金沢八景を巡る その弍

2021.04.11(日) 日帰り

チェックポイント

DAY 1
合計時間
3 時間 35
休憩時間
20
距離
10.2 km
のぼり / くだり
112 / 114 m
4
3 15

活動詳細

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時の都・お江戸からも、天下の往来・東海道からも絶妙に距離が離れており、日々の喧騒から逃れて非日常を感じることのできた「金沢八景」。手軽に風光明媚な景色を楽しみたいなら「金沢八景」一択、「金沢八景」しか勝たん。そんな感じで、江戸時代の「金沢八景」は関東近郊の一大観光地として名を馳せていました。そんな「金沢八景」を巡る散策の後編です。 「金沢八景」の基礎知識は前回の冒頭で述べた通りなんですが、ひとつだけ、あまり触れていない部分がありました。今回はそれについて補足しておこうと思います。 前回少しだけご紹介した通り、「金沢八景」には一景一景にタイトルがついているんですよね。改めて列記するととこんな感じです。  小泉夜雨(こずみのやう)  称名晩鐘(しょうみょうのばんしょう)  洲崎晴嵐(すさきのせいらん)  乙艫帰帆(おつとものきはん)  瀬戸秋月(せとのしゅうげつ)  内川暮雪(うちかわのぼせつ)  平潟落雁(ひらかたのらくがん)  野島夕照(のじまのせきしょう) これは、前2文字が地名、後2文字が事象を表す言葉で構成されており、要するに、どこどこの場所でこういうものに注目すればよりいっそう映えますよ、というのを端的に表しています。 ところでこれ、誰が考えたんでしょうか。あの例の心越禅師は既にこれらの言葉を使っており、それぞれをタイトルとして七言絶句の漢詩をしたためたというのです。ならば禅師が考えたのでしょうか。あるいは、それより前の誰かが考えたのか、それとも地元の人たちの口伝かなんかでいつしか自然発生的に出来上がっていったのか...。 と、いろいろ妄想は尽きませんが、実はこれ、元ネタがありまして、後2文字の言葉は、既に中国の「瀟湘八景」で使われているんです。具体的には、  瀟湘夜雨  煙寺晩鐘  山市晴嵐  遠浦帰帆  洞庭秋月  江天暮雪  平沙落雁  漁村夕照 これが「瀟湘八景」の各タイトルなんです。つまり、「金沢八景」の八つのタイトルは、「瀟湘八景」のタイトルの地名の部分だけ変えて出来たものものなんですよね。後2文字の事象の部分は、言わば「八景のテンプレ」として使い回されたわけです。 そして「瀟湘八景」に関する知見を持っていた心越禅師は、この「八景のテンプレ」に金沢の景勝地をうまく当てはめていったのでしょう。 というわけで、本編へいきましょうか。

