三ノ沢岳 ― ずっと心にあった山へ
駒ヶ岳ロープウェイの無料チケットをいただいた。 「水曜日行けたら一緒に行きましょう。でも、あんずさん、火曜日条件が良かったら一人で行っちゃってもいいですからね〜」 ……聖人様ですか⁉︎ 麦峰様〜😂 でも俺はもちろん、一緒に歩きたい。 水曜日、仕事前に行こう! 俺の休日は火曜日。 仕事は夕方からだから、世間のみんなが集まりやすい夜の飲み会には、なかなか参加できない。 そんな時だった。 「火曜日、山の会をやろう。」 その一言が、胸にじんわり染みた。 ……あぁ、俺は友に恵まれている。 今回集まったのは、全員同い年。 そして気が付けば、全員が山に魅了されたYAMAPerだった(笑) テーブルにくる美味しい料理。 途切れることのない笑い声。 話題の九割九分は山の話だった気もするけど、それがまた心地いい。 「あの稜線がさ。」 「あの映画見た。」 「あの日のガスはヤバかった。」 「次はどこ登る?」 「Youtubeでさぁ〜」 そんな何気ない会話も、最高のご馳走だった。 楽しい時間ほど、不思議なくらい早く過ぎる。 気が付けば、お開きの時間。 「……みんなで写真、撮ったっけ?」 ……完全に忘れてた(笑) でも、きっとそれで良かったんだ。 写真には残らなかった。 だけど、あの夜のみんなの笑顔や笑い声は、しっかり心に焼き付いている。 記録には残せなかったけれど、 記憶には、一生残る一枚になった。 山は景色だけじゃない。 こやって集まれる仲間と出会えたことも、 俺にとっては、山がくれた最高の宝物なのだから。 さあ、山の話へ行こう。 目的地は、中央アルプス・三ノ沢岳。 菅の台バスセンター駐車場まで約30分。 集合は朝6時30分。 バスの始発は7時15分だ。 駐車場へ着いたら、まず最初にやることは決まっている。 ザックを担ぐことじゃない。 ブーツもまだ履かない。 バス停へザックをデポすること(笑) バス待ちの列取りである。 もちろん混雑すれば増便される。 それでも一便、二便の人たちは、結局みんな同じロープウェイへ乗る運命だ。 この朝の数十分が、何気に大事なのである笑 ちなみにバス代は片道830円。 そして今日の相棒がやって来た。 「おはようございます!」 今日のバディ、麦峰さん。 ……いや、もはや聖人様である(笑) 無料ロープウェイ券を譲ってくださった上に、 「条件が良ければ一人で行っちゃってもいいですよ。」 なんて言える人が、この世にどれだけいるだろう。 でも俺は、一緒に歩きたかった。 山は景色だけじゃない。 誰と歩くかも、大切な思い出になるから。 空を見上げる。 山の方角には雲が広がっていた。 少しだけ不安になる。 だが、その雲の形を見て確信した。 「あれは……雲海だ。笑。」 長い山道をバスで上がる。 しらび平駅そしてロープウェイに乗り込む。 ロープウェイが静かに動き出す。 白い世界へ吸い込まれるように進み、 やがて雲の層を突き抜けた。 「おお〜。」「うわ〜✨」 ロープウェイの中は歓喜の声に包まれる笑 目の前に広がったのは、雲上の稜線。カール。 「今日は当たりだ。」 思わず笑みがこぼれる。 山頂駅へ到着すると、多くの登山者は千畳敷カールへ向かって歩き出す。 その流れに逆らうように、 俺たちは極楽平方面へ足を向けた。 今日の目的地は――三ノ沢岳。 俺にとって、まだ踏んだことのない山だ。 それなのに、この山とは何度も顔を合わせてきた。 空木岳から縦走した時も。 桂小場から歩いてきた時も。 北御所から登った時も。 木曽駒ヶ岳だけを目指した日も。 宝剣岳の岩場から見下ろした時も。 春夏秋冬。