富雄川を河口まで降って大和川に乗り換え

2023.02.22(水) 日帰り

チェックポイント

DAY 1
合計時間
8 時間 3
休憩時間
8
距離
28.3 km
のぼり / くだり
70 / 50 m
8 2

活動詳細

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 前回、2/5に富雄川を降り始めましたが、時間切れにて小泉で終わってしまいました。今日はその続きで、富雄川河口(大和川合流点)を経由して、大和川に乗り換え、できれば海石榴市まで行きたいですが、無理かなあ。  本日は8時ちょっと前自宅発、8:26星田発電車、木津回りで大和小泉9:52着。これでは無理やなあ。放出回りでも8:30星田発で、9:40大和小泉。あまり変わらん。要はもっと早起せえということか。  富雄川河畔の道はすばらしく、よいウォークになりました。さらに廣瀬大社の佇まいも落ち着いた雰囲気を醸し出していてすばらしく、古来からの船運の様子もうかがえました。最初はお地蔵さんウォッチでしたが、廣瀬大社でオオナムチの雰囲気もうかがえるようになってきたのも面白い。 詳細はキャプションにて。 ※写真の関係で、前編は広瀬神社の先で大和川に出会うまで。それ以後、三輪の打会橋までを後編とします。 ■山旅ロガーデータ 切捨後 2023-02-22 09:56:55 2023-02-22 09:57:56~2023-02-22 18:02:34 合計時間: 8時間4分 平面距離: 28.75km 沿面距離: 28.90km 最高点の標高: 71m 最低点の標高: 34m 累積標高 (上り): 598m 累積標高 (下り): 579m 標高データの種類: 地理院標高

矢田丘陵・法隆寺 「市場の楠地蔵」
由緒書
「昔富雄川の下流から逆に流れつい た楠の化石と俗称されている六字名 碑と半内の石地蔵名号碑の正面 (天正二年甲成十一月十五とあり光 背正面)天明八戌甲正月二十四日以 助力、道入建之表裏 御神前 嘉永六発五歲 十二月吉日 以光施主市場半右衛门