鎌倉アルプス(大平山・天台山) 本来ならば前回の終了地点である洲崎から始めるべきところなんですが、なんとしても野島山に登っておきたい私としては、それだとどうしても巡回効率が悪くなってしまうんですよね。なので、特例でワープを使いまして、野島からスタートすることにしました。効率は大事です。
本来ならば前回の終了地点である洲崎から始めるべきところなんですが、なんとしても野島山に登っておきたい私としては、それだとどうしても巡回効率が悪くなってしまうんですよね。なので、特例でワープを使いまして、野島からスタートすることにしました。効率は大事です。
鎌倉アルプス(大平山・天台山) 陸繋島の末端にあった野島山は、元々は好き好んで訪れるような山ではありませんでした。それこそ戦時中には戦闘機の格納庫「野島掩体壕」が掘られたような場所。ところが戦後になって横浜市金沢区における臨海公園計画が立てられ、その一環として昭和31年に野島公園がオープンし、こうして気軽に登ることができるようになったというわけです。
陸繋島の末端にあった野島山は、元々は好き好んで訪れるような山ではありませんでした。それこそ戦時中には戦闘機の格納庫「野島掩体壕」が掘られたような場所。ところが戦後になって横浜市金沢区における臨海公園計画が立てられ、その一環として昭和31年に野島公園がオープンし、こうして気軽に登ることができるようになったというわけです。
鎌倉アルプス(大平山・天台山) 239段の階段を上りきった先に待ち構えているのは展望台。言わば「第三の能見堂」とでも呼んでおきましょうか。
239段の階段を上りきった先に待ち構えているのは展望台。言わば「第三の能見堂」とでも呼んでおきましょうか。
鎌倉アルプス(大平山・天台山) お、期待通り能く見えますなあ。
左の森が能見堂緑地、右のお山が金沢山。「金沢八景」を語る上で双方とも欠かすことのできない場所です。そして、ここに見える市街地の大部分は、江戸時代後期頃まで内海(入り江)でした。
お、期待通り能く見えますなあ。 左の森が能見堂緑地、右のお山が金沢山。「金沢八景」を語る上で双方とも欠かすことのできない場所です。そして、ここに見える市街地の大部分は、江戸時代後期頃まで内海(入り江)でした。
鎌倉アルプス(大平山・天台山) 一方こちらは、真の「金沢八景」とは関係のない人工島、八景島です。「金沢八景」を巡って思い入れが出来てくると、「かんけーねーじゃんか」と、こういうものをとかく否定的な目で見ようとしがちです。しかし冷静になって考えてみると、八景島は、この武州金沢の地に「金沢八景という文化がかつて存在した」ということを語り継いでいく役割を担ってくれているのかもしれません。
一方こちらは、真の「金沢八景」とは関係のない人工島、八景島です。「金沢八景」を巡って思い入れが出来てくると、「かんけーねーじゃんか」と、こういうものをとかく否定的な目で見ようとしがちです。しかし冷静になって考えてみると、八景島は、この武州金沢の地に「金沢八景という文化がかつて存在した」ということを語り継いでいく役割を担ってくれているのかもしれません。
鎌倉アルプス(大平山・天台山) というわけで、続いてこちらにも触れておきましょう。綺麗なお花が咲いていますが、これはボタン科ボタン属の「ボタン」、漢字で書くと「牡丹」です。この牡丹園は、金沢に居を構えていた永島家の牡丹園を再現したものだそうなんですが...永島さんって誰ですか?簡単に言えば、江戸時代に金沢の内海を埋め立てて新田開発をした人です。
というわけで、続いてこちらにも触れておきましょう。綺麗なお花が咲いていますが、これはボタン科ボタン属の「ボタン」、漢字で書くと「牡丹」です。この牡丹園は、金沢に居を構えていた永島家の牡丹園を再現したものだそうなんですが...永島さんって誰ですか?簡単に言えば、江戸時代に金沢の内海を埋め立てて新田開発をした人です。
鎌倉アルプス(大平山・天台山) 新田開発で埋め立てた土地は、やがて横浜市の都市化の波に飲み込まれてゆき、住宅地、工場、鉄道、道路、公共施設、商業施設、公園などが造られ、金沢区の中心市街へと姿を変えました。その第一歩を踏んだ永島家と深い関わりのあった「牡丹」は、平成5年「金沢区の花」に選定され、そして区のゆるキャラ「ぼたんちゃん」が誕生したのです。
新田開発で埋め立てた土地は、やがて横浜市の都市化の波に飲み込まれてゆき、住宅地、工場、鉄道、道路、公共施設、商業施設、公園などが造られ、金沢区の中心市街へと姿を変えました。その第一歩を踏んだ永島家と深い関わりのあった「牡丹」は、平成5年「金沢区の花」に選定され、そして区のゆるキャラ「ぼたんちゃん」が誕生したのです。
鎌倉アルプス(大平山・天台山) さてさて、何やら大勢の人々が海の中で何かをやっています。これは、江戸時代に、気軽なレジャーとして庶民たちへ浸透していった「潮干狩り」ですね。野島の周辺には遠浅の海が広がっているため、干潮時には絶好の潮干狩りスポットになります。潮干狩りは、江戸時代から現代まで生き続けている数少ない文化のうちの一つですね。
さてさて、何やら大勢の人々が海の中で何かをやっています。これは、江戸時代に、気軽なレジャーとして庶民たちへ浸透していった「潮干狩り」ですね。野島の周辺には遠浅の海が広がっているため、干潮時には絶好の潮干狩りスポットになります。潮干狩りは、江戸時代から現代まで生き続けている数少ない文化のうちの一つですね。
鎌倉アルプス(大平山・天台山) さて、野島でばかり油を売ってないで、いいかげん八景巡りを再開させましょう。と、次の場所へ向かいたいところなんですが、海によって行く手を阻まれてしまいました。野島は陸繋島であるはずなのに、これはいったいどういうことなのでしょうか。
