史跡 奥州街道

2024.05.02(木) 日帰り

チェックポイント

DAY 1
合計時間
10 時間 26
休憩時間
35
距離
46.6 km
のぼり / くだり
1476 / 1159 m
10 27

活動詳細

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 岩手県一戸町(いちのへまち)を南北に縦断する奥州街道を、北から南へ向けて歩いてきました。(街道に近接する「世界遺産 御所野遺跡」にも立ち寄ってきました。)  一戸町の山間を通る奥州街道は、日本の交通史を物語る貴重な遺構であることから、平成22年2月に国指定史跡となっています。  その指定範囲は、街道の未舗装区間7カ所と浪打峠、川底、旧中山、御堂・馬羽松の4つの一里塚です。(詳細は1枚目の写真のとおりです。)  一戸町内の奥州街道には、多くの誘導柱や各所の解説板が設けられ、また、歩きやすく整備もされています。  天候にも恵まれ、充実のトレイルでした。 ・・・・・・・・・・・・ 【国指定史跡 奥州街道について】  次のHPで解説等がなされています。 ・広報いちのへ 2019年12月号  奥州街道のルート情報等の詳細が掲載されています。  https://www.town.ichinohe.iwate.jp/soshikikarasagasu/seisakukikakuka/koho/kohoichinohe/2019/2464.html ・一戸町(公式)  奥州街道の概要について紹介されています。  https://www.town.ichinohe.iwate.jp/soshikikarasagasu/sekaiisanka/bunkazaikakari/1/01/969.html ・一戸町観光協会  一戸町内にある4つの駅を起点とした奥州街道の周遊ルートが紹介されています。  https://www.ichinohekankou.jp/sightseeing/history/oshukaidou/ ・銀河鉄道観光(IGRいわて銀河鉄道)  IGRいわて銀河鉄道で、奥州街道を歩くツアー(全5回)が開催されています。  https://igr-t.jp/2024/01/10/%e6%ad%b4%e5%8f%b2%e8%a1%97%e9%81%93%e3%82%92%e6%ad%a9%e3%81%8f2024%e3%83%bb%e5%a5%a5%e5%b7%9e%e8%a1%97%e9%81%93%e2%91%a0/%e5%a5%a5%e5%b7%9e%e8%a1%97%e9%81%93%e3%83%95%e3%83%a9%e3%82%a4%e3%83%a4%e3%83%bc2024%e3%80%90a3%e7%89%88%e3%80%91-4/ ・近代こもんじょ館  文化審議会が「奥州街道」を国史跡に指定するよう答申した際の新聞記事の情報が掲載されています。(平成21年11月21日付「岩手日報」)  https://komonjokan.net/cgi-bin/komon/topics/topics_view.cgi?mode=details&code_no=310&start= ・東北自然歩道 新・奥の細道(岩手県)  ルートの一部は、「25 旧奥州街道のみち」・「26 末の松山のみち」にも指定されているようです。  https://www.pref.iwate.jp/kurashikankyou/shizen/shizen/1005443.html

鳥越山 今回の奥州街道のルート図(一戸町内部分)

一戸町(いちのへまち)を北から南へ縦断します。一戸町内の奥州街道については、「広報いちのへ 2019年12月号」で詳しく解説されています。

[ルート図の出典:広報いちのへ 2019年12月号(6ページ・7ページ)]
https://www.town.ichinohe.iwate.jp/soshikikarasagasu/seisakukikakuka/koho/kohoichinohe/2019/2464.html
今回の奥州街道のルート図(一戸町内部分) 一戸町(いちのへまち)を北から南へ縦断します。一戸町内の奥州街道については、「広報いちのへ 2019年12月号」で詳しく解説されています。 [ルート図の出典:広報いちのへ 2019年12月号(6ページ・7ページ)] https://www.town.ichinohe.iwate.jp/soshikikarasagasu/seisakukikakuka/koho/kohoichinohe/2019/2464.html
鳥越山 奥中山高原駅の駐車場にクルマを停めて、
奥中山高原駅の駐車場にクルマを停めて、
鳥越山 スタート地点の二戸駅に向かいます。
スタート地点の二戸駅に向かいます。
鳥越山 二戸駅からスタートします。
二戸駅からスタートします。
鳥越山 九戸城跡方面に向けて北上します。
九戸城跡方面に向けて北上します。
鳥越山 いい天気です。
いい天気です。
鳥越山 眼下にはこれから向かう岩谷観音堂。改修工事中のようです。
眼下にはこれから向かう岩谷観音堂。改修工事中のようです。
鳥越山 奥州道中の追分石(左下)がありました。「右もりおか 左白とり」と刻まれています。
奥州道中の追分石(左下)がありました。「右もりおか 左白とり」と刻まれています。
鳥越山 奥州道中の追分石

 安永乙未夏(1775年)、当時の福岡通代官大巻勇助によって建立された追分石。「右 もりおか 左白とり」と刻まれています。 元々は右手の板を下った所にあり、白鳥道と奥州道中の分岐点に建つ道標でした。

 奥州道中は奥州白川から津軽外ヶ浜に至る八十九次(「次」は宿駅のこと)で、盛岡を過ぎると「山又山の果てしなき地」だったそうです。この石は現在でいう道標として、 街道を往来した旅人の道中手掛かりの役目を果たしていました。

 また、右手坂の先には、奥州糠部三十三所観音霊場巡礼の第二十八番札所にかぞえられる岩谷観音堂がありますので、ご参詣ください。
奥州道中の追分石  安永乙未夏(1775年)、当時の福岡通代官大巻勇助によって建立された追分石。「右 もりおか 左白とり」と刻まれています。 元々は右手の板を下った所にあり、白鳥道と奥州道中の分岐点に建つ道標でした。  奥州道中は奥州白川から津軽外ヶ浜に至る八十九次(「次」は宿駅のこと)で、盛岡を過ぎると「山又山の果てしなき地」だったそうです。この石は現在でいう道標として、 街道を往来した旅人の道中手掛かりの役目を果たしていました。  また、右手坂の先には、奥州糠部三十三所観音霊場巡礼の第二十八番札所にかぞえられる岩谷観音堂がありますので、ご参詣ください。
鳥越山 ここを下って岩谷観音堂に向かいます。
ここを下って岩谷観音堂に向かいます。
鳥越山 岩谷観音堂です。いまは改修作業中で近づけるのはここまでです。
岩谷観音堂です。いまは改修作業中で近づけるのはここまでです。
鳥越山 岩谷観音堂