そのたびに、 少し離れた場所で静かに待っているような山だった。 「いつか、あそこへ行きたい。」 その”いつか”が、 ようやく今日になった。 歩き始めて五分もしないうちだった。 ♪ ピコン。 LINEの通知が鳴る。 「娘ちゃんと?」 思わず吹き出した(笑) 仕事中なのに、いつも山を見守ってくれている友人からだった。 そう、YAMAPのみまもり機能である。 ロープウェイを使ったからだろう。 「今日は娘さんと観光登山かな?」 そんな風に思ったに違いない(笑) 俺はすかさず麦峰さんとの自撮りを送る。 数秒後―― 「バクホンやないかーい🤣」 ちゃんとツッコんでくれた(笑) いやいや… 俺と麦峰さんがロープウェイを使ってる時点で、ツッコミどころ満載である。 きっと彼の頭の中では、 「檜尾尾根から下山か?」 「いや、空木岳まで縦走して降るのか?」 そんな壮大な妄想が繰り広げられていたに違いない(笑) 残念。 今日は三ノ沢岳なのだ。 笑いながら歩いているうちに極楽平へ到着した。 ここまでは二、三か所だけ雪が残る程度。 ツボ足で十分歩ける。 整備された石階段を一歩ずつ登っていく。 分岐へ着く。 左は島田娘方面。 そして今日、俺たちは迷うことなく右へ。 宝剣岳、そして三ノ沢岳方面だ。 目の前に、ずっと憧れていた山が姿を現す。 「あぁ……やっと行ける。」 何度も見てきた。 でも、一度も俺は立ったことのない頂。 「待ってろよ。」 自然と口元が緩む。 極楽平から先は、しばらく稜線をなぞるような穏やかな道。 本当の冒険は、 ここから始まる。 分岐から先は、いよいよ三ノ沢岳への道。 未踏の道。登山道はしっかりしている。 ……だが。 両脇には、びっしりとハイマツ。 最初のうちは余裕だった。 「ファンサービス、ファンサービス♪」 そんな気分で両手を広げ、ハイマツを撫でながら歩いていく。 まるで観客席へ手を振るアイドルである。 ……その余裕は、一分も続かなかった(笑) バシッ! バシバシッ! 腕に。 脚に。 容赦ないハイマツアタック。 「いったっ!」 「イテテテッ!」 笑いながら歩くしかない。 一人だったら、 「痛ぇなぁ……」 で終わる。 でも仲間といると違う。 「痛っ!」 「ハハハ!」 それだけで笑いになる。 こういう時間も、仲間登山の醍醐味なんだろう。 ハイマツ地獄を抜ける頃には、極楽平まで登った標高を、そのまま返すくらい下っていた。 つまり…… 登り返し確定である(笑) 目の前には、山肌を一直線に這い上がる登山道。 「さぁ、登り返しだ。」 「うわぁ……まだあんなにあるのか〜。」 「大丈夫、大丈夫。」 「あと五分。」 …………。 全然五分じゃない(笑) 山での「あと五分」は信用してはいけない。 いや、言ってる本人も本気で五分だと思っているから困る。 息を切らしながら、一歩ずつ高度を取り戻していく。 苦しい。 汗も噴き出す。 それなのに、不思議だった。 「あ〜楽しい。最高。」 心の中でそう思った。 いや…… たぶん麦峰さんも同じことを思っていたはずだ。 言葉にしなくても伝わる。 ……たぶん(笑) 目印のケルンを越えた。 いよいよラスト。 目の前に山頂が見える。 「あと少しだ。」 足取りも自然と軽くなる。 ……だが。 山は、そう簡単には終わらせてくれない。 最後の最後で待っていたのは―― 偽ピーク。 「やった〜着いた!」 ……違った(笑) 登山者に希望を与え、 一瞬で絶望へ叩き落とす。 真のラスボス。 山あるあるである。 まあ今回は数メートル先だったので、ダメージは軽傷で済んだ(笑) そして、その先。 三ノ沢岳 2,847m。 