さて、野島でばかり油を売ってないで、いいかげん八景巡りを再開させましょう。と、次の場所へ向かいたいところなんですが、海によって行く手を阻まれてしまいました。野島は陸繋島であるはずなのに、これはいったいどういうことなのでしょうか。
鎌倉アルプス(大平山・天台山) 元々、内海と東京湾を行き来する船の出入り口は野島の南側にありましたが、戦時中、そこへ軍の連絡道路が造られることになり、航路が閉鎖されることになりました。そこで昭和20年に、一般の船の航路を確保するために、野島の北側にあたるこの場所に運河が開削され、野島は陸から分断されて文字通り「島」になったというわけです。
元々、内海と東京湾を行き来する船の出入り口は野島の南側にありましたが、戦時中、そこへ軍の連絡道路が造られることになり、航路が閉鎖されることになりました。そこで昭和20年に、一般の船の航路を確保するために、野島の北側にあたるこの場所に運河が開削され、野島は陸から分断されて文字通り「島」になったというわけです。
鎌倉アルプス(大平山・天台山) ひとまずこれで野島に思い残す事はありませんので、心置きなく八景巡りを再開しましょうか。まずは四景目の「乙艫帰帆」から。ここに描かれている乙艫の海岸は埋め立てにより姿を消してしまいましたが、その埋め立てによって造られた場所で、これと近しい風景を見ることができます。
ひとまずこれで野島に思い残す事はありませんので、心置きなく八景巡りを再開しましょうか。まずは四景目の「乙艫帰帆」から。ここに描かれている乙艫の海岸は埋め立てにより姿を消してしまいましたが、その埋め立てによって造られた場所で、これと近しい風景を見ることができます。
鎌倉アルプス(大平山・天台山) 元々あった乙艫の自然海岸を埋め立てて昭和63年に誕生した「海の公園」。偶然なのか意図したのか分かりませんが、松の並木道、海、山並みの配置が「乙艫帰帆」と非常によく似ています。ここに帰り船があれば完璧なのですが、もはや行楽場と化したこの海を船が通ることは無いでしょう。
元々あった乙艫の自然海岸を埋め立てて昭和63年に誕生した「海の公園」。偶然なのか意図したのか分かりませんが、松の並木道、海、山並みの配置が「乙艫帰帆」と非常によく似ています。ここに帰り船があれば完璧なのですが、もはや行楽場と化したこの海を船が通ることは無いでしょう。
鎌倉アルプス(大平山・天台山) というわけで、町屋の辻に到着です。これより金沢道を通って、瀬戸橋に向かいたいと思います。
というわけで、町屋の辻に到着です。これより金沢道を通って、瀬戸橋に向かいたいと思います。
鎌倉アルプス(大平山・天台山) 五景目「瀬戸秋月」。金沢の内海の形を、分かりやすく数字の「8」で考えてみた場合、真ん中の交点の部分が「瀬戸橋」に当たります。周囲の地形の関係で、奇跡的に狭まっている箇所があったので、橋が架けられ、東西へ横断することができました。広重さんの絵では、右手前には料亭が、そして左奥には野島山が描かれています。
五景目「瀬戸秋月」。金沢の内海の形を、分かりやすく数字の「8」で考えてみた場合、真ん中の交点の部分が「瀬戸橋」に当たります。周囲の地形の関係で、奇跡的に狭まっている箇所があったので、橋が架けられ、東西へ横断することができました。広重さんの絵では、右手前には料亭が、そして左奥には野島山が描かれています。
鎌倉アルプス(大平山・天台山) 野島山と瀬戸橋の位置関係から考えて、このあたりから見た景色なんじゃないでしょうかね。料亭があったと思われる場所には、昭和平成令和のサラリーマンや冠婚葬祭を支えてきた「洋服の青山」が建っています。また、その対岸にはマンションが建ち並び、このあたりから野島山を見ることはできなくなりました。
野島山と瀬戸橋の位置関係から考えて、このあたりから見た景色なんじゃないでしょうかね。料亭があったと思われる場所には、昭和平成令和のサラリーマンや冠婚葬祭を支えてきた「洋服の青山」が建っています。また、その対岸にはマンションが建ち並び、このあたりから野島山を見ることはできなくなりました。
鎌倉アルプス(大平山・天台山) 京浜急行電鉄および横浜シーサイドラインの「金沢八景駅」の前にやって来ました。現在「金沢八景」を楽しむ文化は無くなってしまいましたが、その言葉だけは、こうして駅名として受け継がれています。
京浜急行電鉄および横浜シーサイドラインの「金沢八景駅」の前にやって来ました。現在「金沢八景」を楽しむ文化は無くなってしまいましたが、その言葉だけは、こうして駅名として受け継がれています。
鎌倉アルプス(大平山・天台山) 続いて国道16号線「六浦」交差点に到着です。ここから先は内海ですので、内陸側へいったん大きく迂回しなければなりません。
続いて国道16号線「六浦」交差点に到着です。ここから先は内海ですので、内陸側へいったん大きく迂回しなければなりません。
鎌倉アルプス(大平山・天台山) ここは侍従川に架かる諏訪之橋。何の変哲もない小さな橋にしか見えませんが、かつては鎌倉と浦賀を分ける交通の要衝でした。つまり、橋の先を右折すれば朝夷奈切通を抜けて鎌倉に至る「六浦道」、橋の先を左折すれば十三峠を越えて浦賀に至る「浦賀道」となっていたのです。
ここは侍従川に架かる諏訪之橋。何の変哲もない小さな橋にしか見えませんが、かつては鎌倉と浦賀を分ける交通の要衝でした。つまり、橋の先を右折すれば朝夷奈切通を抜けて鎌倉に至る「六浦道」、橋の先を左折すれば十三峠を越えて浦賀に至る「浦賀道」となっていたのです。
鎌倉アルプス(大平山・天台山) というわけで、再び国道16号線。瀬ヶ崎というところに到着です。
というわけで、再び国道16号線。瀬ヶ崎というところに到着です。
