奥秩父 和名倉山
和名倉山・笠取山・東仙波
(山梨, 長野, 埼玉)
2024.08.04(日)
日帰り
二十四節気の大暑となるや否や、雷雲の到来。毎日何処かで雷鳴が鳴り響きスコールのような激しい雨が降る。東北の日本海側では大雨災害も発生し、毎年のことだが心が痛む。災害列島…いったいどうなるのかこの国の行方は。今はただ一日も早い復旧を祈るしかない。
そして自分はといえば、今月になって仕事車の度重なる故障。先週は、ひと月に二度目の帰省を強いられるほどの大掛かりな修理となり
(ぼちぼちグ◯コのマークか)
と頭をよぎるほど気持ちが萎える週でもあった。
修理が済んで奥多摩へ戻って来たが、残すはお盆前の一週間。このまま通年奥多摩と思っていたが、お盆明けは急遽、東北秋田の依頼が入った。
まだまだ歩き足りない奥多摩、奥秩父の山々。今日の日を逃せばきっと未練が残ることは間違いない。そのなかでもこの山は…。
今年二月に仕事で訪れた二瀬ダム(秩父湖)。工事名は土砂搬出災害復旧工事。道の駅大滝温泉に車中泊しながら二瀬ダム、大洞川の堆積土を贄川の仮置き場へと搬出する仕事だった。毎日、二瀬ダムへと狭い秩父住還を走る。ヘアピンの登りを上りきりダム管理所へのカーブを曲がれば左手にトイレのある駐車帯があり重力式アーチダムの二瀬ダムにたどり着く。大きな山の塊が目の前に現れ、何やら光る屋根のようなものも見えた。あとで知った事だが登尾沢ノ頭(1369m)下の何かの反射板らしかった。三峰神社への信号を左折してダムの上を交互通行(たまに信号無視して来る車がいて渋滞が起こる)で渡り、曲がりくねる県道278号線三峰観光道路を走れば右側に埼大山寮の建物がある。その先でダム湖を見れば吊り橋がかかり稀にハイカーが渡っているのを見かけることがあった。狭い隧道をくぐり右下のダムの湖底へと下り堆積土を積み込みまた登りの繰り返し。
あの頃は三峰神社の存在ばかりが気になっていて、ただただ大きな山の塊が対岸(大洞川)にある、ぐらいしか頭になかった。二月も終わりに差しかかった晴れの日、やっと三峰神社、妙法ヶ岳へ訪ね入ることが出来た。一ノ鳥居から入り、振りあおぐ妙法ヶ岳は夜半に降った雪が薄く着き、朝日に輝く白銀の山は神聖そのものだった。
三峰神社や妙法ヶ岳から眺める雲取山、白岩山、今思えば芋ノ木ドッケ。
(まさか後々訪れることが出来るとは)
そんな晴天の日、密かに心を揺さぶったのは和名倉山だった。こんなに大きい山の塊。ゆったりと、どっしりと。
あれは雪化粧と澄み渡る青空のせいだったのか。
その後縁あって奥多摩の山々を歩き回り、奥へ奥へと分け入った奥多摩の山々。いつしか和名倉山も忘れていた頃にやっと雲取山に立てた。
「あ、奥秩父…」
二月の思い出が頭をよぎった。あれからというもの、奥秩父の山々を眺めれられる場所に立てば必ず和名倉山を探した。そう、前回の西御殿岩からも気になる山はやはり和名倉山だった。
今朝は5:00に三ノ瀬の登山口から入った。天候は晴れだが雲が多い。朝日谷に沿ってやや勾配のある砂利敷きの作業道を歩く。コマドリのさえずり、逃げるシカ。牛王院下の分岐を将監小屋方面へ右にたどれば「背中あぶり」の看板、そしてフラットな道となり目の前を一頭のサルが横切った。朝の森は動物たちが大忙しだ。
「ムジナの巣の水場」を過し時々木の間からのぞく飛龍山や大菩薩嶺を眺めながら将監小屋に着いた。
初めて来たのにどこか懐かしいような感じがする将監小屋。それは子供の頃、普通にあった家々の姿だった。立派なバイオトイレ、テントサイトも十分な広さ、何より豊富な水が得られるのはありがたい。
朝露に濡れたテン場横の草原を登り将監峠へと出た。奥秩父主脈縦走路の峠道。もしかしたら二瀬ダムができる前は、秩父側へたどる道もあったのかもしれない。ふとそんな事を思った。
笹原にダケカンバが現れ牛王院平。新たな植林にシカ侵入防止柵も張りめぐらされた平場で新緑前はここが遠くから金色に見えた場所だった。昔はカヤトだったのか、それとも牧野か。
前回、西御殿岩から下りた時に確認していた山ノ神土の十字路。いよいよ西、東仙波、和名倉山への笹をかき分けて行く。朝露に備えmont-bellのレインチャプスを穿いて挑んだが、斜面側の笹は腰上…。朝露は容赦なく股の隙間から入り込んだ。普通にレインパンツの方が良かった訳だ。
笹も膝下となり視界も開けてくる。尖った峰がリンノ峰と思っていたら、手前のピークで、そのピークごとリンノ峰は西側の巻道をたどる。密生したコメツガ、時々シラビソのいい香り漂う山径を進めば笹原が現れて「仙波のタル」。
