活動データ
タイム
02:55
距離
3.8km
のぼり
410m
くだり
405m
活動詳細
すべて見る前回南鈴鹿を歩いた時に飯道山が見えたんです。 画像のキャプションで、「飯道山はまだ未踏。来年の春くらいには行きたいな…年内でも行けるか?」と書いたんですが…思い立ったが吉日!善は急げ!早速飯道山に行ってみることにしました! 飯道山は元々JR貴生川駅からのルートで考えていたんですが…最近仕事がハードでキツいんですよ(~_~;)なので今回は宮町登山口からショートで! 飯道神社にも寄れますし、飯道神社では行場巡りも…えっ!また行場巡り!?…せっかくですし、ショートですし、行場も巡りましょう!(^-^) さらに地図を眺めていて気付いちゃったんです! すぐ近くに聖武天皇が築いた紫香楽宮の遺跡があるではないですか!? これは古代史ヲタクとしては垂涎もの!ショートで下山が早くなるだろうし、これは行かないわけにはいきません! というわけで、本日は飯道神社行場巡りからの飯道山+紫香楽宮跡散策を満喫したいと思います! 7:00に宮町登山口駐車場に到着。 気温-2℃!キンキンに冷えとるがな!天気はまあまあよさそうです。 7:30に出発! 飯道山は山全体が神域です。鳥居を潜って山に入る。登山口すぐそばの白髭神社でまずは安全祈願。 道はとてもよく整備されています。階段が多い。飯道神社の参道なんでしょうね。 飯道神社までは七丁。800mありません。ひたすら登り続けると、山の中に石垣がたくさん残されている。 実は過去この飯道山は山全体が飯道寺というお寺だったんです。往時には山の中にたくさんのお堂が建ち並び興隆を極めた修験寺院であったそうです。 明治時代になって寺院は廃され、その建物はほぼ全てが失われました。現在残っているのは飯道寺の鎮守社である飯道神社の本殿だけです。 しかしここには行場が残されている!(^^) 修験者たちが厳しい山岳修行を行なった行場…これも間違いなく飯道寺の名残と言えるでしょう。 とかなんとか言っているうちに、出発からおよそ30分、飯道神社に到着です!☆ 本殿に向かう石段の手前を左に進んで、まずは行場巡りに行きましょう! しばらく進むと「天狗の岩」がお出迎え。花崗岩の巨岩ですね。この岩は眺めるだけです。岩の中腹辺りに小さなお社があるので、行場での安全を祈願しておきます。 ここからは急坂下り。一枚岩の鎖場の下りなんかもあります。 ほどなく「不動の押し分け岩」に到着。巨岩の岩と岩の狭い隙間を潜り抜けます。こりゃあ、狭いぞっ!(*_*) 今までもいろんな山で、このような岩の隙間を潜ってきましたが、全然レベチ!めちゃくちゃ狭いです。当然ザックなんて背負ってたら通れませんから、ザックは置いていきます。 少し湾曲した隙間に合わせて、体を横に向け岩に腰掛けるような感じで、ズリズリと少しずつ進んで行く。狭いところは幅が20cmくらいしかない。後頭部に岩壁。そして目の前5cmくらいの所にも岩壁。顔すら擦りそうになりながら、なんとか通過!*\(^o^)/* ザックを取りに戻ってお隣の「平等岩」へ。 スゴい岩です。砲弾の先端を立てたような形状の、高さ4mくらいの巨岩。そのテッペンから2本の鎖が降ろされている。岩の8合目辺りには、岩を一周する鉄の輪が付けられている。 1本は鎖の最下部に足を乗せる木の板が付いています。もう1本の鎖はほぼ垂直。 まずは木の板付きの鎖に取り付く。小さいですがなんとか足場は確保できる。ただ掴むところがない。鎖を掴んで体制を維持する。鉄の輪に手を掛け体を持ち上げます。最後はテッペンに付いている鎖を固定する金具に手を掛け一気によじ登る! ふぁ〜、登ったぁ。。。怖ぇ〜 …っつーか、どーやって下んねん!(>_<) なんとか下りてもう1本の鎖に取り付く。アカン…掴むところも足場もない…垂直やん…ムリや、あきらめよ(~_~;) 少し進むと安全に神社に戻れるエスケープルートがあります。というのも、ここまでの行場にはそばに登山道がついていて、行場に挑まなくても進むことができるんです。しかしここから先は行場を通らなくては先へ進めない。 ここまでの印象で、体力的にも技術的にも無理だと思われた方は、このエスケープルートで戻ってください、ということです。 