鎌倉アルプス(大平山・天台山) 六景目は、現地特定が「金沢八景」の中でイチニを争うほど難解と言われている「内川暮雪」です。おおかた「瀬ヶ崎」のあたりと言われていますが、その場合、あの向こうに見える山並みはどこのものなのでしょうか。
六景目は、現地特定が「金沢八景」の中でイチニを争うほど難解と言われている「内川暮雪」です。おおかた「瀬ヶ崎」のあたりと言われていますが、その場合、あの向こうに見える山並みはどこのものなのでしょうか。
鎌倉アルプス(大平山・天台山) 「瀬ヶ崎」という地名は現在の住所表記からは消えてしまいましたが、瀬ヶ崎小学校、瀬ヶ崎バス停、瀬ヶ崎通り、瀬ヶ崎神社などにその名が残されています。これらの位置から考えると、上の図の小半島の左つけ根から左側面にかけて一帯を「瀬ヶ崎」と呼んでいたものと思われます。
「瀬ヶ崎」という地名は現在の住所表記からは消えてしまいましたが、瀬ヶ崎小学校、瀬ヶ崎バス停、瀬ヶ崎通り、瀬ヶ崎神社などにその名が残されています。これらの位置から考えると、上の図の小半島の左つけ根から左側面にかけて一帯を「瀬ヶ崎」と呼んでいたものと思われます。
鎌倉アルプス(大平山・天台山) となると、目につく山は、二子山とか鷹取山とかではなく、この小半島の脊梁(と言うには大袈裟ですけれど)の山なんですよね。
となると、目につく山は、二子山とか鷹取山とかではなく、この小半島の脊梁(と言うには大袈裟ですけれど)の山なんですよね。
鎌倉アルプス(大平山・天台山) 非常に規模は小さいですが、かつては武蔵国と相模国の国境に定められていたほどの脊梁でもあります。人はこの山並みを「天神山脈」と呼んでいました。「内川暮雪」に描かれた山並みは、この天神山脈だったのではないでしょうか。
非常に規模は小さいですが、かつては武蔵国と相模国の国境に定められていたほどの脊梁でもあります。人はこの山並みを「天神山脈」と呼んでいました。「内川暮雪」に描かれた山並みは、この天神山脈だったのではないでしょうか。
鎌倉アルプス(大平山・天台山) あるいは、もう一つの考え方として、内海を挟んだ対岸に見える大丸山、円海山、権現山、御伊勢山、金沢山などの山並みだったのでしょうか。目の前の住宅街の陸地はかつては存在せず、山の端まで内海が広がっていましたからね。
あるいは、もう一つの考え方として、内海を挟んだ対岸に見える大丸山、円海山、権現山、御伊勢山、金沢山などの山並みだったのでしょうか。目の前の住宅街の陸地はかつては存在せず、山の端まで内海が広がっていましたからね。
鎌倉アルプス(大平山・天台山) 結局はよく分からないんですけれども、こうやって、あれこれ調べたりあれこれ推測したりするのが面白いんです。さて、いよいよ残すところ野島山周りのニ景のみとなりました。
結局はよく分からないんですけれども、こうやって、あれこれ調べたりあれこれ推測したりするのが面白いんです。さて、いよいよ残すところ野島山周りのニ景のみとなりました。
鎌倉アルプス(大平山・天台山) 七景目は「平潟落雁」です。右の奥には野島山、その手前には内海が広がっています。ちょうど潮が引いているようで、干潟には潮干狩りに勤しむ人々が描かれています。
七景目は「平潟落雁」です。右の奥には野島山、その手前には内海が広がっています。ちょうど潮が引いているようで、干潟には潮干狩りに勤しむ人々が描かれています。
鎌倉アルプス(大平山・天台山) かつて存在していた内海のうち、現代の世に唯一残されているのがこの部分でして、今は「平潟湾」という名で呼ばれています。そしてなんと偶然なことに、「平潟落雁」で描かれているのと同様、人々が潮干狩りに勤しんでおります。様々なものが変化していく中で、「変わらないものもあるんだ」ということに気付かされました。
かつて存在していた内海のうち、現代の世に唯一残されているのがこの部分でして、今は「平潟湾」という名で呼ばれています。そしてなんと偶然なことに、「平潟落雁」で描かれているのと同様、人々が潮干狩りに勤しんでおります。様々なものが変化していく中で、「変わらないものもあるんだ」ということに気付かされました。
鎌倉アルプス(大平山・天台山) ちなみに現代の平潟湾は「柿の種」のような形をしていて、瀬戸橋のあたりまで湾入しており、その海面には多くのボートが係留してあります。
ちなみに現代の平潟湾は「柿の種」のような形をしていて、瀬戸橋のあたりまで湾入しており、その海面には多くのボートが係留してあります。
鎌倉アルプス(大平山・天台山) さていよいよ八景目。最後を飾るは「野島夕照」です。内海を挟んだ対岸から野島山を見た様子が描かれておりますが、視線の位置が地べたより少し高めであることにお気づきでしょうか。おそらく対岸にあった高台の展望台「四望亭」から見た様子なのではないでしょうか。
さていよいよ八景目。最後を飾るは「野島夕照」です。内海を挟んだ対岸から野島山を見た様子が描かれておりますが、視線の位置が地べたより少し高めであることにお気づきでしょうか。おそらく対岸にあった高台の展望台「四望亭」から見た様子なのではないでしょうか。
鎌倉アルプス(大平山・天台山) しかし四望亭のあった高台は、太平洋戦争中、追浜飛行場を拡張するために山ごと削り取られてしまいました。現代の世において、その四望亭のせめてもの代わりとなるのがこの「ジープ山」ですね。それではこのジープ山に登って、野島山を見てみることにしましょう。
しかし四望亭のあった高台は、太平洋戦争中、追浜飛行場を拡張するために山ごと削り取られてしまいました。現代の世において、その四望亭のせめてもの代わりとなるのがこの「ジープ山」ですね。それではこのジープ山に登って、野島山を見てみることにしましょう。
鎌倉アルプス(大平山・天台山) なるほどこんな感じですか。内海があまり良く見えないのが残念ですけれども、目線の高さとか野島山の雰囲気やなんかは似ているような気がします。