高さ六尺五寸巾二尺五寸余厚さ一 尺内外板碑型で縦に筋の多い一種の 水成岩だから楠地蔵と呼ばれる 天の地蔵の光背の右肩に淡赤く色 付いている此れは昔此の前で相撲を 取って戯れていた子供に此の右帰 が濡れ掛り下敷になって腸か飛び出 して死んだ其の時の血痕と云はれて いる 恐ろしいが一方でなんでも聴 下さる有難い佛様だといい傳へ られている。」
参考:
https://blog.goo.ne.jp/mnjr05gob/e/88cd2bb2d1a69a581392c5e981a1a133
「市場の楠地蔵」 由緒書 「昔富雄川の下流から逆に流れつい た楠の化石と俗称されている六字名 碑と半内の石地蔵名号碑の正面 (天正二年甲成十一月十五とあり光 背正面)天明八戌甲正月二十四日以 助力、道入建之表裏 御神前 嘉永六発五歲 十二月吉日 以光施主市場半右衛门 高さ六尺五寸巾二尺五寸余厚さ一 尺内外板碑型で縦に筋の多い一種の 水成岩だから楠地蔵と呼ばれる 天の地蔵の光背の右肩に淡赤く色 付いている此れは昔此の前で相撲を 取って戯れていた子供に此の右帰 が濡れ掛り下敷になって腸か飛び出 して死んだ其の時の血痕と云はれて いる 恐ろしいが一方でなんでも聴 下さる有難い佛様だといい傳へ られている。」 参考: https://blog.goo.ne.jp/mnjr05gob/e/88cd2bb2d1a69a581392c5e981a1a133
矢田丘陵・法隆寺 右側のお地蔵さんは、もうお顔もツルツルで判読できず、左側のお地蔵さんはちょっと微笑んでおられるよう。祠には小さな縁台に座布団多数。お参りがてらに井戸端会議もできそう。
右側のお地蔵さんは、もうお顔もツルツルで判読できず、左側のお地蔵さんはちょっと微笑んでおられるよう。祠には小さな縁台に座布団多数。お参りがてらに井戸端会議もできそう。
矢田丘陵・法隆寺 横にある一本松大明神。オイナリサン
扉を開けて写すべきだったか。
横にある一本松大明神。オイナリサン 扉を開けて写すべきだったか。
矢田丘陵・法隆寺 富雄川降り再出発。
富雄川降り再出発。
矢田丘陵・法隆寺 すぐに、梅鶴稲荷大明神
鳥居には令和二年元旦建立と書いていますが、背後の石碑は古色蒼然。
こういうの一つ一つ探しながら歩くのは面白い。
すぐに、梅鶴稲荷大明神 鳥居には令和二年元旦建立と書いていますが、背後の石碑は古色蒼然。 こういうの一つ一つ探しながら歩くのは面白い。
矢田丘陵・法隆寺 北から小川が合流
北から小川が合流
矢田丘陵・法隆寺 河畔には大木と祠あり
河畔には大木と祠あり
矢田丘陵・法隆寺 丁寧に帽子までかぶせてもらっている
丁寧に帽子までかぶせてもらっている
矢田丘陵・法隆寺 高安西付近
高安西付近
矢田丘陵・法隆寺 暑くなってきたのでダウンをしまい込む
富雄川はあくまで平穏
暑くなってきたのでダウンをしまい込む 富雄川はあくまで平穏
矢田丘陵・法隆寺 JR鉄橋下をくぐります
あとで気が付きましたが、鉄橋くぐってすぐの溜池(木戸池)に「天理軽便鉄道橋桁跡」があるんでした。法隆寺駅前の新法隆寺駅から天理駅まで約9キロの区間を大正4年から昭和27年まで運行されていたと言う。あとのまつり。
JR鉄橋下をくぐります あとで気が付きましたが、鉄橋くぐってすぐの溜池(木戸池)に「天理軽便鉄道橋桁跡」があるんでした。法隆寺駅前の新法隆寺駅から天理駅まで約9キロの区間を大正4年から昭和27年まで運行されていたと言う。あとのまつり。
矢田丘陵・法隆寺 今まで左岸はクルマが多いので避けてきましたが、ここで橋を渡っておかないと遠回りになる。
今まで左岸はクルマが多いので避けてきましたが、ここで橋を渡っておかないと遠回りになる。
矢田丘陵・法隆寺 左岸は公園になっていて遊歩道もありました。のんびり。
左岸は公園になっていて遊歩道もありました。のんびり。
矢田丘陵・法隆寺 ははあ、ここでも渡れたのか。
ははあ、ここでも渡れたのか。
矢田丘陵・法隆寺 いよいよ富雄川河口です。大和川に合流します。堤防の土砂を取り除いていました。
いよいよ富雄川河口です。大和川に合流します。堤防の土砂を取り除いていました。