 青森県南から、二戸、一戸地域には奥州糠部三十三所観音霊場があります。

 その28番目の霊場が、この岩谷観音堂です。奥州糠部三十 三所観音霊場は、永正9年(1512年)に始められ、寛保3年 (1743年)に八戸天聖寺の則誉守西上人が、ここを第28番札所としました。

 岩谷観音堂は、白鳥川の岩壁を掘って御堂が作られ、御堂までは橋を渡って行きます。伝説によるとむかしむかし、この白鳥川が氾濫した時、川の中から引き上げられた観音像 を祀って作られたのが、この観音堂の始まりといわれてい ます。

 今は、十一面観音菩薩像、阿弥陀如来像の2体が納められています。御堂は赤い扉で閉ざされ、ご開帳は、なんと100年に1度です。
岩谷観音堂  青森県南から、二戸、一戸地域には奥州糠部三十三所観音霊場があります。  その28番目の霊場が、この岩谷観音堂です。奥州糠部三十 三所観音霊場は、永正9年(1512年)に始められ、寛保3年 (1743年)に八戸天聖寺の則誉守西上人が、ここを第28番札所としました。  岩谷観音堂は、白鳥川の岩壁を掘って御堂が作られ、御堂までは橋を渡って行きます。伝説によるとむかしむかし、この白鳥川が氾濫した時、川の中から引き上げられた観音像 を祀って作られたのが、この観音堂の始まりといわれてい ます。  今は、十一面観音菩薩像、阿弥陀如来像の2体が納められています。御堂は赤い扉で閉ざされ、ご開帳は、なんと100年に1度です。
鳥越山 次は九戸城跡へ。
次は九戸城跡へ。
鳥越山 九戸城跡は昭和10年に国の指定を受けた史跡で、九戸政実の4代前の光政が築いたとも言われ、豊臣秀吉天下統一の最後の合戦場となったとのこと。東北最古とみられる石垣遺構が残っているそうです。

[二戸市(公式)]
https://www.city.ninohe.lg.jp/Info/335
九戸城跡は昭和10年に国の指定を受けた史跡で、九戸政実の4代前の光政が築いたとも言われ、豊臣秀吉天下統一の最後の合戦場となったとのこと。東北最古とみられる石垣遺構が残っているそうです。 [二戸市(公式)] https://www.city.ninohe.lg.jp/Info/335
鳥越山 遊歩道を通って本丸方面に向かいます。
遊歩道を通って本丸方面に向かいます。
鳥越山 こちらが正式な入口なのでしょうか?
こちらが正式な入口なのでしょうか?
鳥越山 正面には桜並木。ここは桜の名所のようです。
正面には桜並木。ここは桜の名所のようです。
鳥越山 城跡のジオラマ?がありました。
城跡のジオラマ?がありました。
鳥越山 この辺りが本丸のようです。
この辺りが本丸のようです。
鳥越山 本丸跡の石碑。
本丸跡の石碑。
鳥越山 展望はまずまず。
展望はまずまず。
鳥越山 橋を渡って二の丸方面へ。
橋を渡って二の丸方面へ。
鳥越山 この辺りが二の丸のようです。
この辺りが二の丸のようです。
鳥越山 ニノ丸搦手(あらためて)

 搦手は正面である大手に対し、裏口を意味しま す。二ノ丸の入口である虎口の一つで、大手と同様に城郭を理解する上で重要な道筋です。

 二ノ丸搦手は二ノ丸大手と同じく、南部信直の居城であった福岡城の普請時に改修したと推定されます。現状では細い通路になっていますが、古絵図の中には、二ノ丸大手と同じく方形の空間をもった枡形の虎口が描かれているものがあります。

 二ノ丸搦手から堀底道を通り、若狭館、石沢館、 三ノ丸の各曲輪(くるわ)へ行くことができます。また、九戸氏の本拠地であった九戸方面への道筋にも通じていることから、九戸氏の時代から重要な虎口であった 可能性があります。

 平成29年度の調査によって、搦手の虎口は13メー トル×3メートル以上の規模で、枡形を呈していることが判明しました。二ノ丸大手の虎口と同様に、地表を浅く方形に掘り込んで構築されており、土塁壁際には、土留めの痕跡が確認されました。
ニノ丸搦手(あらためて)  搦手は正面である大手に対し、裏口を意味しま す。二ノ丸の入口である虎口の一つで、大手と同様に城郭を理解する上で重要な道筋です。  二ノ丸搦手は二ノ丸大手と同じく、南部信直の居城であった福岡城の普請時に改修したと推定されます。現状では細い通路になっていますが、古絵図の中には、二ノ丸大手と同じく方形の空間をもった枡形の虎口が描かれているものがあります。  二ノ丸搦手から堀底道を通り、若狭館、石沢館、 三ノ丸の各曲輪(くるわ)へ行くことができます。また、九戸氏の本拠地であった九戸方面への道筋にも通じていることから、九戸氏の時代から重要な虎口であった 可能性があります。  平成29年度の調査によって、搦手の虎口は13メー トル×3メートル以上の規模で、枡形を呈していることが判明しました。二ノ丸大手の虎口と同様に、地表を浅く方形に掘り込んで構築されており、土塁壁際には、土留めの痕跡が確認されました。
鳥越山 石碑がありましたが解説は無く詳細分からず。
石碑がありましたが解説は無く詳細分からず。
鳥越山 八幡宮に立ち寄って、
八幡宮に立ち寄って、
鳥越山 本殿前で少し休憩しました。
本殿前で少し休憩しました。
鳥越山 沿道に馬頭観世音の石碑。街道沿いだからなのか、沿道には神社、石碑、水場が多く置かれているようです。
沿道に馬頭観世音の石碑。街道沿いだからなのか、沿道には神社、石碑、水場が多く置かれているようです。
鳥越山 茅葺屋根の廃屋。
茅葺屋根の廃屋。
鳥越山 桜清水

