盛夏の陣馬山から甲武相国境尾根へ

2022.08.08(月) 日帰り

活動データ

タイム

09:02

距離

18.3km

のぼり

1655m

くだり

1525m

チェックポイント

DAY 1
合計時間
9 時間 2
休憩時間
3 時間 42
距離
18.3 km
のぼり / くだり
1655 / 1525 m
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活動詳細

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2022年8月8日㈪ 《静かな陣馬山》 藤野駅から和田行きのバスに乗った乗客は私1人。陣馬山登山口を通るのにハイカーが誰も居ないのは驚きです。 南の相模湖に流れ込む沢井川源流域の和田は静かな山間集落で、立派な蔵が残る旧家や路傍の石仏群など見ながら歩いていくと、出勤中の同世代らしい男性が「おはようございます!暑いですね!」と私に人懐っこい笑顔を向けました。私はすっかり清々しい気持ちになって登山口から山路に足を踏み出しました。 爽やかな雑木林につけられた径路の足元から次々飛び立つセミはどうやらエゾゼミの一種のようです。 木々の梢越しに夏空が青く輝き、遠くからアオバトの鳴き声が聴こえてきます。 途中で気づいたのですが不覚にも登山口を誤っており、醍醐峠に出る予定が陣馬山の手前に出てしまいました。さすが高尾陣馬を結ぶコースはハイウェイのように広くよく踏み固められた道ですが、前にも後ろにも誰も居ません。 一転して杉林の薄暗いコースですが空が開けて明るくなると山頂の茶店が見えてきました。図らずも大人気の陣馬山に初登頂です。 昔からの宣伝文句だった「陣馬高原」の名の通り、山頂は高原状の草原で展望に非常に恵まれています。大きな白馬のモニュメントなど山に似つかわしくないと毛嫌いしていましたが、高原に佇む白馬の立ち姿は実に見事です。山頂のベンチに初老の男性が1人居た他は人影は無く、実に静かでした。 《鶏冠尾根・連行山・茅丸》 和田峠に下る途中で60代くらいの男性とすれ違い、林道に出て山の神の祠を見て山路に入り登り返します。醍醐峠の先から醍醐丸を巻く道に入り一本クヌギを経て連行山(1016)に向かいます。 連行山の東側の鋸歯状稜線には昔「鶏冠尾根」の名がありましたが、醍醐丸も高岩山も巻き道を歩いたのでアップダウンは味わえませんでした。次回は稜線を外さずピークを踏みたいものです。 続く「茅丸」(1019)は国境尾根上の小さな瘤ですがこの付近の甲武相国境尾根では最高点で、この日の行程では唯一展望に恵まれました。 往古は「神行麻留」(かやまる)と書かれ、例によって「日本武尊(ヤマトタケルノミコト)東征の折…」という定番の枕詞を持つ伝説が付会されています。 日本武尊がこの山中に滞在した際、大麻を奉納して朝敵退散の祈願をした事に因んで名付けられた山名である、との伝説なのですが、もちろん実際には山麓民が屋根葺きの茅を採取した山だから「茅丸」というのが由来でしょう。 茅丸の頂上で山麓から正午のチャイムが聴こえてきました。夏雲が沸騰する南の空に丹沢山塊や中央線沿線の山々が盛り上がっています。 束の間の展望を楽しんで下りにかかると高齢男性と擦れ違い、「気を付けて」と声をかけられました。このコースは【関東ふれあいの道】であり無意識のうちに危険など無いと気が緩んでいましたが、あらためて気を引き締め直しました。 《生藤山の山名由来》 生藤山(しょうとうさん)はかつてその山名や位置、山域をめぐって論争が繰り広げられた山で、山名由来にも諸説あります。 読みは「ショウトウ」が定説ですが、北の檜原村ではこの山の北側を「キットーヤ」と呼んでいたとの話があり、連行山には北東から「キットウ谷沢」が詰めあげています。 かつては連行山から茅丸を経て三国山辺りまでの山域の総称が「生藤山」だった事を考えれば、生藤がキットウでも全くおかしくはありません。 地名には本来の意味を無視して音に適当な漢字を宛てたものも多く、字面だけでは解釈できない面白さがありますが、 ショウトウともキットウとも読める「生藤山」は誰が編み出したかはわかりませんが実に見事な宛字と言えるかもしれません。 一方、地元に古くからある地名に対し、登山者が新しく呼び習わした名称が地元に徐々に根付いて、元々の地名が失われてしまう場合もあります。 地名もまた生きものであるといえるでしょう。 《三国山・熊倉山》 三国山(三国峠)は甲武相国境の接合部ですが何ら特徴はありません。 それにしても緑緑また緑の山路で、視界を覆い尽くすほどの緑に圧迫感を覚えるほどです。先程の茅丸を除いて展望は絶無で、緑のトンネルをずっと歩いている感覚でした。 春や秋冬は花や展望を求めるハイカーで賑わうコースのはずですが、盛夏は全く 人気が無い理由がよくわかりました。 軍刀利神社元社を過ぎると丈余の笹が繁る箇所があり、山深さを感じます。 相変わらず展望の無い熊倉山(966)の山頂の狭いベンチで昼休憩を取っていると、黒く大きなカラスアゲハが私の周りを盛んに飛び回っていました。 《栗坂浅間峠の歴史》 熊倉山からは甲州側が植林地、相州側が雑木林の林界尾根で、北西に進むとやがて「栗坂峠」に至ります。 南の旧 甲州棡原村の小伏から芦沢山を経て甲武国境尾根に乗り、北西に10分ほど歩いた先の「浅間峠」から北に武州檜原村の上川乗へと下る道は中世からの主要道だったといいます。 甲武国境の笹尾根には幾つもの峠がありますがこの峠は上野原への一番の近道である為、利用頻度が高かったとの事です。 栗坂峠の甲州側には馬も通れるほどの幅の径路が見えますが厚く堆積した落葉の間から草が伸びており、今は使われていない古径の雰囲気でした。 西に進んだ先の広い鞍部の浅間峠には東屋がありますが峠の一角には数本の杉の巨木に護られた浅間神社の石祠があり、そこだけ明らかに空気が違う神域の佇まいでした。 江戸時代の【甲斐国志】には「栗坂峠」の項に「峠ニ浅間明神ノ小祠アリ、境ノ宮と称ス」とあり、【武蔵通志】や【多摩郡村誌】でも峠名は「栗坂峠」と記されています。 現在の浅間峠と栗坂峠は武州甲州を繋ぐ一続きの峠路であって、昔は二つ合わせて栗坂峠と称していた事がわかります。 現在の祠は明治二十六年(1893年)に檜原村の人によって建てられたもので、山中の小祠としては重厚な造りでした。 昭和二十年頃までは、檜原村から五日市に出るよりも峠を越えて上野原に出るほうが近く、上野原から中央線を利用する人も多かったそうです。 《日原峠》 浅間峠から西に2km進むと日原峠です。 ここは南の甲州 旧棡原村 日原(ひばら)と北の檜原村 人里(へんぼり)を結ぶ峠で、尾根の真ん中に石仏が佇んでいます。 昔は幾つかあったそうですが今は一つだけでした。 峠から下っていくと土俵岳の北面に水場があり、樋から冷たい水がそこそこの勢いで出ています。 昭和16年の紀行文にもこの水場の記述がありました。 先程から遠雷の音が聴こえてきます。南秋川に架かる橋に下りつき、着替えを済ませて下和田のバス停に着くと西の空は明るくなって雲間から夕日の陽射しが洩れてきました。

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