10:17
18.9 km
1186 m
高倉山 気高き板は五色に光る
吾妻山・一切経山 (福島, 山形)
2024年03月28日(木) 日帰り
【3月17日】 宗川旅館の閉館以来、途絶えていた名湯が復活したと聞きつけ、五色温泉オートキャンプ場へと車を走らせた。受付に向かうと、暖炉のそばに飾られた古いスキー板に目が留まった。 「澄宮殿下御下賜」。 今なお鈍い光沢を放つそれは、五色温泉の皇族専用スキーロッジ「六華倶楽部」に通われた昭和天皇の三弟・三笠宮崇仁殿下のもの。 この簡素な板でよくぞ、と驚くと同時に、スキーの核心だけを削り出したかのような佇まいにまじまじと見入ってしまった。 ---------- 「僕の腹の中にいつの頃からか変な虫が巣を喰っている。十一月頃からこの虫が腹の中で暴れて、雪が食いたい、雪が食いたいとがなりたてる。 そうすると身体中の血がにえ返って、雪の天地が目の前にちらついて、いても立ってもいられなくなってくる。」 (板倉勝宣「五色温泉スキー日記」、1977) 明治〜大正の山スキー黎明期、厳冬の立山に散った板倉勝宣。その腹の奥底に棲みついていた虫は、当時の皇室にも根深く蔓延っていたという。 裕仁親王、後の昭和天皇は戦争を率いる強靭な身体を育むため、幼少期から様々なスポーツを課されていた。 半ば強制的な「御運動」のなかで、自ら進んでやろうと仰るのはもっぱらスキーだったと伝えられているが(坂上康博『昭和天皇とスポーツ 〈玉体〉の近代史』、2016)、とりわけ重症であったのがその三人の皇弟たちだった。 スキー場のない時代から雪山に分け入る悦びに取り憑かれ、長弟・秩父宮雍仁殿下は「百転千倒しても少しも苦痛を感じないどころか、いよいよ面白さを感じひきつけられてゆく」「一度、白銀の世界の快味を覚えると(…)すぐにも再び雪の世界に帰りたくなる」との症状を訴えたほか(秩父宮雍仁『皇族に生まれて』、2005)、二弟・高松宮宣仁殿下に至っては齢八十を超えてなお現役で滑られたというから(『高松宮宣仁親王』、1996)、治癒は困難であるらしい。 明治44年、日本最初のスキー場が開設された山形県の五色温泉。 スキーの起源とも言うべき地に存在した六華倶楽部とは、かの虫を拗らせた者が集う巣であったのだろう。 ---------- 【3月28日】 五色温泉への当時の交通手段はもっぱらスキーであり、皇族らも最寄の板谷駅からその足で登られたそうだ(『秩父宮雍仁親王』、1972)。 先人たちに倣わんと、奥羽本線始発で板谷駅へ。 五色温泉まではロードを歩き、登山口からはスキー、高倉山への尾根手前からはアイゼンワカンに履き替えて登っていく。 冬季国体では高倉山〜五色温泉〜板谷駅をつなぐ滑走コースが整備された時代もあったというが、今やその頂を踏む者は少ない。 1325ピークまでは雪も締まり平易だが、まじできつかったのがその先。 なだらかな傾斜に吹き溜まった湿雪でラッセルが馬鹿重く、かと思えば山頂直下は45度の急登かつモナカ雪という非道。 高倉山頂ではリアル這這の体だったが、視界いっぱいの吾妻連峰には報われた思いがした。 ---------- 余談だが、五色の板の主である三笠宮殿下の子女も、熱心なスキー愛好家として知られている。 長男・寛仁親王は、学習院大学スキー部の主将を務めたほどの腕前であり、「「大学の専攻は?」と、聞かれれば、「スキーです」と答えたほどのスキー気狂い」と自称した(三笠宮寛仁『トモさんのえげれす留学』、1971)。 次男・憲仁親王も同大学スキー部の練習に明け暮れ、二年次には練習中に左足を複雑骨折。 その治療により留年を余儀なくされたが、「ちゃんと先輩のまねをしなくてはいけないので、私も五年間行くことにしました」と部活を続けられたそうだ(『高円宮憲仁親王』、2005)。 血は争えない、とはまさにこのことか…。 スキーの虫の居着きやすさは、どうやら遺伝性でもあるのかもしれない。