 桜清水地蔵尊は、天保4年(1833年)日向国臼杵郡岩戸村(現在の宮崎県西臼杵郡高千穂町)の新作と言う人が、旅行者の安全を祈願して建立したもので、お堂の脇から湧き出る清水は、当時の旅人の喉を潤した。
 古書に「山伏の間旅客渇きを凌ぐ也」と記されており旅路の重要な水飲み場であった。
桜清水  桜清水地蔵尊は、天保4年(1833年)日向国臼杵郡岩戸村(現在の宮崎県西臼杵郡高千穂町)の新作と言う人が、旅行者の安全を祈願して建立したもので、お堂の脇から湧き出る清水は、当時の旅人の喉を潤した。  古書に「山伏の間旅客渇きを凌ぐ也」と記されており旅路の重要な水飲み場であった。
鳥越山 こちらが桜清水地蔵尊。
こちらが桜清水地蔵尊。
鳥越山 こちらが湧き水。水量は少なめです。
こちらが湧き水。水量は少なめです。
鳥越山 とても飲む気にはなれない雰囲気です。
とても飲む気にはなれない雰囲気です。
鳥越山 飲料水としてご利用の方へ

水質調査の結果この水は一度沸かしてからお飲み下さることをおすすめいたします。

村松町内会環境衛生部
・・・・・・
飲まない方がよさそうです。
飲料水としてご利用の方へ 水質調査の結果この水は一度沸かしてからお飲み下さることをおすすめいたします。 村松町内会環境衛生部 ・・・・・・ 飲まない方がよさそうです。
鳥越山 桜清水の道の反対側には石仏と、
桜清水の道の反対側には石仏と、
鳥越山 馬頭観世音の石碑。
馬頭観世音の石碑。
鳥越山 緑がいきいきしています。
緑がいきいきしています。
鳥越山 この先を左に曲がって末の松山(浪打峠の交叉層)方面へ。
この先を左に曲がって末の松山(浪打峠の交叉層)方面へ。
鳥越山 ここを登っていきます。
ここを登っていきます。
鳥越山 ここは山下水(やましたみず)。
ここは山下水(やましたみず)。
鳥越山 清水が湧いていますが、
清水が湧いていますが、
鳥越山 先ほどの桜清水と同様に、一度沸かしてから飲むことがおすすめされています。
先ほどの桜清水と同様に、一度沸かしてから飲むことがおすすめされています。
鳥越山 山下水(やましたみず)

 明治9年(1876年)明治天皇が東北御巡幸の折、浪打峠で行われた野立て(※)にこの山下水が用いられ大変喜ばれた。その後この山下水は御膳水と呼ばれる名水となった。

 その水桶に添えて差し出された和歌が石碑に刻まれている。

「足曳(あしひき)の 山下水をくみあげて わが大君に お茶たてまつる」

※野立て
・貴人が野外で駕籠(かご)などを立てて休むこと
・大演習などで野外に設けた天皇の休息所
・天皇や貴人が野外で休息し展望すること、またはその場所
・野外で茶をたてること、または野外で催す茶会
山下水(やましたみず)  明治9年(1876年)明治天皇が東北御巡幸の折、浪打峠で行われた野立て(※)にこの山下水が用いられ大変喜ばれた。その後この山下水は御膳水と呼ばれる名水となった。  その水桶に添えて差し出された和歌が石碑に刻まれている。 「足曳(あしひき)の 山下水をくみあげて わが大君に お茶たてまつる」 ※野立て ・貴人が野外で駕籠(かご)などを立てて休むこと ・大演習などで野外に設けた天皇の休息所 ・天皇や貴人が野外で休息し展望すること、またはその場所 ・野外で茶をたてること、または野外で催す茶会
鳥越山 いい雰囲気の未舗装路を進んでいきます。
いい雰囲気の未舗装路を進んでいきます。
鳥越山 これは東北自然歩道「新奥の細道」の案内板。
これは東北自然歩道「新奥の細道」の案内板。
鳥越山 特徴的な岩場。
特徴的な岩場。
鳥越山 道の反対側にも。
道の反対側にも。
鳥越山 道路の両側は、こんな感じになっています。
道路の両側は、こんな感じになっています。
鳥越山 前方の東屋に向かいます。
前方の東屋に向かいます。
鳥越山 明治天皇御野立之碑

先ほどの山下水の解説板にあったとおり、ここで野立て(※)が行われたようです。

※野立て
・貴人が野外で駕籠(かご)などを立てて休むこと
・大演習などで野外に設けた天皇の休息所
・天皇や貴人が野外で休息し展望すること、またはその場所
・野外で茶をたてること、または野外で催す茶会
明治天皇御野立之碑 先ほどの山下水の解説板にあったとおり、ここで野立て(※)が行われたようです。 ※野立て ・貴人が野外で駕籠(かご)などを立てて休むこと ・大演習などで野外に設けた天皇の休息所 ・天皇や貴人が野外で休息し展望すること、またはその場所 ・野外で茶をたてること、または野外で催す茶会
鳥越山 ここが末の松山浪打峠です。
ここが末の松山浪打峠です。
鳥越山 一戸町内の奥州街道沿いにはこの標柱が数多く設置されています。
一戸町内の奥州街道沿いにはこの標柱が数多く設置されています。
鳥越山 国指定史跡 浪打峠の交叉層の石碑。
国指定史跡 浪打峠の交叉層の石碑。
鳥越山 国指定天然記念物 浪打峠の交叉層

指定年月日
昭和16年8月1日 

所在地
一戸町一戸字大越田(東側)
一戸町一戸字大道沢(西側)

所有者
岩手県

 交叉層とは、普通「偽屋」(クロスラミナ)と呼ばれ、地層津が斜めに交叉する小規模な地層のことで、流動している 水中、または空気中で砂や細礫などが堆積する時に生ずる ものといわれています。

