江戸時代の古道…西佐貫路 岩富城跡もあり

2025.02.15(土) 日帰り

チェックポイント

DAY 1
合計時間
3 時間 1
休憩時間
15
距離
8.5 km
のぼり / くだり
281 / 285 m
1 30
30
45

活動詳細

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 もし…後北条氏と里見氏が1567年に三舟山合戦が相野谷(あいのやつ)で起きていなかったら?後北条氏の佐貫城侵攻ルートが気になった。そのための調査です。 ※補足 房総往還が三舟山〜本郷〜相野谷〜佐貫とあるので。そのルート(本来だと、そこが西佐貫道のはずなのだが?)としてあり、後北条氏はそこから攻める途中で…待ち伏せした里見氏と合戦した可能性もあります。今日たどった西佐貫道からの侵攻ルートは、あくまで筆者の想像です。 本来なら…後北条氏の野戦築城である三舟山から行くべきだが😅本日は時間なく😅郡ダムの連絡路からスタート。すでに、たけだやさんやレフさんが走破されているヤブ古道。とはいえ…鉄塔管理路だけは道筋はしっかりとしてます。一部に倒木・篠竹やや薄めのヤブ、道筋がやや崩れたところあり。分岐も多く😅路間違いもしやすい。 岩富城跡は妙覚山岩富寺も兼ね備えた中規模の城跡でした。岩富寺の歴史は古く(google調べ)飛鳥時代(660年)開山。富津市最古の古刹ですが…明治維新の神仏分離・廃仏毀釈にて寺そのものが廃れ、先の大戦末期では空襲にて大半の伽藍・仏像が燃え…平成期に住職他界後、離れたお寺の住職である息子さんに維持はされているというが…現状は無人寺で、人の出入りはあまりなくという感じ。 寺社仏閣エリアをそのまま城跡へ使うのも、戦国期では割とあるのですが…ここは当時の佐貫城への主要ルートではないか?という、かねてからの私の読みが当たったのは…城跡から少し南に離れた石碑にて「西佐貫道」と書かれたものを見つけたからだ。三舟山合戦が起こらず、後北条氏がこのルートから岩富城跡を落城させていたのならば…里見氏は安房に閉じ込められたか?滅亡していたのかもしれない。 ピストンにて往復路を戻り、花はなの里のカフェにて、おかみさんに「今日は岩富城跡を古道から歩きました」「先月は三舟山合戦の痕跡探しに三舟山のバリルートから降り立ちました」と話すと…面白い答えが😳 花はなの里も含めたこの土地の呼び名は…里見氏が周辺の地侍に呼びかけた時の侍苗字などが地名になっているとの話。おかみさんの御主人が古くから花はなの里の土地にいるため間違いないのでは?との事。それだけ里見氏は戦国期の富津では名声が高かったこともわかった。 里見氏は仁政をおこなった言い伝えが残っていた事も知る…地元城跡探索となった。

三舟山 写真上は郡ダムの連絡路沿いにある廃神社。ヤブがひどく、ロープが張られている路をたどると…倒木や倒竹がひどく😓行く価値はなし。灯籠と倒れた手水舎しかない。
写真下、郡ダムの連絡路から南にあるバリルートにて見つけた祠
写真上は郡ダムの連絡路沿いにある廃神社。ヤブがひどく、ロープが張られている路をたどると…倒木や倒竹がひどく😓行く価値はなし。灯籠と倒れた手水舎しかない。 写真下、郡ダムの連絡路から南にあるバリルートにて見つけた祠
三舟山 残念ながら…小山野砦の痕跡は郭がある広場が倒木ひどく確認出来ず。

写真はたぶん岩富城跡北側の城跡痕跡。
左上 郭?
右上 不自然に尾根が断ち切られた様子
左下 通過した際の後方に、人力で削られた岩場
右下 ここから古道が明瞭に
残念ながら…小山野砦の痕跡は郭がある広場が倒木ひどく確認出来ず。 写真はたぶん岩富城跡北側の城跡痕跡。 左上 郭? 右上 不自然に尾根が断ち切られた様子 左下 通過した際の後方に、人力で削られた岩場 右下 ここから古道が明瞭に
三舟山 上段左の十一面観音以外は…途中に見つけた城跡北側の郭にて大量に置かれた石仏群。

年号が古い順だと…元禄・正徳・享保と江戸中期ごろのものばかり
上段左の十一面観音以外は…途中に見つけた城跡北側の郭にて大量に置かれた石仏群。 年号が古い順だと…元禄・正徳・享保と江戸中期ごろのものばかり
三舟山 元禄・宝永・延享の石仏群…江戸中期までの岩富寺は古刹としての存在感を残していたのかもしれない。

写真下段右の梵字?わかる人教えてくださいませ🙇
元禄・宝永・延享の石仏群…江戸中期までの岩富寺は古刹としての存在感を残していたのかもしれない。 写真下段右の梵字?わかる人教えてくださいませ🙇
三舟山 左上 腰曲輪がある尾根。炭焼き窯の跡もあり
右上 尾根が不自然に凹と…堀切跡?
左下 立派な切り通し(路の為のもの)
右下 尾根を寸断したもの。おそらくこちらは堀切
左上 腰曲輪がある尾根。炭焼き窯の跡もあり 右上 尾根が不自然に凹と…堀切跡? 左下 立派な切り通し(路の為のもの) 右下 尾根を寸断したもの。おそらくこちらは堀切
三舟山 左上 城跡北側にもすこし広めの郭が二つほどあった。石仏群があったとこと、この写真の場所
右上 写真ではわかりにくいが…二重堀切
左下 たぶん堀切。やたら路から左手にある尾根が凹になっている。戦国期は街道沿いから来る敵を、尾根側に射手がいて防いでいたのかも?
右下 何撮ったか?忘れたが…たぶん別の郭跡

街道沿いの地形なので、高低差はあまりないが…街道筋からいくつもの郭を突破しなければならない
左上 城跡北側にもすこし広めの郭が二つほどあった。石仏群があったとこと、この写真の場所 右上 写真ではわかりにくいが…二重堀切 左下 たぶん堀切。やたら路から左手にある尾根が凹になっている。戦国期は街道沿いから来る敵を、尾根側に射手がいて防いでいたのかも? 右下 何撮ったか?忘れたが…たぶん別の郭跡 街道沿いの地形なので、高低差はあまりないが…街道筋からいくつもの郭を突破しなければならない
三舟山 写真は城跡中心部の北側・南側にあった堀切。ここまで堀切が多い城跡は…峰上城跡の連続堀切以来
写真は城跡中心部の北側・南側にあった堀切。ここまで堀切が多い城跡は…峰上城跡の連続堀切以来
三舟山 城跡の主郭付近を撮影。

岩が多いから…この地が岩富という地名になったのがわかりやすいくらい示している
城跡の主郭付近を撮影。 岩が多いから…この地が岩富という地名になったのがわかりやすいくらい示している
三舟山 年号天明(江戸後期)の道標に書かれた…西佐貫道の文字というか…これもお墓かよ😭道沿いに置くとか😭
年号天明(江戸後期)の道標に書かれた…西佐貫道の文字というか…これもお墓かよ😭道沿いに置くとか😭
三舟山 この地蔵から先に進むと…館山道にかかる陸橋舗装路に続いていた。館山道が作られる前、山林には街道があったのだろうか…

終
この地蔵から先に進むと…館山道にかかる陸橋舗装路に続いていた。館山道が作られる前、山林には街道があったのだろうか… 終

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