新しく綺麗な山頂標識が、静かに迎えてくれた。 「お疲れさまでした。」 その一言で、今日歩いてきた景色が一気によみがえる。 また一つ。 新しいピークを、この足で踏むことができた。 ザックを下ろす。 深呼吸。 風が気持ちいい。 目の前には中央アルプスの新緑の大展望。 雲の上の御嶽山や乗鞍岳。 「あぁ……来て良かった。」 山がくれる、ご褒美の時間だ。 標識の先にある大きな岩へ立つ。 眼下には切れ落ちた谷。 最高の展望席。 「押さないでくださいよ〜。」 「えっ、それ振りですか?」 「いやいや、マジで(笑)」 山頂で交わされる、毎度おなじみのくだらない会話。 でも、こういう何気ない一言が妙に楽しい。 絶景も。 達成感も。 笑い声も。 全部まとめて、今日という一日に刻まれていく。 だから山は…… 何度登っても飽きないんだろう。⛰️ 「ここで飯、食います?」 麦峰さんがザックを見ながら言った。 私は少し空を見上げる。 「う〜ん……まだ腹減ってないんだよね。」 「ですよね〜。」 二人同時に笑った。 そう。 ここまではアップダウンこそあるものの約3km、2時間ほど。 歩き切った達成感はある。 だが―― まだ身体が”山モード”なのだ。 この二人で歩く時は、いつも夜明け前から登り始める。 そして太陽が真上に近づいた頃、ようやくザックを下ろし、クッカーに火を灯す。 それがいつものリズムだった。 だからまだ、お腹は本気で空いていない。 行動食をひと口。 それだけで十分だった。 「宝剣岳分岐まで行って、それから考えますか。」 「そうしましょう。」 山頂では珍しく、 ラーメンもない。 クッカーも出さない。 ご褒美コーヒーも今日はお預け。 少しだけ名残惜しい気もした。 でも、不思議と物足りなさはない。 今日は景色が、ご馳走だった。 そう思いながら、私たちは三ノ沢岳に背を向け、ゆっくりと歩き始めた。 ハイマツの洗礼をもう一度受ける。 「いてっ。」 「イタタタ……。」 帰りも容赦はない。 笑いながら歩き、登り返しを越える。 来た道を戻るだけなのに、帰り道には帰り道だけの景色がある。 そして―― 12:00。宝剣岳分岐。 目の前には宝剣岳へ続く、岩と空だけの世界。 あの道は何度見ても心が躍る。 「バクホンさん、宝剣行っていいですよ〜!」 「自分、12時30分のロープウェイ乗ります!」 本音を言えば。 終わってしまうのが惜しかった。 まだ歩いていたい。 まだこの景色の中にいたい。 でも今日は仕事。 しかも予約まで入っている。 現実世界への帰還命令だ(笑) 「寂しくなんかないからね〜。」 わざとおどけて軽く言ってみる。 「じゃあ、また!」 握手はしなかった。 だけど、不思議と握手以上のものを交わした気がした。 “また山で会おう。” その約束だけで十分だった。 宝剣岳へ向かう背中を見送り、私は一人、千畳敷駅へ向かって歩き出す。 いや…… 途中から小走りになった(笑) ロープウェイ発車まで、あと30分。 さっきまで側で笑い声が聞こえていた。 今は、自分の足音だけが響く。 「……寂しいな。」 思わず笑ってしまう。 仲間と歩く山は、やっぱり特別なんだ。 二十分ほどで駅へ着き、余裕を持ってロープウェイへ乗り込む。 窓の外では、美しい千畳敷カールが少しずつ遠ざかっていく。 「また来るからな。」 心の中で、そっと呟いた。 ロープウェイは静かに高度を下げて雲の中に入っていく。 山の世界から、日常へ。 でも不思議だった。 仕事へ向かう足取りは、少しも重くない。 今日という一日が、心を満たしてくれたから。 さあ――家へ帰って、仕事という名の、もう一つの山を登ろう。楽しみだ💦