 ここ浪打峠の交叉層は、海水の中で堆積したもので、砂 や軽石の粒や火山岩の粒が主な堆積物で、それにホタテ貝 などの破砕片を多く含み、美しい縞模様をつくりながら積 もり、明瞭な交叉の様子を見せています。

 この交叉層は、その外観が美しく、規模も大きいことか
ら、国の天然記念物として、指定されました。

 この地層は「末の松山層」といわれ、海底火山の噴出が 盛んであった時代に、海水の中で、堆積した「末の松山層」 の、上位の部分の地層で、いまから千五百万年前に堆積し たものと考えられています。

 浪打峠は別名「末の松山」ともいい、昔一戸から福岡(二 戸市)へぬける「奥州街道」となっていた場所です。

平成14年3月29日
一戸町教育委員会
国指定天然記念物 浪打峠の交叉層 指定年月日 昭和16年8月1日 所在地 一戸町一戸字大越田(東側) 一戸町一戸字大道沢(西側) 所有者 岩手県  交叉層とは、普通「偽屋」(クロスラミナ)と呼ばれ、地層津が斜めに交叉する小規模な地層のことで、流動している 水中、または空気中で砂や細礫などが堆積する時に生ずる ものといわれています。  ここ浪打峠の交叉層は、海水の中で堆積したもので、砂 や軽石の粒や火山岩の粒が主な堆積物で、それにホタテ貝 などの破砕片を多く含み、美しい縞模様をつくりながら積 もり、明瞭な交叉の様子を見せています。  この交叉層は、その外観が美しく、規模も大きいことか ら、国の天然記念物として、指定されました。  この地層は「末の松山層」といわれ、海底火山の噴出が 盛んであった時代に、海水の中で、堆積した「末の松山層」 の、上位の部分の地層で、いまから千五百万年前に堆積し たものと考えられています。  浪打峠は別名「末の松山」ともいい、昔一戸から福岡(二 戸市)へぬける「奥州街道」となっていた場所です。 平成14年3月29日 一戸町教育委員会
鳥越山 こちらが浪打峠の交叉層。先ほどの特徴的な岩場は交叉層だったようです。
こちらが浪打峠の交叉層。先ほどの特徴的な岩場は交叉層だったようです。
鳥越山 左側(西側)と、
左側(西側)と、
鳥越山 右側(東側)。
右側(東側)。
鳥越山 緩傾斜の下り坂。気持ちのいいトレイルを進みます。
緩傾斜の下り坂。気持ちのいいトレイルを進みます。
鳥越山 浪打峠一里塚に到着しました。
浪打峠一里塚に到着しました。
鳥越山 浪打峠一里塚と解説板。
浪打峠一里塚と解説板。
鳥越山 国指定史跡 浪打峠一里塚

指定年月日
平成22年2月22日

所在地
一戸町一戸
字大越田(西塚)
字大道沢(東塚)

所有者
(西塚) 塩谷康文
(東塚) 越水幸尚

 江戸時代初期、参勤交代のため大名行列が行われるようになり、交通施設の整備は急速に進みました。

 幹線道路として、江戸の日本橋を起点とする東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道の、いわゆる五街道はよく知られています。宿場が発達し、街道の両側には約4キロメートルごとに一里塚が造られ、旅はたいへんしやすくなってゆきました。

 幕府の道中奉行が管轄する奥州街道は江戸から白河(福島県)まででし たか、道は仙台・盛岡を経て津軽半島の三厩まで続き、これも奥州街道といわれました。

 浪打峠一里塚は、その奥州街道に造られたもので、盛岡から北に15番目の一里塚です。塚は2つとも残っていて、西塚は直径が13メート ル、高さは2メートル、東塚は直径が12メートル、高さは2.8メートルあります。

 明治時代になって、近代的な、幅の広い道路を造るとき、一里塚はそ の邪魔になるため壊されてしまいました。一戸町に一里塚が多く残っているのは、奥州街道とは別なところに国道4号線が造られたためです。

平成12年3月25日
一戸町教育委員会
国指定史跡 浪打峠一里塚 指定年月日 平成22年2月22日 所在地 一戸町一戸 字大越田(西塚) 字大道沢(東塚) 所有者 (西塚) 塩谷康文 (東塚) 越水幸尚  江戸時代初期、参勤交代のため大名行列が行われるようになり、交通施設の整備は急速に進みました。  幹線道路として、江戸の日本橋を起点とする東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道の、いわゆる五街道はよく知られています。宿場が発達し、街道の両側には約4キロメートルごとに一里塚が造られ、旅はたいへんしやすくなってゆきました。  幕府の道中奉行が管轄する奥州街道は江戸から白河(福島県)まででし たか、道は仙台・盛岡を経て津軽半島の三厩まで続き、これも奥州街道といわれました。  浪打峠一里塚は、その奥州街道に造られたもので、盛岡から北に15番目の一里塚です。塚は2つとも残っていて、西塚は直径が13メート ル、高さは2メートル、東塚は直径が12メートル、高さは2.8メートルあります。  明治時代になって、近代的な、幅の広い道路を造るとき、一里塚はそ の邪魔になるため壊されてしまいました。一戸町に一里塚が多く残っているのは、奥州街道とは別なところに国道4号線が造られたためです。 平成12年3月25日 一戸町教育委員会
鳥越山 こちらが西塚。直径13メート ル、高さ2メートル。
こちらが西塚。直径13メート ル、高さ2メートル。
鳥越山 こちらが東塚。直径12メートル、高さ2.8メートル。
こちらが東塚。直径12メートル、高さ2.8メートル。
鳥越山 道路の両側に塚が設けられています。
道路の両側に塚が設けられています。
鳥越山 安心の誘導柱。
安心の誘導柱。
鳥越山 高速道路の上を越えます。気持ちのいい青空。
高速道路の上を越えます。気持ちのいい青空。
鳥越山 安心の誘導柱。
安心の誘導柱。
鳥越山 奥州街道 浪打峠

所在地
一戸町一戸字大田、大通尺

 「浪打峠」は、一戸宿と福岡宿を結ぶ中間に位置しています。急な坂を曲がりくねって進む道は羊の腸にも例えられ、難所として知られ ていましたが、他に適当な迂回路もないため明治になって現在の国道の原型が造られるまで、この時は主要道として利用されていました。

