今回も山旅ではありません! 豊前街道を走って(歩いて)みます。今回は南関町~熊本城の札の辻までです。南関から山鹿間は豊前街道の標識や説明文をかいた部分が多くとても楽しく歩けました。特に腹切り坂はとても良かったです(3月末まで長ノ原付近で復旧行為があっている)。西南の役についてもさらに理解を深めることができました。この区間はもうほとんど車が通る道を行かないのでとても走りやすく、一回行ってもいいかなって思えるくらいでした。 山鹿の街並みを楽しんだ後からは、豊前街道の面影はありますがかなり薄くなります。時々里程標がでてくるとホッとします。3号線付近に入ると交通量も歩道にも人多くなり…マスクがつらい。 その中でも御馬下の角小屋では、休憩もかねてゆっくり資料を見ることができました。無事に熊本城についてゴールし、上熊本駅から帰宅です。 僕は、交通の関係から南関から熊本城でしたが、行くなら熊本城出発のほうが看板が見やすいと思いました。
南関町上町までバスを利用して御番所あとからスタート
南関御茶屋跡。藩主が参勤交代や藩内巡回時に利用されていたとのこと。細川家だけではなく相良家や島津家も利用して様です。
南ノ関宿溝口跡
南関付近はとてもわかりやすいです
小原城が焼け落ちるのをみて姫が自害したそうです
豊前街道と高瀬往還の分岐になるそうでここに追分石があるようです。
熊本城札ノ辻から10里(40キロ)地点。もとは榎が植えてあったようです
高速の横に出てきます
ここら辺はとても分かりやすい
ここ付近は小原の茶屋があったそう。参勤交代の道は一般の人も往来していたとのことで、なんと吉田松陰やなども通ったとか
肥猪町付近はとても雰囲気がありあした
官軍墓地
鍋田や平山の戦闘で命を落とした方が埋葬されているようです
御茶屋跡(瀬口家)
南関と山鹿の間にある半宿の町
あと36㎞
山鹿まではこのような道が続きます。人とすれ違うこともありません
後ろの木は何でしょうか?植物は全く興味がないのでわかりません
六本松。ここ付近は昔は開けていて遠くから六本の松がよく見えていたと。坂道を登って旅人はそこで汗を拭いていたそうな。現在では松に変わり楠が植えてある。
なんと恐ろしい
いい感じの石でした
参勤交代は豊前街道と豊後街道を利用してたようです。参勤は豊前、下国は豊後を利用することが多かったようです。
昔と近い風景が残る場所だそうです
白坂です。ここでも戦いがあったそうです
吉田松陰通過街道とありました
光行寺
光行寺の横にある下岩官軍墓地。鍋田、岩方面の戦闘で亡くなった熊本、広島、大阪、東京の各鎮台の将兵の墓地
南関方面から腹切坂入口
腹切り坂。苔むしてかなりいい雰囲気でした
山鹿方面腹切坂入口
激戦地の永ノ原
いけませんでした
そんな激戦地とは知りませんでいた…
境界
砲台跡。昔は開けていてそこから狙ったのか急坂を登ってくる相手を狙ったのか…想像は広がります
車坂入口
あと28㎞
山鹿博物館より
復元移築された大坪橋。通潤橋と同様に用水を引くために作られた橋です
南関方面と八女方面を記した追分石
鍋田横穴
山鹿に突入
山鹿の街並み
八千代座
さくら湯。客人がいたので建物は撮れませんでした
篤姫や武蔵、夏目漱石などの有名人も入ったそうです。ひろすけもは入浴したことあります。
ここから川を渡しで渡るんですね
残り24㎞
うらやま坂
比丘尼坂
ここを曲がり損ねてルートを間違えました
ここで間違いに気づき急いで戻る。間違えた時のきつさときたら…
乙貝坂。かつての難所
ほんの一瞬だけトレイルになります。深い切通になってます。こうした道は凹道と呼ばれ加藤清正が軍事的に意図してしていたものです
放牛地蔵
味取町
錆びくれてる
植木付近
街道沿いはたくさんの神社がありました
河原少尉を勉強します
明徳官軍墓地。交通機動隊の近くにありました
あと8㎞
御馬下の角小屋
とてもいい面白いとこだったけど疲れて頭に入らない
こんにちは
次はどこに行きましょうか?
厠
熊本城につきました
城の中を街道が通ることは珍しく熊本城の特徴の一つだそう
藩の掲げる高札があったので礼の辻とよばれたと。ここから豊後、豊前、日向、薩摩の4街道が始まるそうです
起点でゴール