てなわけで、「金沢八景」巡りはこれにて無事完結です。広重さんの絵に描かれた風景はほとんど失われてしまっており、自然が失われてしまった事は自然愛好家としては残念です。しかし今回の比較を行うことによって、人間の営みの歴史を垣間見ることができ、現代の生活はこうした歴史の積み重ねの上に成り立っているのだということを改めて実感することができました。しかしそれにしてもこの変化、たかだか二百年程度の間に起きたんですよね。いや〜人間の力ってのは凄いですね。

それでは、ここまでお付き合い頂きまして誠にありがとうございました。
なるほどこんな感じですか。内海があまり良く見えないのが残念ですけれども、目線の高さとか野島山の雰囲気やなんかは似ているような気がします。 てなわけで、「金沢八景」巡りはこれにて無事完結です。広重さんの絵に描かれた風景はほとんど失われてしまっており、自然が失われてしまった事は自然愛好家としては残念です。しかし今回の比較を行うことによって、人間の営みの歴史を垣間見ることができ、現代の生活はこうした歴史の積み重ねの上に成り立っているのだということを改めて実感することができました。しかしそれにしてもこの変化、たかだか二百年程度の間に起きたんですよね。いや〜人間の力ってのは凄いですね。 それでは、ここまでお付き合い頂きまして誠にありがとうございました。

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