 「浪打峠」は、別名「末の松山」とも呼ばれ、 宮城県多賀城市にある同名の地と並んで、清原元輔の和歌にも詠まれた景勝地の候補とされています。以前はここにしか見られない「三葉の松」が自生していましたが、台風によって倒されてしまい、現在その姿を見ることは出来ません。

 峠の頂部は切り通し状になっており、貝化石を含む地層(国指定天然記念物「浪打峠の交叉層」)が道の両側に露出しています。この地層が浪の打ち寄せる様子に見えることから「浪打時」と呼ばれるようになったと言われています。

 文政4年(1821)にまとめられた盛岡藩「御領分産物書上帳」 の福岡通の項目に「三ッ葉の松」「貝石」があげられており、広い領内でも珍しいものとして知られていたようです。

平成20年3月25日
一戸町教育委員会

・・・・・・
宮城県多賀城市にある「末の松山」は、みちのく潮風トレイルのルート上にあります。次の活動日記の108枚目の写真の場所です。

[2024.3.2 みちのく潮風トレイル#28 美田園駅からマリンゲート塩釜まで]
https://yamap.com/activities/30133240
奥州街道 浪打峠 所在地 一戸町一戸字大田、大通尺  「浪打峠」は、一戸宿と福岡宿を結ぶ中間に位置しています。急な坂を曲がりくねって進む道は羊の腸にも例えられ、難所として知られ ていましたが、他に適当な迂回路もないため明治になって現在の国道の原型が造られるまで、この時は主要道として利用されていました。  「浪打峠」は、別名「末の松山」とも呼ばれ、 宮城県多賀城市にある同名の地と並んで、清原元輔の和歌にも詠まれた景勝地の候補とされています。以前はここにしか見られない「三葉の松」が自生していましたが、台風によって倒されてしまい、現在その姿を見ることは出来ません。  峠の頂部は切り通し状になっており、貝化石を含む地層(国指定天然記念物「浪打峠の交叉層」)が道の両側に露出しています。この地層が浪の打ち寄せる様子に見えることから「浪打時」と呼ばれるようになったと言われています。  文政4年(1821)にまとめられた盛岡藩「御領分産物書上帳」 の福岡通の項目に「三ッ葉の松」「貝石」があげられており、広い領内でも珍しいものとして知られていたようです。 平成20年3月25日 一戸町教育委員会 ・・・・・・ 宮城県多賀城市にある「末の松山」は、みちのく潮風トレイルのルート上にあります。次の活動日記の108枚目の写真の場所です。 [2024.3.2 みちのく潮風トレイル#28 美田園駅からマリンゲート塩釜まで] https://yamap.com/activities/30133240
鳥越山 「←奥州街道 末の松山の道」の案内板の下に「熊出没注意」
「←奥州街道 末の松山の道」の案内板の下に「熊出没注意」
鳥越山 こちらは小井田千本桂。

[人里の巨木たち]
http://hitozato-kyoboku.com/koida-katsura.html
こちらは小井田千本桂。 [人里の巨木たち] http://hitozato-kyoboku.com/koida-katsura.html
鳥越山 根本には安心の誘導柱。
根本には安心の誘導柱。
鳥越山 ここが街道だったと思わせる石碑。
ここが街道だったと思わせる石碑。
鳥越山 国指定天然記念物 実相寺のイチョウ

「実相寺のイチョウ」は、樹高約25メートル、イチョウとしてはそれほど大きな木ではありませんが、雄木でありながら小枝の一部に雌花がつき、実を結ぶ珍しいイチョウとして昭和13年に国の天然記念物に指定されています。

[一戸町公式]
https://www.town.ichinohe.iwate.jp/soshikikarasagasu/sekaiisanka/bunkazaikakari/1/01/945.html
国指定天然記念物 実相寺のイチョウ 「実相寺のイチョウ」は、樹高約25メートル、イチョウとしてはそれほど大きな木ではありませんが、雄木でありながら小枝の一部に雌花がつき、実を結ぶ珍しいイチョウとして昭和13年に国の天然記念物に指定されています。 [一戸町公式] https://www.town.ichinohe.iwate.jp/soshikikarasagasu/sekaiisanka/bunkazaikakari/1/01/945.html
鳥越山 正面には標高382mの茂谷。

[YAMAPランドマーク]
https://yamap.com/landmarks/8620
正面には標高382mの茂谷。 [YAMAPランドマーク] https://yamap.com/landmarks/8620
鳥越山 奥州街道をはずれて一戸公園に寄り道していきます。
奥州街道をはずれて一戸公園に寄り道していきます。
鳥越山 気持ちのいい緑。
気持ちのいい緑。
鳥越山 ここが一戸公園。
ここが一戸公園。
鳥越山 石碑群や、
石碑群や、
鳥越山 ベンチが設置されています。
ベンチが設置されています。
鳥越山 目立たない所に、史跡一戸城跡の標柱が立てられています。

[北奥三国物語]
https://www.goemonto.rexw.jp/ichinohe01.html
目立たない所に、史跡一戸城跡の標柱が立てられています。 [北奥三国物語] https://www.goemonto.rexw.jp/ichinohe01.html
鳥越山 この神社は「北館神社」で、城の守り神だったか、あるいは後で建てられるかしたもののようです。

[北奥三国物語]
https://www.goemonto.rexw.jp/ichinohe01.html
この神社は「北館神社」で、城の守り神だったか、あるいは後で建てられるかしたもののようです。 [北奥三国物語] https://www.goemonto.rexw.jp/ichinohe01.html
鳥越山 こちらの未舗装路で戻ります。
こちらの未舗装路で戻ります。
鳥越山 途中に何かの石碑。
途中に何かの石碑。
鳥越山 ここを下りてきました。ここから登った方が近道だったようです。
ここを下りてきました。ここから登った方が近道だったようです。
鳥越山 国登録有形文化財の映画館「萬代舘」