矢田丘陵・法隆寺 土砂を積み込まれたキャタビラがそのまま川床を進んでいきます。歩けるほど浅いみたい。
土砂を積み込まれたキャタビラがそのまま川床を進んでいきます。歩けるほど浅いみたい。
矢田丘陵・法隆寺 御幸橋から御幸瀬ノ渡・川合浜跡を見る。決して高速の橋を見ている訳ではない!
御幸橋から御幸瀬ノ渡・川合浜跡を見る。決して高速の橋を見ている訳ではない!
矢田丘陵・法隆寺 御幸橋より東側、旧廣瀬街道に続く位置に、明治の初めまで渡し場「御幸瀬渡」があり、対岸の笠目との往来に利用されていました。また、江戸時代に盛んであった「魚梁舟」を使った舟運による荷揚げ場や舟問屋もここにあり、「川合浜」と呼んでいました。
・・・・
「御幸瀬」の名称の由来について、天武天皇13年に天武天皇が廣瀬神社と龍田神社に行幸した時に、大河に橋を渡した旧跡を「行幸(みゆき)ノ瀬」と呼んだことから【歩くなら】より
大和川の船運については資料が乏しいらしいですが、下記辺りを・・・
https://www.sake-asaka.co.jp/blog-president/20161203/
御幸橋より東側、旧廣瀬街道に続く位置に、明治の初めまで渡し場「御幸瀬渡」があり、対岸の笠目との往来に利用されていました。また、江戸時代に盛んであった「魚梁舟」を使った舟運による荷揚げ場や舟問屋もここにあり、「川合浜」と呼んでいました。 ・・・・ 「御幸瀬」の名称の由来について、天武天皇13年に天武天皇が廣瀬神社と龍田神社に行幸した時に、大河に橋を渡した旧跡を「行幸(みゆき)ノ瀬」と呼んだことから【歩くなら】より 大和川の船運については資料が乏しいらしいですが、下記辺りを・・・ https://www.sake-asaka.co.jp/blog-president/20161203/
矢田丘陵・法隆寺 昔は当地で、大和川=広瀬川やった。
広瀬川と言うとあの歌が浮かんできます。
「広瀬川流れる岸辺
想い出は帰らず
早瀬踊る光に揺れていた君の瞳・・・・」
昔は当地で、大和川=広瀬川やった。 広瀬川と言うとあの歌が浮かんできます。 「広瀬川流れる岸辺 想い出は帰らず 早瀬踊る光に揺れていた君の瞳・・・・」
矢田丘陵・法隆寺 さて河合の里を少しブラブラしてみます。
庚申さん
さて河合の里を少しブラブラしてみます。 庚申さん
矢田丘陵・法隆寺 なかなかの通りが続きます。
なかなかの通りが続きます。
矢田丘陵・法隆寺 いかにも水運で栄えた風情
いかにも水運で栄えた風情
矢田丘陵・法隆寺 河合村道路元標
南に行くか東に行くか悩みましたが、東へ・・・
河合村道路元標 南に行くか東に行くか悩みましたが、東へ・・・
矢田丘陵・法隆寺 立派なお屋敷に庭
かなり裕福な村のようです。
立派なお屋敷に庭 かなり裕福な村のようです。
矢田丘陵・法隆寺 円明寺からちょっと降りかけたところにある水分神社、廣瀬神社の境内外摂社。
御祭神 水分神。水害の多かったところなのでしょうう。創建 持統天皇五年(691)というので相当古い。
ここで南折れ。
円明寺からちょっと降りかけたところにある水分神社、廣瀬神社の境内外摂社。 御祭神 水分神。水害の多かったところなのでしょうう。創建 持統天皇五年(691)というので相当古い。 ここで南折れ。
矢田丘陵・法隆寺 城山古墳
城山古墳
矢田丘陵・法隆寺 廣瀬大社「一の鳥居」
裏口入社はやめておこう。
ものすごく長い参道で、周囲の森も含めて「糺の森」のようにおごそか
廣瀬大社「一の鳥居」 裏口入社はやめておこう。 ものすごく長い参道で、周囲の森も含めて「糺の森」のようにおごそか
矢田丘陵・法隆寺 由緒
崇神天皇の時代の創建とされていて、周辺の遺跡などの状況から、遅くとも7世紀以前には信仰の母体となるものがあったと考えらる。天武天皇4年に龍田の風神とともに祭祀が行われたという・・・
由緒 崇神天皇の時代の創建とされていて、周辺の遺跡などの状況から、遅くとも7世紀以前には信仰の母体となるものがあったと考えらる。天武天皇4年に龍田の風神とともに祭祀が行われたという・・・
矢田丘陵・法隆寺 さて重大発表!
