過去の山旅-1977年剣岳北方稜線~下の廊下

1977.10.01(土) 3 DAYS

チェックポイント

DAY 1
合計時間
11 時間 38
休憩時間
5
距離
15.8 km
のぼり / くだり
2322 / 879 m
2 26
41
42
1 39
2 43
2 3
13
20
DAY 2
合計時間
10 時間 52
休憩時間
24
距離
9.2 km
のぼり / くだり
1470 / 1747 m
1 53
40
1 52
11
31
22
13
14
1 16
DAY 3
合計時間
12 時間 13
休憩時間
0
距離
23.3 km
のぼり / くだり
2023 / 2351 m
9
1 5
1 46
25
29
1 56
52
2 51

活動詳細

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コロナ対策_お家で登山記録の整理、第三弾は1977年の剱岳北方稜線~下の廊下登山記録です 時系列と公開順序は一致していません 暇に任して過去の記録の投稿をしています この時の山旅は、欅平から入山して池の平小屋~小窓雪渓を横断し北方稜線経由で二度目の剣岳に登った時の物です 阿曽原~池の平間のルートも現在とは違っているようです この後、再び阿曽原まで下り下の廊下を歩きました この時の旅では池の平小屋の御主人に北方稜線の事を訊ねたら「教えることは出来ない」と言われた事を覚えています 写真は、ネガフィルムをスキャンして起こしたのですが40年の月日の中で、私の思い出と同様にかなり色あせています 剱岳北方稜線: 剱岳の北へ続く稜線は裏剣と呼ばれる日本離れした景観を望みながら縦走するバリエーションルートの入門コース 長い行動時間に加え、岩場の登下降、ガレ場の通過、雪渓歩きと登山の総合力の問われるルート。 仙人池・池ノ平から見る裏剱の姿はそこを訪れたものにしか目にすることのない景色です 下の廊下: 黒部峡谷の中でも心臓部に当たる区間で、花崗岩の岩壁の間に激流が流れ、下流からS字峡、十字峡、白竜峡などの絶景地がある。S字峡はSの字のごとく、両側に岩壁が複雑に入り組み、激流が左右にぶつかり、飛沫を上げることから名付けられている。十字峡は原始林に覆われ、岩壁を割って左岸から剱沢、右岸から棒小屋沢がほぼ同じ場所に合流し、黒部川本流と合わせて十字を形作っている地点である。白竜峡は花崗岩が白壁をなす岩壁が連続する秘境となっている 欅平から仙人谷までは水平歩道が、その上流では日電歩道が黒部ダムまで続いていて、上級者向けの登山道として利用されているが、峡谷に残る残雪が初夏になって消えてから道の整備が始まること、また11月に入ると凍結や積雪が始まることから、このコースを通行できるのはその間の1 - 2か月に限られる。最も賑わうのは紅葉が美しい10月で、阿曽原温泉小屋は、冬季は雪の重みによる倒壊を避けるため解体して部材をトンネルにしまってから小屋主らが下山する 川面から数十~百メートルほどの高さを谷の絶壁に沿って通された幅員狭小の区間が長く続く難易度の高いコースであり、2019年には10月だけで5人が転落死するなど事故が絶えない。富山県が公表している山のグレーディングでは、欅平から黒部ダムまでのルートの体力度は、技術的難易度は最高レベルの「E」とされている 黒部を舞台にした作品は黒四ダム関係を始め多いと思いますがこの当時は「高熱隧道」が一番のお気に入りで登山をしながら小説の場面を思い起こしていたものです 吉村昭 小説「高熱隧道」: 小説は日本電力黒部川第三発電所(現関西電力に移管)水路トンネル、欅平駅~軌道トンネル(現関西電力黒部専用鉄道)の工事現場や人間関係について、建設会社の現場土木技師の目を通じて描いた作品である。同発電所は1936年着工、1940年工事完了した (あらすじ) 黒部川上流の黒部峡谷は、雨量、河川勾配から、早くから電源開発の最好適地として注目され、欅平から上流にダムを設置し、欅平付近の水力発電所まで水路トンネルで水を落下させて発電を行なうという黒部川第三発電所の建設工事が1936年8月に着工された。 そこは、資材を運搬するだけでも転落死する者が出るほどの、秘境に近い環境だった。紆余曲折の末、富山県の建築会社である佐川組は、発電所から峡谷までの水路・人道の建築を担当することになり、佐川組の技師である藤平、根津達は黒部峡谷を訪れる ところが、工事現場の地下には高熱の断層が通っており、わずか30m掘り進んだだけで岩盤温度は摂氏70度を超えた。それどころか、地質学者たちの予想などを軽々と裏切って、岩盤温度は奥に進むにつれて上昇を続け、ついには触れただけで火傷を起こすほどにまで達する。 藤平たちは、作業者に水をかけて冷却するなどの策を講じて工事を進めていく。しかし、岩盤の温度によってダイナマイトが自然発火・暴発を起こしたのを皮切りに、泡雪崩で鉄筋コンクリート造の宿舎が根こそぎ飛ばされるなどの事故が発生し、異例の数の犠牲者が出ていく。技師の中にも、精神に異常をきたして冬山に失踪する者が出たりした。そしてとうとう岩盤温度は摂氏166度を記録し、史上類を見ないほどに過酷な環境が形成されていった。この過程で、犠牲者の発生を見続けた作業者の間で不穏な空気が漂っていった あまりにも犠牲者が多いことから富山県警察部から再三に渡って工事中止命令が出されたが、国策ということで工事は続けられ、藤平たちの達の執念の末にとうとう隧道は貫通する。しかし、既に彼ら技師と作業者たちの溝は埋めがたいものとなっていた。喜ぶのも束の間、藤平たちは「工事が終わったら袋叩きする」という人夫頭の警告を受け、暗いトンネルの中を逃げるように歩いて峡谷を去って行った。 日本電力は、この難工事を最後に電力管理法により解体され、土木技師は国内・外に散った

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