明治42年に創業した100年以上の歴史を持つ映画館で、県内に残る映画最盛期の時代の唯一の現役映画館として、平成28年に国登録有形文化財に登録されています。

[一戸町観光協会]
https://www.ichinohekankou.jp/sightseeing/history/bandaikan-2/
国登録有形文化財の映画館「萬代舘」 明治42年に創業した100年以上の歴史を持つ映画館で、県内に残る映画最盛期の時代の唯一の現役映画館として、平成28年に国登録有形文化財に登録されています。 [一戸町観光協会] https://www.ichinohekankou.jp/sightseeing/history/bandaikan-2/
鳥越山 一階ロビーはこんな感じです。
一階ロビーはこんな感じです。
鳥越山 国登録有形文化財の証。
国登録有形文化財の証。
鳥越山 萬代舘はこんな場所に建っています。
萬代舘はこんな場所に建っています。
鳥越山 ここが街道だったと思わせる石碑。
ここが街道だったと思わせる石碑。
鳥越山 ここにも石碑。
ここにも石碑。
鳥越山 おそらくケヤキ。特に云われは無い模様。
おそらくケヤキ。特に云われは無い模様。
鳥越山 旧奥州街道の案内板。この道で合っているようです。
旧奥州街道の案内板。この道で合っているようです。
鳥越山 八幡神社に寄っていきます。
八幡神社に寄っていきます。
鳥越山 ここのケヤキは一戸町指定の天然記念物とのこと。
ここのケヤキは一戸町指定の天然記念物とのこと。
鳥越山 天然記念物に指定されているのは左奥の一本とのこと。

(以下一戸町HPより)
かつて旧奥州街道を通った旅人は一戸宿で旅の疲れを癒やしていました。八坂神社は街道沿いにあります。旅人が往来した当時、八坂神社のケヤキは既に雄大に枝を広げており、多くの人がこの木を仰ぎ見て緑陰の下でほっと息をついていたことでしょう。

[一戸町(公式)]
https://www.town.ichinohe.iwate.jp/soshikikarasagasu/sekaiisanka/bunkazaikakari/1/04/2909.html#:~:text=%E5%85%AB%E5%9D%82%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%81%AE%E5%A2%83%E5%86%85%E3%81%AE,
天然記念物に指定されているのは左奥の一本とのこと。 (以下一戸町HPより) かつて旧奥州街道を通った旅人は一戸宿で旅の疲れを癒やしていました。八坂神社は街道沿いにあります。旅人が往来した当時、八坂神社のケヤキは既に雄大に枝を広げており、多くの人がこの木を仰ぎ見て緑陰の下でほっと息をついていたことでしょう。 [一戸町(公式)] https://www.town.ichinohe.iwate.jp/soshikikarasagasu/sekaiisanka/bunkazaikakari/1/04/2909.html#:~:text=%E5%85%AB%E5%9D%82%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%81%AE%E5%A2%83%E5%86%85%E3%81%AE,
鳥越山 旧奥州街道案内図がありましたが、ほぼ解読できず。
旧奥州街道案内図がありましたが、ほぼ解読できず。
鳥越山 旧奥州街道の案内板。
旧奥州街道の案内板。
鳥越山 写真右側の店のウインドウで、
写真右側の店のウインドウで、
鳥越山 多くのガンプラが展示されていました。
多くのガンプラが展示されていました。
鳥越山 気になったので中に入ってみました。
気になったので中に入ってみました。
鳥越山 古き良きプラモデル屋さんという感じです。
古き良きプラモデル屋さんという感じです。
鳥越山 電動ラジコン(写真上)もありました。ガンプラ(写真下)も少し。
電動ラジコン(写真上)もありました。ガンプラ(写真下)も少し。
鳥越山 模型のほか、釣り具も売っているようです。
模型のほか、釣り具も売っているようです。
鳥越山 旧奥州街道の案内板のとおり、ここを右(写真の正面方向)へ。
旧奥州街道の案内板のとおり、ここを右(写真の正面方向)へ。
鳥越山 一戸駅前を通過します。
一戸駅前を通過します。
鳥越山 旧奥州街道の案内板はありませんが、こちらの脇道を進みます。
旧奥州街道の案内板はありませんが、こちらの脇道を進みます。
鳥越山 歴史を感じる「バー ロマン」。
歴史を感じる「バー ロマン」。
鳥越山 ここは諏訪野一里塚跡。
ここは諏訪野一里塚跡。
鳥越山 奥州街道 諏訪野一里塚跡

所在地
一戸町西法寺字諏訪野

 一戸町内を南北に縦断する奥州街道は江戸時代初期に幹線道路として整備されました。正式には道中奉行管轄にあった下野白沢(栃木県) から陸奥白河(福島県)までが奥州街道でしたが、一般的には白河以北も奥州街道の延長ととらえられていました。

 街道の両側には約4キロメートルごとに一里塚が築かれました。塚は幕府の命により五間(9メートル) 四方の大きさで造られ、頂部には松または榎(えのき)、杉などが植えられていました。

 「諏訪野一里塚」は盛岡から北に14番目の一里塚です。現在、塚は壊されその形は残っていません。

 諏訪野集落は、享和2年(1802)に書かれた『東案内記」(著者不明)に「家教六軒」と記されていますが、江戸時代末期に書かれた漆戸茂樹著「北奥路程記」には「諏訪野拾弐式軒」と記されており、理由は分かりませんが幕末に下るにしたがって戸数が倍増しています。