登りとなりコメツガと石楠花のトンネルをくぐり天井が抜けた露岩の西仙波。また同じように密林のなか進めば露岩のピークが現れた。やっと東仙波、と思ったがとなりのニセピークだった。ただここも遮るものがなく良い展望場なのだろう。今日の天気が悔やまれる。
枯れ木にレインチャプスを脱いで干した。そのままデポしてとなりの東仙波へと向かった。
三等三角点将監のあるピークは東、南側の展望が開けた。ここで休憩をして先へと進む。コメツガとシラビソの森を縫い赤土の目立つピークへと着く。ダケカンバの疎林、西側が開けた稜線、所々に石楠花とコメツガが密生を交わせば唐松尾山が眺めらる露岩があった。
山と高原地図に記載されている稜線西側の赤色チャートの露岩も確認でき、この山が持つ西側と東側の違いが凄いものだと感じる事が出来た。
吹上ノ頭も西側を巻く。直径20センチにも満たないコメツガの密林の中を進めば平な広場に出た。ダケカンバが目立つ八百平(はっぴゃくだいら)だった。連理木のようにシラビソがコメツガを抱き抱えてる。大きな切株を見守る眷属ようなダケカンバ。稜線から少し西へ外れてコメツガの密林を進んだ。
カラマツの稜線に出れば川又分岐は近い。分岐からは少し登りとなり、一旦平になった場所から東へ進めば水場表記(山と高原地図)水場は復路で立ち寄ることにして二瀬分岐へとたどり着いた。二瀬分岐からも明るいカラマツの植林の中、緩い斜面を等高線にそって東へと進む。所々に大きな木の切株が点在し原生林時代の森を彷彿とさせる。
途中、カラマツの幼樹のトンネルを抜け小さな道標を北東へと進めば、千代蔵の休ン場か、草地にカラマツの幼樹が生える平場に出た。平場の先は、コメツガやシラビソの鬱蒼とした樹間をほんの数メートルで二等三角点のある和名倉山山頂へとたどり着いた。
苔むした林床に無数の倒木跡(シカの食害か)細いシラビソなどの針葉樹林が密に立ち並ぶ山頂は、遠くから眺めた時の、あの大きな山の頂という実感もないほどの、密林の中の空間だった。
山頂から下り、千代蔵の休ン場をすぎた先で二瀬から来たというソロの方とスライドした。何でも最初の二時間が急登だったとか。でも、いつかは二瀬から登ってみたい。いや、二瀬から登り、和名倉山、将監峠、飛龍山、雲取山、三峰のループをしてみたいものだ。
二瀬分岐からは道を逸れて水場を探しに行ってみた。カラマツ林の中、東へと草地を歩いて行くとほんのわずかだが踏み跡が現れた。古い白テープなどもカラマツに括り付けてあり、そのわずかな踏み跡をたどって行くと水場へたどり着けた。
水場からルートへ戻り、来た道を引き返す。吹上ノ頭をすぎ西の展望が開ける露岩に立つと唐松尾山方面に暗い雲が湧き始めた。
何だか雲行きも怪しくなったので、今回はカバヤノ頭には立ち寄らず、東仙波南の露岩ピークで休憩を取った。
往路でレインチャプスを脱いで立木に干して置いたのだが、見事にさらわれていた。風か、人か、はたまた天狗か…。
誕生日プレゼントに買ったチャプス。
あぁ、やり切れず…。
そして飯を食べながら振り返る山行。
1950年代後期から70年代にかけての大規模な伐採(ほぼ全山伐採)と昭和39年と44年の二度の山火事により、森の、山の荒廃がひどくなったという。今では植林されたカラマツや二次林が育ち、森は回復しつつあるようだが、それに加えてシカの食害も相当なようだ。
※百年の森づくり会(和名倉百年の森)参照
だが、あのおびただしい数のワイヤーの残骸。あれは気持ち良いものではない。大規模な伐採、その最中の山火事、そして林業の衰退。この国の高度成長期、時代に翻弄された山。
他県と山頂を共有しない山の中では埼玉県最高峰の山、奥秩父秘峰の和名倉山。
カラマツの紅葉の時期、雪が降る時期もどうだろう、また訪れたい山だ。
休憩後は山の神土手前の笹漕ぎでとうとう雨が落ちてきた。牛王院平へ出てからは前回同様、七ツ石尾根で下る。途中、雨脚も強まりアンブレラを差し牛王院下へと下りた。作業道を下り、みはらし荘へ着くと今度は雷鳴とともに土砂降りとなった。屋根を叩く雨音に、かあさんの話す声がかき消されるほどの大雨だった。
「笠取山」とプレートが掲げられたマイクロバスが駐車場に駐まっていたが、団体様だそうで、皆様雨は大丈夫だったのだろうか。
幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ…牧水の和歌。
山あり谷ありの人の道だ。勝ち組もあれば負け組もある。汚れて勝つより綺麗に負けろ、とはよく言ったものだ…。
また来よう。奥多摩へ。奥秩父へ。必ず。