もちろん先に進みます(^^) 次の行場は「蟻の塔渡り」。右は山の斜面で大きな垂直の岩の壁。左にも大きな岩が直立していて、その左右の岩壁に挟まれた狭い隙間に、薄い板のような岩が挟まっています。その包丁の刃先のような薄い岩の上を、右の壁に付けられた鎖を頼りに歩き、岩と岩の隙間を通り抜けるという行場です。 歩く岩の幅は、足が着くところで10cmくらいか?しかも自然の岩なので平らなわけではない。 凹凸のある薄っぺらい岩の上を、鎖を握り進む。しかも取り付き部分は左の岩がないので、奈落の底が丸見え!そんな状態で岩の平均台の上を歩くんですよ!これは怖かったなぁ! 岩と岩の隙間に入ればもう恐怖感はない。無事通過(^^) 矢継ぎ早に次の行場「胎内くぐり」が現れます。 鎖を辿って狭い岩の穴の中に潜り込んで行く。思ったより狭い!(>_<) ザック、邪魔やな…体は通りそうだけど、ザックが… 最後はザックを岩に擦り付けながらなんとか通過。 ザックを手で持って先に進ませればよかった… 進む道も険しい。ロープ場、鎖場なんて当たり前です。しばらく登ると「岩上」の行場に到着。 ここは大きな岩壁を鎖で登る行場です。距離は少しあるものの、岩に傾斜もついてますし、掴めるところや足場もしっかりしてますから、それほど難しくはありません。案内板には「最大の難所」と書かれていましたが、そーでもないです。 登り切りました!その岩上からの眺めは…ちょっと木が邪魔(^_^;)登り切って絶景だったらよかったんですけどね。 しばらく進むと最後の行場、「東ののぞき」に到着です。神社はすぐそこ! 最後の行場と書きましたが、行場でもなんでもないただの展望台です。もちろん昔はここで壮絶な修行が行われていたんでしょうけど、私たちは景色を楽しむだけ(^^) 一応覗き岩から下を覗き込んでみたんですが、眼下にゴルフ場があるので、全然怖くないですね(^_^;) 行場巡り一周およそ40分。無事に飯道神社本殿に辿り着きました!*\(^o^)/* ちょうど本殿の裏側から山を下りてくる感じです。 本殿に行場巡りの無事を報告して感謝のお参り。 朱塗りの立派な本殿ですねー!入母屋造りですね?江戸時代の再建とのことなので、江戸時代ならこーなるのかなー?きっと奈良時代の創建当初は切妻のもっと質素な感じだったんでしょーね。 昭和の修理において朱塗りが施されたそうです。立派な本殿です☆ では飯道山山頂に向かうことにします。 入り口の鳥居の横に東照宮跡があって、その奥の木の階段を上がって登山道を進みます。 静かな木立の中の一本道。道沿いにはたくさんの石垣。どれだけのお堂が建ち並んでいたんだろー?相当な規模のお寺だったんですね。 一旦林道に出て少し進み、道標に従って左の登山道に入る。 笹に囲まれた一本道は穏やかな上り。山頂まで急坂なんてものは一切ありません! 途中展望台に立ち寄りますが、少し霞みが強くて遠望は望めませんでした。澄んでいると白山が見えるそうです。今日は伊吹山すら見えなかった…(ー ー;) そうこうしてるうちに、神社からおよそ30分、9:15飯道山山頂に到着です!*\(^o^)/* 想像していたより狭い小広場ですが、よく整備されていて気持ちいい山頂です。 ベンチが2つ、テーブル付きの立派なベンチが1つ。西から北が広く開けていて展望良好! すぐ近くには阿星山、近江富士三上山も見えます。その向こうには琵琶湖! 気温はそれほど上がってないようですが、風がないので寒さは感じません。少し休憩します。 今日の休憩のお供はワッフルとコーヒー。いつもコーヒーは粉のインスタントなんですが、今日は気分を変えてドリップコーヒーです。 あー、やっぱドリップすると香りが立つし、角がなくてマイルドで美味しいなぁ…☆ただ湿ったゴミは処理が大変。何も考えてなかった(ー ー;) ゆっくり35分休憩して、9:50下山開始。 下山は別ルート。杖の権現を経て、林道、舗装路を歩き神社まで戻る。後は登って来た道を軽快に駆け下りるだけ。 山頂からおよそ35分、10:25無事に駐車場まで戻って来ました*\(^o^)/* 結構車が増えてますねー。飯道山も人気やな☆ さあ、今日はまだあります!もしかするとここからが本番かも!? 車移動およそ10分で、信楽高原鐵道、紫香楽宮跡駅前の無料駐車場へ。