活動データ
タイム
00:00
距離
0m
のぼり
0m
くだり
0m
活動詳細
すべて見る--------------------------------------------------- 若丹国境若狭越 1968年11月1〜6日 --------------------------------------------------- 当時、森本次男さんや金久昌業さんに傾倒していたので、大いに影響を受けて行った峠越え。国境縦走も考えたが、当時はブッシュでやっとこさで通過したというパーティがあるくらいだった。この峠越は自分の企画が通った山行だったので、思い出深いものだ。 ボクは若狭人ではないが由良川下流に住む(住んでいた)丹波人としてその源流地帯に興味があったのが契機だろう。前年の「由良川源流と京都北山」とともに、ボクの以後の山行スタイルを決めたといってもよい経験だった。(山行とは違うな) 後半、根来峠までは覚えているが、木地山峠まで行ったのかどうか、あやふやだったが、どう考えても木地山峠は越えていたように思う。 ■コース概要 11/1 安掛−田歌−五波谷−五波谷峠−染ヶ谷TS 11/2 TS−権蔵坂−内杉谷−須後(入林手続きピストン)−中のツボTS 11/3 TS−内杉谷ー下谷ー長治谷−杉尾峠−野田畑峠−長治谷TS 11/4 TS−三国峠−クチクボ峠−生杉−小入谷−大倉谷TS 11/5 TS−根来峠−上根来−木地山峠−木地山TS(多分) 11/6 TS−朽木−安曇川? ※当時の写真(白黒)が少ないので、後に歩いたときの写真(カラー写真)を補充した。中に春先の写真があって季節外れではあるが、ご容赦。 ■11/1 五波谷峠 今のようなビレッジラインができる前なので、五波谷を遡行した。谷の様子は全然覚えていないが、峠は写真があるのでよく覚えている。ササのブッシュ状態で、尾根通しはやっぱり無理やなあと思った。 染ヶ谷のどこかでテントをはったが、ある家の軒下に「祝甲子園出場・・・若狭高校」という手ぬぐいが干してあった。そうか、若狭高校といえば川藤だ!川藤がいた若狭高校が甲子園に出たのか、と納得した。 ■11/2 権蔵坂 権蔵坂を越してヒツクラ谷を下った。中のツボ出合いで幕営したようだがはっきり覚えていないが、ボクとMさんが入林手続きで須後にピストンした、 ■11/3 京大演習林 内杉谷林道を登ったが、ちょうど林道を作っていて伐採も始まっていた。演習林なのでなんで伐採するの?と奇異に思った。 ■11/4 三国峠と生杉 三国峠、クチクボ峠は記憶がないが、生杉の集落はよく覚えている。3日間山の中だったので、里の光景が懐かしかった。 ■11/5 根来坂 さて、ここからが問題。根来峠はピストンしたのか?根来峠に行ったのははっきり覚えているが、その後がわからない。根来坂を降る途中、P706の巻き道の修正や、岩?があったこと、木地山峠に登る途中の水場記号を描いているので、多分、木地山峠は越えていると思う。 根来峠西の稜線上は伐採が入っていて明るかった。峠では「あれが百里か」と言ったことは鮮明に覚えている。 ■11/6 この日の記憶がない。 時間がある時は、基本交通機関は使わないということだったので、安曇川の駅(江若鉄道!)まで歩いたように思う。 前にも書いたが、第4位の「由良川源流と京都北山」とともに、ボクの以後の山行スタイルを決めたといってもよい山行だった。どうも。良くも悪くも金久さんの(ガイドブック)の影響が大きいようだ。金久さんの本に書いてあったが、お父上は丹後の出で、春先まだ雪のある元普甲峠を越え、園部まで歩いて京都に出たというので、そのルーツを大いに感じられていたのだろう。ボクは由良川下流の出で、大洪水を見てきたし、高校の時は毎日渡っていたので、「その上流はどうなってるんか?」と当然思うだろう。金久さんと同様、ルーツ感覚を引きずっているのが契機となっているんだろう。 今年のテーマも若狭越!多分終わりもないかな?
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