北相木村から小海原を越えて海尻、佐久海ノ口、野辺山原-秩父困民党終焉の道を行く

2024.02.16(金) 日帰り

チェックポイント

DAY 1
合計時間
5 時間 56
休憩時間
10
距離
27.7 km
のぼり / くだり
871 / 710 m
5 57

活動詳細

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茂来山・四方原山 電車から。海瀬、八千穂の名士の黒沢家。酒造や銀行を経営し、打壊しの対象とされた。
電車から。海瀬、八千穂の名士の黒沢家。酒造や銀行を経営し、打壊しの対象とされた。
茂来山・四方原山 天狗岩
天狗岩
茂来山・四方原山 小海駅。5分で北相木村営バス(平日9本、休日4本)に連絡できるので急遽予定変更。運賃は100円!
小海駅。5分で北相木村営バス(平日9本、休日4本)に連絡できるので急遽予定変更。運賃は100円!
茂来山・四方原山 出井為吉。1859年生まれ。豪農で村会議員、戸長、学務委員を歴任。菊池寛平と秩父困民党に参加し、軍用金方に就任。軽懲役8年、憲法発布恩赦で出獄。その後は教員、役場吏員。名前を治雄に改名。1905年没。
出井為吉。1859年生まれ。豪農で村会議員、戸長、学務委員を歴任。菊池寛平と秩父困民党に参加し、軍用金方に就任。軽懲役8年、憲法発布恩赦で出獄。その後は教員、役場吏員。名前を治雄に改名。1905年没。
茂来山・四方原山 治徳賢雄となっています。
治徳賢雄となっています。
茂来山・四方原山 家は留守でしたが、前の家にいらした親族の女性と話せました。
家は留守でしたが、前の家にいらした親族の女性と話せました。
茂来山・四方原山 大龍寺。自由党員の会合や青年たちの学習会がよくもたれた。
大龍寺。自由党員の会合や青年たちの学習会がよくもたれた。
茂来山・四方原山 住職も同志でした。
住職も同志でした。
茂来山・四方原山 菊池寛平。1847年生まれ。村内屈指の養蚕家、代言人。蜂起に際して参謀長に就任し、有名な軍律五ヶ条を起草。本陣解体後、困民軍総理となり佐久への転戦を指導。欠席裁判で死刑判決。1886年に甲府で逮捕。憲法発布恩赦により無期懲役。1905年に出獄し、郷里で1914年に没。
菊池寛平。1847年生まれ。村内屈指の養蚕家、代言人。蜂起に際して参謀長に就任し、有名な軍律五ヶ条を起草。本陣解体後、困民軍総理となり佐久への転戦を指導。欠席裁判で死刑判決。1886年に甲府で逮捕。憲法発布恩赦により無期懲役。1905年に出獄し、郷里で1914年に没。
茂来山・四方原山 菊池寛平の墓
菊池寛平の墓
茂来山・四方原山 菊池寛平の家
菊池寛平の家
茂来山・四方原山 歴史を感じます。
歴史を感じます。
茂来山・四方原山 諏訪神社
諏訪神社
茂来山・四方原山 本殿
本殿
茂来山・四方原山 自由民権の雄叫び
西南の役後の物価低落と連年の凶作、繭値の低迷は、村々を困苦のどん底に落とし入れた。 窮地脱出の試みは各人各村でなされたが、打開策を政治に求めたのが自由民権思想に燃える若者達であった。明治十四年自由党が結成されると翌年には、県内に先駆けて井出為吉、高見沢薫が入党、十七年には菊池貫平、菊池恒之助、井出代吉、山口粂之助、高見沢仙松が加盟した。
彼等は同志に木次嘉一郎、大龍寺住職飯塚道周らを加え「自由を拡充し、権利を保全し、幸福を増進し、社会の改良を図るべし」と盟約を掲げ、国会開設、地租軽減、地域の課題などにとり組んだ。
明治十七年十一月一日、窮迫する農村に救援策も示さず、弾圧する国・県政に対し上武信三地方の困民三千人が秩父で武装蜂起し解決を当局に迫った。 この秩父事件に北相木自由党は「専制政府を転覆し直ちに国会を開く革命」と長駆参画、貫平・為吉は困民軍参謀長、軍用金集方についた。その勢力は一万の大集団に達し、大宮郷(秩父) 郡役所を占拠し、 さらに東京侵攻をも企てたが、軍隊と警官隊にはばまれて壮絶な戦いののち壊滅した。