紫香楽宮跡を散策します! 紫香楽宮は聖武天皇によって平城京から遷都された恭仁京の離宮として、742年に造営が始められた宮なんですが…この紫香楽宮、私にとっては全く理解できない謎の宮なんです。 恭仁京はまだなんとか理解できる。でも紫香楽宮は謎だらけです。その謎とは… 1…恭仁京との関連性は? 2…なぜ信楽に大仏? 紫香楽宮は離宮として造営されたとありますが、発掘された宮の状況を見ると、これはもはや離宮ではありません。 大安殿があって、その南側には東西に朝堂の建物がある。その間は広大な広場…朝庭ですね。 大安殿の北側には内裏と思われる建物も発見されていますし、周辺からは官衙施設の建物群も見つかっています。 これはまさに政治機能を有する宮です。離宮などという規模では収まらない。 さらに新宮地区では大路跡が見つかっています。宮の中央から南に向かって大路が伸びていたわけです。そしてその大路は甲賀寺に繋がっている。 これはまさしく朱雀大路ですよ。周辺の条坊の様子は分かりませんが、聖武はまさにこの場所に京…つまり都を築こうとしていたと考えられます。 しかし740年、勅命により造営が開始され、741年に平城京から遷都された恭仁京もまだ完成には至ってません。新しい都、恭仁京が造営途中にも関わらず、さらに信楽に新しい都を造営!? 743年に聖武が紫香楽宮に移ると、恭仁京の造営は未完のまま中止される。何だったんだろー、恭仁京? さらに聖武は743年、紫香楽宮において有名な「大仏造立の詔」を発する。紫香楽宮、甲賀寺に巨大な盧舎那仏を造立するというのだ。 744年には大仏の体骨柱が立てられましたが、その際の儀式では聖武自らが綱を引いたと伝わりますから、聖武の大仏に賭ける熱意が感じられます。 しかし翌年745年には周辺で山火事や地震が相次ぎ、大仏の造立、そして紫香楽宮造営は中止され、都は平城京に戻されることになりました。 そして平城京において造立が再開され、完成に至った大仏…それこそが東大寺の大仏なのです。 もし大仏が紫香楽宮で完成していたら…「奈良の大仏」ではなく「滋賀の大仏」、なんて呼ばれることになったんでしょーね(^_^;) 私は「大仏造立の詔」を藤原への「宣戦布告の詔」だと考えています。大仏は藤原に対するアンチテーゼ、反藤原の象徴として造立されたのでしょう。 大仏の造立を、藤原に厳しく弾圧されていた行基に依頼したこともそう。聖武と行基を取り持ったのが、藤原の政治に反意を訴えていた吉備真備であったこともそう。 聖武は大仏造立に当たって、行基の下に集まる優婆塞およそ700人を僧として認める許可を下している。これでは藤原の面目は丸潰れである。 大仏が造立された場所にも注目したい。 平城京には東側に張り出した区画があって、ここを外京という。ここには藤原の氏寺である興福寺や、氏神を祀る春日大社がある。つまりこの外京は藤原のための区画なんです。しかも外京は御蓋山に向かって少し高台になっている。天皇のいる平城宮すら見下ろすのが藤原なのだと言わんばかりの立地です。元々平城京というのは藤原による藤原のための都とも言えるのですが… 大仏はその外京のすぐ北側の、さらに高台に造立されました。そしてそこに東大寺という巨大な官寺を造営したのです。まさに藤原の動きを監視し、首根っこを抑えるには最も適した場所。 しかし信楽は…? 信楽に大仏を造っても藤原に対して何の影響力があろうか? 恭仁京との関連性を考えても、信楽に大仏を造ろうとしたことにしても、聖武が何を思い何を考えていたのか全く理解ができない… そんな時こそフィールドワーク!フィールドワークは私の古代史研究の基本の"キ"! 自分足で歩いて、自分の目で見れば、きっと糸口は見つかるはずです。 それでは紫香楽宮跡を歩いてみましょう!(^^) 紫香楽宮跡駅から住宅街を抜けて県道に出ると、そこに紫香楽宮趾の石碑がある。ここは紫香楽宮跡内裏野地区という所で、ここには大仏が造られた甲賀寺の遺跡が残されています。 公園のように整備された木立の中を少し北に向かって歩くと、開けた場所と石碑があります。中門跡…甲賀寺に到着です。 驚いたのは柱の礎石がほぼ完全に残っていること。奈良時代の遺跡でこれほどまでに礎石が完存しているのは珍しい。 間口三間、奥行ニ間の門。