【日本百名山35座目】甲斐駒ヶ岳(黒戸尾根)
「では9日5時半に駅前でよろしいでしょうか?!」 Kタクシーのオペレーターは急かすように問いかける。 田舎のタクシーはなかなかに水物だ。ドライバーにしてもオペレーターにしても、都会では腐るほど目にする、冷蔵庫に並ぶ卵のように均整な対応はここにはない。 はあ、それでお願いしますと彼女の勢いに半ば気圧されつつも、登山口までの足を取り付けた。不揃いなものは特別嫌いではない。不気味なまでに繕われた都市の営みと比べれば好感さえ覚える。中央線の車内で前日にあった小事を思い出す。小淵沢へ向かう列車は数分遅れで走っている。 翌早朝、迎えのタクシーのドライバーはマシンガントークの達人だった。寝ぼけ眼を擦りながら、放たれる弾丸を打ち返していく。Z世代を中心に、(特に中高年の)自慢話に拒絶反応を示す人がいる。私はと言うと、むしろ逆で、あからさまなものでなければ聞く耳をもつつもりである。 そうこうするうちに登山口へ到着した。今回甲斐駒ヶ岳に登るにあたり、黒戸尾根を選んだのは日本有数の長大な尾根とそれをたどるクラシックルートを堪能したかったからである。登山および百名山完登の効率の観点から言えば、北沢峠を起点に仙丈と甲斐駒をセットで登るのが一番であろう。しかしながら、北沢峠からのコースは少し物足りない。 とは言ったものの、登山開始から約1時間が経つと、激しい後悔が脳裏を駆け巡った。まだ一合目に着かない。焦りから汗が滲む。行動に伴う汗と入り混じり顔面は地獄絵図の様相だ。普通に北沢峠からにしとけばよかったー。過去の気の衒いを責め立てた。 なんだかんだありつつも、二合目を過ぎて五合目手前までは比較的平坦に近く歩きやすい区間に入る。ザ・南アルプスという感じの美しい森と木々の間からそよぐ風が心地よい。ずっとこれでいいよー。 そうは問屋が卸さない。五合目以降はヤセ尾根で、鎖や梯子が出てくる。空木岳の池山尾根に似ている気がした。難易度は高くないが、周囲は切れているので尾根から滑落すればthe endである。 八合目からは樹林帯が終わり岩場が出現する。このあたりで突然頭が痛みだした。昨年の早月尾根の時も頭痛がしたが高山病なのかな。だがここまで来てひき返す訳にはいかない。この時点で向こう5年はここに来たくないと決心していた。頭痛をこらえながら、また攣りグセのついた右脚をかばいながらゆっくり進み、甲斐駒ヶ岳の山頂標識を捉えた。甲斐駒上空は青空が見えているが、周囲の山々や山梨の街並みはガスが覆い隠していた。長居しても晴れそうにないので足早に下山を始める。こんなきつい登山はもうやりたくない!とあれほど痛感していたのに、七丈小屋でアツアツのどん兵衛を啜りながら次はどこに登ろうかと考えている自分がいた。