この時残余に推されて総理となった貫平は活路を信州に求め十石峠から佐久に転戦し、 世直しの闘いを訴えた。当時二百五十戸から挙に応じた村民は二百名に及び、文字通り村ぐるみの荷担となった。郡内十四ヶ村からも五百人ほどが参加を共にしたが十一月九日早朝、東馬流で高崎鎮台兵と戦って敗北し、命をかけた諸要求も勝ちとれず反動政治の犠牲となった。
事件以来百周年の今日、わが国近代民主政治実現の基となった壮挙を明確にし、殉難の父祖達の復権を求めると共に事績を顕彰して後世に伝えんとするものである。
昭和五十九年十月二十八日
北相木村史談会
秩父事件百周年顕彰委員会
自由民権の雄叫び 西南の役後の物価低落と連年の凶作、繭値の低迷は、村々を困苦のどん底に落とし入れた。 窮地脱出の試みは各人各村でなされたが、打開策を政治に求めたのが自由民権思想に燃える若者達であった。明治十四年自由党が結成されると翌年には、県内に先駆けて井出為吉、高見沢薫が入党、十七年には菊池貫平、菊池恒之助、井出代吉、山口粂之助、高見沢仙松が加盟した。 彼等は同志に木次嘉一郎、大龍寺住職飯塚道周らを加え「自由を拡充し、権利を保全し、幸福を増進し、社会の改良を図るべし」と盟約を掲げ、国会開設、地租軽減、地域の課題などにとり組んだ。 明治十七年十一月一日、窮迫する農村に救援策も示さず、弾圧する国・県政に対し上武信三地方の困民三千人が秩父で武装蜂起し解決を当局に迫った。 この秩父事件に北相木自由党は「専制政府を転覆し直ちに国会を開く革命」と長駆参画、貫平・為吉は困民軍参謀長、軍用金集方についた。その勢力は一万の大集団に達し、大宮郷(秩父) 郡役所を占拠し、 さらに東京侵攻をも企てたが、軍隊と警官隊にはばまれて壮絶な戦いののち壊滅した。 この時残余に推されて総理となった貫平は活路を信州に求め十石峠から佐久に転戦し、 世直しの闘いを訴えた。当時二百五十戸から挙に応じた村民は二百名に及び、文字通り村ぐるみの荷担となった。郡内十四ヶ村からも五百人ほどが参加を共にしたが十一月九日早朝、東馬流で高崎鎮台兵と戦って敗北し、命をかけた諸要求も勝ちとれず反動政治の犠牲となった。 事件以来百周年の今日、わが国近代民主政治実現の基となった壮挙を明確にし、殉難の父祖達の復権を求めると共に事績を顕彰して後世に伝えんとするものである。 昭和五十九年十月二十八日 北相木村史談会 秩父事件百周年顕彰委員会
茂来山・四方原山 宮ノ平のイチイの木。YAMAPはここで起動。実際は3㎞、50分をプラス。
宮ノ平のイチイの木。YAMAPはここで起動。実際は3㎞、50分をプラス。
茂来山・四方原山 小海原の雪道。この道をまっすぐ行けば良かったのですが、遠望のため1㎞ほど遠回り。
小海原の雪道。この道をまっすぐ行けば良かったのですが、遠望のため1㎞ほど遠回り。
茂来山・四方原山 素晴らしい景観!八ヶ岳だけは雲の中。
素晴らしい景観!八ヶ岳だけは雲の中。
茂来山・四方原山 雪の大坂峠。11月9日に北南相木村の援軍がこの峠を越えた。
雪の大坂峠。11月9日に北南相木村の援軍がこの峠を越えた。
茂来山・四方原山 海尻橋から千曲川。馬流で敗れた困民軍の一部は、川沿いの間道を逃げてきた。
海尻橋から千曲川。馬流で敗れた困民軍の一部は、川沿いの間道を逃げてきた。
茂来山・四方原山 海尻のヒメコマツ。宿場町の風情がただよっています。
海尻のヒメコマツ。宿場町の風情がただよっています。
茂来山・四方原山 大月橋。諸説ありますが、本隊を海ノ口に送った後、後続隊との連絡係で残っていた困民軍の一人が、村人の密告により憲兵隊付巡査に殺された。不憫に思った村人が小島の共同墓地に埋葬。兵の名前も出身も不詳。
大月橋。諸説ありますが、本隊を海ノ口に送った後、後続隊との連絡係で残っていた困民軍の一人が、村人の密告により憲兵隊付巡査に殺された。不憫に思った村人が小島の共同墓地に埋葬。兵の名前も出身も不詳。
茂来山・四方原山 医王院
医王院
茂来山・四方原山 阿
茂来山・四方原山 吽
茂来山・四方原山 本堂
本堂
茂来山・四方原山 海尻城跡に登りました。降雪後、誰も登っていないのでまっさらな雪道でした。ここでランチ。
海尻城跡に登りました。降雪後、誰も登っていないのでまっさらな雪道でした。ここでランチ。