 新しい建物は増えましたが、道路の大規模な拡幅が行われなかったため、往時の町並みの雰囲気を今も残しています。

平成20年3月25日
一戸町教育委員会
奥州街道 諏訪野一里塚跡 所在地 一戸町西法寺字諏訪野  一戸町内を南北に縦断する奥州街道は江戸時代初期に幹線道路として整備されました。正式には道中奉行管轄にあった下野白沢(栃木県) から陸奥白河(福島県)までが奥州街道でしたが、一般的には白河以北も奥州街道の延長ととらえられていました。  街道の両側には約4キロメートルごとに一里塚が築かれました。塚は幕府の命により五間(9メートル) 四方の大きさで造られ、頂部には松または榎(えのき)、杉などが植えられていました。  「諏訪野一里塚」は盛岡から北に14番目の一里塚です。現在、塚は壊されその形は残っていません。  諏訪野集落は、享和2年(1802)に書かれた『東案内記」(著者不明)に「家教六軒」と記されていますが、江戸時代末期に書かれた漆戸茂樹著「北奥路程記」には「諏訪野拾弐式軒」と記されており、理由は分かりませんが幕末に下るにしたがって戸数が倍増しています。  新しい建物は増えましたが、道路の大規模な拡幅が行われなかったため、往時の町並みの雰囲気を今も残しています。 平成20年3月25日 一戸町教育委員会
鳥越山 一戸高校の生徒さんが、総合的な探究の時間「地域課題研究」で取り組んだシャッターアート。

[一戸高校note]
https://inh-hs.note.jp/n/nb4aeb94f112c
一戸高校の生徒さんが、総合的な探究の時間「地域課題研究」で取り組んだシャッターアート。 [一戸高校note] https://inh-hs.note.jp/n/nb4aeb94f112c
鳥越山 ここを曲がって御所野遺跡へ。
ここを曲がって御所野遺跡へ。
鳥越山 いい天気なのです。
いい天気なのです。
鳥越山 御所野遺跡に到着しました。

[御所野縄文公園公式]
https://goshono-iseki.com/index.html
御所野遺跡に到着しました。 [御所野縄文公園公式] https://goshono-iseki.com/index.html
鳥越山 きききのつりばしを渡って、
きききのつりばしを渡って、
鳥越山 御所野縄文公園へ。
御所野縄文公園へ。
鳥越山 公園内を一回りしていきます。
公園内を一回りしていきます。
鳥越山 掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)※や、

※掘立柱建物・・・地面に穴を掘って柱を立て、屋根を支えている建物
掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)※や、 ※掘立柱建物・・・地面に穴を掘って柱を立て、屋根を支えている建物
鳥越山 竪穴式住居が再現されています。
竪穴式住居が再現されています。
鳥越山 竪穴式住居の中は想像以上の涼しさです。
竪穴式住居の中は想像以上の涼しさです。
鳥越山 この辺りには竪穴式住居と掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)。
この辺りには竪穴式住居と掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)。
鳥越山 手前の看板によると「ぼくは犬のジョンです うるさくてごめんね」とのこと。
手前の看板によると「ぼくは犬のジョンです うるさくてごめんね」とのこと。
鳥越山 関屋大日堂に寄っていきます。
関屋大日堂に寄っていきます。
鳥越山 奥州街道 関屋大日堂の板碑

所在地
一戸町西法寺宇間屋 

 「関屋大日堂」はその名のとおり大日如来を本尊とし、仏教の開祖釈迦の誕生した旧暦4月8日を祭日としています。現在のお堂は昭和14年に再建されたものですが、いつごろ創建されたかは伝わっていません。

 大日堂の内には2つの板碑が安置されています。正面にはそれぞれ梵字(※)で「アーンク」、「ア」と刻まれています。どちらも密教の根元仏である大日如来を表しています。

 「アーンク」碑には梵字の下に「一百箇日」 と刻まれ、亡くなった人の百ヶ日供養のため大日如来を本尊として造立されたことがわかります。現行の百ヶ日 供養の本尊は観音薩で、15世紀中頃に成立したとみられていることから、この碑はそれ以前のものと考えられます。

 「ア」碑はいつ造立されたか不明ですが、岩手県北部、青森県東部、 秋田県鹿角地方に所在する板碑が鎌倉後期から南北朝時代にかけての造立であり、同じ時期のものと考えられます。

平成20年3月25日
一戸町教育委員会

※梵字(ぼんじ)・・・古代インドで誕生したサンスクリット語(梵語)を表記するための文字と、その派生形の総称
奥州街道 関屋大日堂の板碑 所在地 一戸町西法寺宇間屋  「関屋大日堂」はその名のとおり大日如来を本尊とし、仏教の開祖釈迦の誕生した旧暦4月8日を祭日としています。現在のお堂は昭和14年に再建されたものですが、いつごろ創建されたかは伝わっていません。  大日堂の内には2つの板碑が安置されています。正面にはそれぞれ梵字(※)で「アーンク」、「ア」と刻まれています。どちらも密教の根元仏である大日如来を表しています。  「アーンク」碑には梵字の下に「一百箇日」 と刻まれ、亡くなった人の百ヶ日供養のため大日如来を本尊として造立されたことがわかります。現行の百ヶ日 供養の本尊は観音薩で、15世紀中頃に成立したとみられていることから、この碑はそれ以前のものと考えられます。  「ア」碑はいつ造立されたか不明ですが、岩手県北部、青森県東部、 秋田県鹿角地方に所在する板碑が鎌倉後期から南北朝時代にかけての造立であり、同じ時期のものと考えられます。 平成20年3月25日 一戸町教育委員会 ※梵字(ぼんじ)・・・古代インドで誕生したサンスクリット語(梵語)を表記するための文字と、その派生形の総称
鳥越山 こちらが本殿。
こちらが本殿。
鳥越山 本堂脇の曲がり松。なぜここまで曲がったか理由は分からず。
本堂脇の曲がり松。なぜここまで曲がったか理由は分からず。
鳥越山 この奥州街道の案内板の場所を曲がるのですが、文字がかすれているほか、案内板自体あまり目立たないので、気づかずに直進してしまわないよう注意が必要です。
この奥州街道の案内板の場所を曲がるのですが、文字がかすれているほか、案内板自体あまり目立たないので、気づかずに直進してしまわないよう注意が必要です。
鳥越山 ここを抜けていきます。
ここを抜けていきます。
鳥越山 白子坂の解説板と奥州街道の案内板。
白子坂の解説板と奥州街道の案内板。
鳥越山 奥州街道 白子坂

所在地
一戸町西法寺字标越

 馬淵川と女鹿川の合流点の北側で奥州街道は川沿いから離れ、山あいを通る坂道へと変わります。約50メートルの高低差を進むこの道の南側の登り口は「荷坂」、北側は「白子坂」と呼ばれています。