礎石の大きさから柱の太さが想像できる。かなり太い柱が立っていたようですが、門としてはそれほど規模の大きなものではありません。 門のすぐ奥には金堂跡があります。ここの礎石も完存している。 間口七間、奥行四間の横長の建物です。かなり大きな建物ですが…ここに大仏を安置するのは無理ですね。 東大寺の大仏殿を見てくださいよ!あの大きさがないと、とてもじゃないが大仏を安置するなど不可能です。 しかも甲賀寺では大仏造立中に、すでに金堂が建っていたということですよね。完成した建物の中に大仏を入れるなんてことは到底できない。大仏が完成した後に、覆屋のように建物を組み上げるんです。なのでこの金堂に大仏はなかった… では一体どこで大仏は造られていたのでしょうか? おそらく別の区画に大仏殿のような大きな建物を建てる計画だったのでしょう。しかし大仏は体骨柱を立てただけで造立が中止されています。建物などを建てる段階では全くない。残念ながら大仏がどこで造られていたのか…それを探る手掛かりは全くありません(T-T) その他、講堂、五重塔、塔門、鐘楼、経楼、僧坊などの建物の礎石が完全に残っています。 伽藍自体は空間が少ない印象です。たくさんの大きな建物がコンパクトにぎゅっと詰まっている感じ。 それにしても僧坊の規模が大きい!一体何坊あってどれほどの数の僧がいたかはわかりませんが、寺の規模に対して僧坊がかなり大きいと感じます。 もしかすると行基の下に集まった優婆塞…後に聖武に許可され僧となった者たちの一部が、この甲賀寺で生活しながら大仏造りに従事していたのかもしれませんね。 甲賀寺跡を抜けてさらに北へと進む。黄瀬交差点近くが鍛冶屋敷地区。ここでは鋳造施設や官衙施設が発見されました。 今は埋め戻されていて、「紫香楽」にちなみ、「紫」の「香り」を「楽しめる」ようにと、ラベンダーの栽培が行われています。 さらに北へ。新名神高速の真下辺りが新宮地区です。ここでは大路跡が発見されましたが、ここも見てわかるような遺跡はありません。 さらに北に進み落合橋まで来ると、この先はいよいよ宮町地区。紫香楽宮跡です! 登山口の近くまで歩いて戻って来ちゃったな(^_^;) 見上げた先には今朝歩いた飯道山がすぐそこに見えています。 いよいよ紫香楽宮に足を踏み入れます!…が、、、そこにあるのは一面の田んぼ。宮の痕跡は一切ありません。 しかも田んぼの区画と宮の軸線は大きく斜めにズレてるんですね。田んぼを斜めに見なければならないので、どうにもこうにも宮が想像しづらい。 結局何もわからなかった… でも、町の姿は変わっても見える山並みは同じなはず。 聖武もきっと同じ山並みを見た。きっと飯道山を見たに違いない。そう思うだけで来た甲斐があったというものです。 では戻ります。 駐車場までが遠い!(>_<) YAMAPを起動させていなかったので正確な距離はわかりませんが、おそらく往復で6〜7kmくらいは歩いてます。登山より全然距離が長い!一体どっちが主役?(^_^;) 駐車場に戻るまでの間、なぜ恭仁京が完成してもいないのに紫香楽宮を造ろうとしたのか…?なぜその地が信楽でなければならなかったのか…?考え続けました。 わからない… これはもうタイムマシンに乗って、聖武に直接聞きに行くしかないですね!ただ…ただ今は… 見上げた青空が、1280年前に聖武が見上げた青空と同じ青空だと…そう信じたい… 今日の総括! 飯道山、いい山です! 貴生川駅から歩けばまた印象は違うのかもしれませんが、宮町登山口からは距離は短いながらも、飯道山の歴史を感じることのできる素晴らしいルートでした。行場巡りもいい経験になりましたし…というか、最近行場ばっかりやな!気分は修行僧ですよ(^_^;) 紫香楽宮跡は、結局研究テーマが増えただけ!ダンノダイラも手付かずなのに、紫香楽宮まで手が回らないよー!(>_<) でもこれって幸せなことですよね。ずっと勉強できるってことですから。 人生勉強!勉強することをやめたら人生終わりです。今回、紫香楽宮という新しいテーマをいただいたことで、また少しだけ生き延びることができそうです。 古代史の謎は尽きんなぁ…
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