茂来山・四方原山 海尻城は前山城主伴野氏の家臣、井出長門守によって築かれたとされる城。村上義清と武田信虎が戦った「海尻合戦」の舞台となったことで有名。城跡には堀切などの遺構が確認できます。
海尻城は前山城主伴野氏の家臣、井出長門守によって築かれたとされる城。村上義清と武田信虎が戦った「海尻合戦」の舞台となったことで有名。城跡には堀切などの遺構が確認できます。
茂来山・四方原山 小島の共同墓地入口。1981年の遺族会の会報記事(海尻宿の南のはずれから西方に約500mの小高い丘陵の尾根)からGoogleMAPで場所を特定。南牧村役場に問い合わせたところほぼ間違いないとのこと。地番が南牧村大字海尻字小島西ノ割。
小島の共同墓地入口。1981年の遺族会の会報記事(海尻宿の南のはずれから西方に約500mの小高い丘陵の尾根)からGoogleMAPで場所を特定。南牧村役場に問い合わせたところほぼ間違いないとのこと。地番が南牧村大字海尻字小島西ノ割。
茂来山・四方原山 墓地への登り道
墓地への登り道
茂来山・四方原山 尾根を登りきると祠がありました。
尾根を登りきると祠がありました。
茂来山・四方原山 今は整備され、当時を偲ばせるのは、残された古い土台部分だけ。10年前までは古い墓石が放置され、一部の骨が散乱していたとのこと。
今は整備され、当時を偲ばせるのは、残された古い土台部分だけ。10年前までは古い墓石が放置され、一部の骨が散乱していたとのこと。
茂来山・四方原山 どこに埋められていたかは、すでに誰も知りません。
どこに埋められていたかは、すでに誰も知りません。
茂来山・四方原山 合掌
合掌
茂来山・四方原山 佐久海ノ口駅
佐久海ノ口駅
茂来山・四方原山 海ノ口大橋
海ノ口大橋
茂来山・四方原山 魚を供養。
魚を供養。
茂来山・四方原山 典型的な養蚕農家の屋敷。海ノ口宿にも旧いたたずまいが残っています。今の役場は駅周辺。困民軍が炊き出しを要請。
典型的な養蚕農家の屋敷。海ノ口宿にも旧いたたずまいが残っています。今の役場は駅周辺。困民軍が炊き出しを要請。
茂来山・四方原山 海ノ口甲州街道
海ノ口甲州街道
茂来山・四方原山 市場の旧道(昔の新道)と佐久往還(141号線)が交わる場所。この先で旧道(山道)を先回りした憲兵の待ち伏せを受け、困民軍はついに壊滅。
市場の旧道(昔の新道)と佐久往還(141号線)が交わる場所。この先で旧道(山道)を先回りした憲兵の待ち伏せを受け、困民軍はついに壊滅。
茂来山・四方原山 海ノ口馬市場跡の碑
佐久地方は昔から馬の産地で、明治以降には洋種の馬が生産されるようになった。やがて馬市が開かれるようになり、長野県内で木曽に次ぐ大規模な馬市となった。その様子は、島崎藤村が『千曲川のスケッチ』に詳しく記している。
海ノ口馬市場跡の碑 佐久地方は昔から馬の産地で、明治以降には洋種の馬が生産されるようになった。やがて馬市が開かれるようになり、長野県内で木曽に次ぐ大規模な馬市となった。その様子は、島崎藤村が『千曲川のスケッチ』に詳しく記している。
茂来山・四方原山 日本のへそです。
日本のへそです。
茂来山・四方原山 男山
男山
茂来山・四方原山 午前中は雲に隠れていましたが、午後には姿を現しました。
午前中は雲に隠れていましたが、午後には姿を現しました。
茂来山・四方原山 野辺山原のキャベツ畑
野辺山原のキャベツ畑
茂来山・四方原山 見事な石梨。困民軍の多くが潰走した川上へ。
見事な石梨。困民軍の多くが潰走した川上へ。
茂来山・四方原山 花や実がなるときはキレイだろうな。
花や実がなるときはキレイだろうな。
茂来山・四方原山 道祖神
道祖神
茂来山・四方原山 駅近くの道祖神とネコ
駅近くの道祖神とネコ
茂来山・四方原山 きれいな駅舎。待合室は常にオープンとのこと。僕のような車を持たない人は最終で来て仮眠後に登山できますね。
きれいな駅舎。待合室は常にオープンとのこと。僕のような車を持たない人は最終で来て仮眠後に登山できますね。

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