活動データ
タイム
03:01
距離
8.5km
のぼり
281m
くだり
285m
活動詳細
すべて見るもし…後北条氏と里見氏が1567年に三舟山合戦が相野谷(あいのやつ)で起きていなかったら?後北条氏の佐貫城侵攻ルートが気になった。そのための調査です。 ※補足 房総往還が三舟山〜本郷〜相野谷〜佐貫とあるので。そのルート(本来だと、そこが西佐貫道のはずなのだが?)としてあり、後北条氏はそこから攻める途中で…待ち伏せした里見氏と合戦した可能性もあります。今日たどった西佐貫道からの侵攻ルートは、あくまで筆者の想像です。 本来なら…後北条氏の野戦築城である三舟山から行くべきだが😅本日は時間なく😅郡ダムの連絡路からスタート。すでに、たけだやさんやレフさんが走破されているヤブ古道。とはいえ…鉄塔管理路だけは道筋はしっかりとしてます。一部に倒木・篠竹やや薄めのヤブ、道筋がやや崩れたところあり。分岐も多く😅路間違いもしやすい。 岩富城跡は妙覚山岩富寺も兼ね備えた中規模の城跡でした。岩富寺の歴史は古く(google調べ)飛鳥時代(660年)開山。富津市最古の古刹ですが…明治維新の神仏分離・廃仏毀釈にて寺そのものが廃れ、先の大戦末期では空襲にて大半の伽藍・仏像が燃え…平成期に住職他界後、離れたお寺の住職である息子さんに維持はされているというが…現状は無人寺で、人の出入りはあまりなくという感じ。 寺社仏閣エリアをそのまま城跡へ使うのも、戦国期では割とあるのですが…ここは当時の佐貫城への主要ルートではないか?という、かねてからの私の読みが当たったのは…城跡から少し南に離れた石碑にて「西佐貫道」と書かれたものを見つけたからだ。三舟山合戦が起こらず、後北条氏がこのルートから岩富城跡を落城させていたのならば…里見氏は安房に閉じ込められたか?滅亡していたのかもしれない。 ピストンにて往復路を戻り、花はなの里のカフェにて、おかみさんに「今日は岩富城跡を古道から歩きました」「先月は三舟山合戦の痕跡探しに三舟山のバリルートから降り立ちました」と話すと…面白い答えが😳 花はなの里も含めたこの土地の呼び名は…里見氏が周辺の地侍に呼びかけた時の侍苗字などが地名になっているとの話。おかみさんの御主人が古くから花はなの里の土地にいるため間違いないのでは?との事。それだけ里見氏は戦国期の富津では名声が高かったこともわかった。 里見氏は仁政をおこなった言い伝えが残っていた事も知る…地元城跡探索となった。
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