字路にきました。このすぐ先に旧妙見山と妙見山古墳があった模様。
交野山・国見山 妙見東の中央公園です。古墳を模したマウンド2つ。樹木が茂って、昔の面影はないです。
妙見東の中央公園です。古墳を模したマウンド2つ。樹木が茂って、昔の面影はないです。
交野山・国見山 南谷山まで来ました。妙見山と旧妙見山、妙見山古墳の跡地が指呼の間。
南谷山まで来ました。妙見山と旧妙見山、妙見山古墳の跡地が指呼の間。
交野山・国見山 文字を入れました
文字を入れました
交野山・国見山 星田神社付近にフォーカスして拡大。屋根しか見えませんが。
星田神社付近にフォーカスして拡大。屋根しか見えませんが。
交野山・国見山 ◆この地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成したものです。
◆この地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成したものです。
交野山・国見山 星田神社中心の冬至レイライン
◆https://hinode.pics/ より作成
星田神社中心の冬至レイライン ◆https://hinode.pics/ より作成
交野山・国見山 おまけ:比叡山ー愛宕山方面です
おまけ:比叡山ー愛宕山方面です
交野山・国見山 星のブランコ;後で渡ります。
星のブランコ;後で渡ります。
交野山・国見山 哮ヶ峯に来ました。
哮ヶ峯に来ました。
交野山・国見山 2017年3月は古い山名板が2枚張ってありました。その2ヶ月前は1枚がピークの手前にある高みに張ってました。
2017年3月は古い山名板が2枚張ってありました。その2ヶ月前は1枚がピークの手前にある高みに張ってました。
交野山・国見山 哮が峯の石碑
哮が峯の石碑
交野山・国見山 左から、月 星 太陽
左から、月 星 太陽
交野山・国見山 向きは新しい焼却場の煙突より右側を向いていました。そこは磐船神社が祀りする、もうひとつの哮が峯。その先はもう大和の国です。
向きは新しい焼却場の煙突より右側を向いていました。そこは磐船神社が祀りする、もうひとつの哮が峯。その先はもう大和の国です。
交野山・国見山 さて、久しぶりに渡ります。
さて、久しぶりに渡ります。
交野山・国見山 左手は新しい焼却場の煙突方面
左手は新しい焼却場の煙突方面
交野山・国見山 右手、南谷山と日南山かな、
右手、南谷山と日南山かな、
交野山・国見山 振り返って、右端のほうが哮が峯
振り返って、右端のほうが哮が峯
交野山・国見山 錆びてません、錆びさせています。日鉄の耐候性鋼を使っています。
錆びてません、錆びさせています。日鉄の耐候性鋼を使っています。
交野山・国見山 下山します。
ノササゲ。花が黄色いもんでキササゲと覚えてしまった。
下山します。 ノササゲ。花が黄色いもんでキササゲと覚えてしまった。
交野山・国見山 あ、間違いました。ピトンの小屋へ降りるんだった。仕方がないので、別の日に撮った哮が峯の写真を載せておきます。
あ、間違いました。ピトンの小屋へ降りるんだった。仕方がないので、別の日に撮った哮が峯の写真を載せておきます。
交野山・国見山 再度、妙見宮に帰ってきました。境内にある古い妙見道標ですが、どこにあったんやろか?
再度、妙見宮に帰ってきました。境内にある古い妙見道標ですが、どこにあったんやろか?
交野山・国見山 登り龍の滝と不動明王で締めとします。
登り龍の滝と不動明王で締めとします。

活動の装備

  • その他(Other)
    Xiaomi11T
  • スカルパ(SCARPA)
    クラックス
  • ミレー(MILLET)
    M08842

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