この由緒がうまく読めなかったんですが、相殿の神様は櫛玉姫命と水穂雷命!櫛玉姫命であれば御炊屋姫(長髄彦の妹、饒速日命の妻)と。
さらに、櫛玉命が祀られているともいうらしい。神社の説明によると饒速日命の事であるが、このような表現にとどめたとの事。宮司さんの自宅に饒速日命社が祀られており、末社としていると!
さらにさらに、本当の祭神を長髄彦とする見方がある。(大和誕生と神々「田中八郎」彩流社)
http://kamnavi.jp/mn/nara/hirose.htm
びっくりポンもいいとこです。
さて重大発表! この由緒がうまく読めなかったんですが、相殿の神様は櫛玉姫命と水穂雷命!櫛玉姫命であれば御炊屋姫(長髄彦の妹、饒速日命の妻)と。 さらに、櫛玉命が祀られているともいうらしい。神社の説明によると饒速日命の事であるが、このような表現にとどめたとの事。宮司さんの自宅に饒速日命社が祀られており、末社としていると! さらにさらに、本当の祭神を長髄彦とする見方がある。(大和誕生と神々「田中八郎」彩流社) http://kamnavi.jp/mn/nara/hirose.htm びっくりポンもいいとこです。
矢田丘陵・法隆寺 ちょうどお昼休みで周辺にある会社からも入れ替わりお参りに来ていました。丁寧です。
ちょうどお昼休みで周辺にある会社からも入れ替わりお参りに来ていました。丁寧です。
矢田丘陵・法隆寺 拝殿から
拝殿から
矢田丘陵・法隆寺 隙間から本殿撮影
祭神は若宇加能売命(わかうかのめのみこと)
神話には登場しない神さまですが、「豊受大神」の分身とされています。水の神であり穀霊神でもある。
 天武天皇4年に龍田の風神とともに祭祀が行われたというのも理解できます。風と水を鎮める。
隙間から本殿撮影 祭神は若宇加能売命(わかうかのめのみこと) 神話には登場しない神さまですが、「豊受大神」の分身とされています。水の神であり穀霊神でもある。 天武天皇4年に龍田の風神とともに祭祀が行われたというのも理解できます。風と水を鎮める。
矢田丘陵・法隆寺 本殿を左から
本殿を左から
矢田丘陵・法隆寺 祖霊社とあるので通り過ぎようとしたら祭神は大国主命でした。
祖霊社とあるので通り過ぎようとしたら祭神は大国主命でした。
矢田丘陵・法隆寺 日吉社とあるので通り過ぎようとしたら祭神は大山咋神、大己貴命の二神でした。
オオモノ中のオオモノ!
一の鳥居まで戻ってきて、大和川と遠く離れてしまったので修復に向かいます。
日吉社とあるので通り過ぎようとしたら祭神は大山咋神、大己貴命の二神でした。 オオモノ中のオオモノ! 一の鳥居まで戻ってきて、大和川と遠く離れてしまったので修復に向かいます。
矢田丘陵・法隆寺 曽我川を渡る
遡ると高田川、葛城川と別れながら主に葛城の広い谷に入っていきます。
曽我川を渡る 遡ると高田川、葛城川と別れながら主に葛城の広い谷に入っていきます。
矢田丘陵・法隆寺 こちらは飛鳥川。飛鳥から降ってきます。下流の向うには生駒が見える。
ここで失敗、右岸堤防に行ったほうがヨカッタのに。
こちらは飛鳥川。飛鳥から降ってきます。下流の向うには生駒が見える。 ここで失敗、右岸堤防に行ったほうがヨカッタのに。
矢田丘陵・法隆寺 途中で昼飯休憩して修復中。南の田んぼは広いが、大きな工場が建ってきている。時間の問題か?
途中で昼飯休憩して修復中。南の田んぼは広いが、大きな工場が建ってきている。時間の問題か?
矢田丘陵・法隆寺 やっと大和川堤防に到着!
ここで前編終わりにします。
やっと大和川堤防に到着! ここで前編終わりにします。

活動の装備

  • その他(Other)
    Xiaomi11T
  • その他(Other)
    TCL10Pro
  • その他(Other)
    Zenfone3 MAX
  • キヤノン(Canon)
    パワーショット SX720 HS
  • ミレー(MILLET)
    M08842
  • その他(Other)
    ワークマン エアロ ストレッチ クライミングパンツ

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