 「山土尽く白灰なり」

 寛政11年(1799)、幕府奥詰医師渋江長伯が蝦夷地探索に赴く旅路に記した「東遊奇勝』の中で「白子坂」はこう表されています。

 「白子坂」の名前の由来は定かではありませ んが、道の両側に露出した白土の様子から名付けられたのかもしれません。

 天保7年(1836)、大凶作に苦しむ人びとが一揆を起こした際は、この「白子坂」が集結地になったとされています。対岸を見渡せる高台に集まった人びとは、ここから一戸に向かいました。商家を打ち壊し、駅所を襲いましたが、福岡代官所から駆けつけた同心たちに追い散らされました。「女鹿の佐吉」をはじめとする首謀者3名は捕らえられ、吟味の末、関屋川原で斬首されたと伝えられています。

平成20年3月20日
一戸町教育委員会
奥州街道 白子坂 所在地 一戸町西法寺字标越  馬淵川と女鹿川の合流点の北側で奥州街道は川沿いから離れ、山あいを通る坂道へと変わります。約50メートルの高低差を進むこの道の南側の登り口は「荷坂」、北側は「白子坂」と呼ばれています。  「山土尽く白灰なり」  寛政11年(1799)、幕府奥詰医師渋江長伯が蝦夷地探索に赴く旅路に記した「東遊奇勝』の中で「白子坂」はこう表されています。  「白子坂」の名前の由来は定かではありませ んが、道の両側に露出した白土の様子から名付けられたのかもしれません。  天保7年(1836)、大凶作に苦しむ人びとが一揆を起こした際は、この「白子坂」が集結地になったとされています。対岸を見渡せる高台に集まった人びとは、ここから一戸に向かいました。商家を打ち壊し、駅所を襲いましたが、福岡代官所から駆けつけた同心たちに追い散らされました。「女鹿の佐吉」をはじめとする首謀者3名は捕らえられ、吟味の末、関屋川原で斬首されたと伝えられています。 平成20年3月20日 一戸町教育委員会
鳥越山 百姓一揆結集の地の石碑。
百姓一揆結集の地の石碑。
鳥越山 百姓一揆

 天保7年(1836年)、連年の凶作と、重税、高利貸しの悪徳商法などにより、農民の生活は困窮を極めていた。

 この窮状を打開しようと女鹿の大工、佐吉という人が近郷の同志と相談し、福岡の代官が一戸に来たとき「税の軽減と高利貸しの排除」について訴えることにした。

 同年12月10日、未明から数十人の農民がこの地に結集し、貝を吹き、雄叫びを上げ、士気を鼓舞していた。

 しかし、血気にはやった農民は、時を待ち切れず、町内になだれ込み、商人に乱暴した り、商店を壊したり、果ては御番所に乱入し て狼藉を働くなど暴徒化してしまった。その結果、農民の多くは役人に取り押さえられ、 訴えは失敗に終った。

 1年後、佐吉は首謀者として関屋川原で打ち首となり、他の主だった人たちは遠隔地に 追放された。
百姓一揆  天保7年(1836年)、連年の凶作と、重税、高利貸しの悪徳商法などにより、農民の生活は困窮を極めていた。  この窮状を打開しようと女鹿の大工、佐吉という人が近郷の同志と相談し、福岡の代官が一戸に来たとき「税の軽減と高利貸しの排除」について訴えることにした。  同年12月10日、未明から数十人の農民がこの地に結集し、貝を吹き、雄叫びを上げ、士気を鼓舞していた。  しかし、血気にはやった農民は、時を待ち切れず、町内になだれ込み、商人に乱暴した り、商店を壊したり、果ては御番所に乱入し て狼藉を働くなど暴徒化してしまった。その結果、農民の多くは役人に取り押さえられ、 訴えは失敗に終った。  1年後、佐吉は首謀者として関屋川原で打ち首となり、他の主だった人たちは遠隔地に 追放された。
鳥越山 石碑と解説板。
石碑と解説板。
鳥越山 安心の誘導柱。
安心の誘導柱。
鳥越山 気持ちのいいトレイルを進みます。
気持ちのいいトレイルを進みます。
鳥越山 おそらく奥州街道の標柱と思われる柱。
おそらく奥州街道の標柱と思われる柱。
鳥越山 文字は擦れてますが、「国指定史跡 奥州街道」的なことが書かれているのだと思います。
文字は擦れてますが、「国指定史跡 奥州街道」的なことが書かれているのだと思います。
鳥越山 安心の誘導柱。
安心の誘導柱。
鳥越山 ここから先は緩傾斜の下り坂。気持ちのいいトレイルを進みます。
ここから先は緩傾斜の下り坂。気持ちのいいトレイルを進みます。
鳥越山 こちら側には「荷坂」の標柱。ここを下ってきました。
こちら側には「荷坂」の標柱。ここを下ってきました。
鳥越山 安心の誘導柱。
安心の誘導柱。
鳥越山 沿道の神社に寄っていきます。
沿道の神社に寄っていきます。
鳥越山 ここは雷電神社。奥州街道的には特に云われは無い模様。
ここは雷電神社。奥州街道的には特に云われは無い模様。
鳥越山 安心の誘導柱。
安心の誘導柱。
鳥越山 明治天皇御野立所之碑。ここにも浪打峠と同じような碑文の石碑がありました。
明治天皇御野立所之碑。ここにも浪打峠と同じような碑文の石碑がありました。
鳥越山 駕籠立場所の石碑。
駕籠立場所の石碑。
鳥越山 一戸町内の奥州街道の地図が描かれた石碑。
一戸町内の奥州街道の地図が描かれた石碑。
鳥越山 地図面の裏側の解説文。

明治天皇の東北御巡幸

明治天皇は、明治維新の諸改革による新政の事蹟(※)と全国各地の情勢や民情を視察し、将来の施政に役立てたいとのお考えから全国御巡幸を御計画になられた。東北地方には、明治9年と明治14年の2回御巡幸になられた。特に一戸町は2度にわたって御巡幸の経路となり、行在所(宿泊所)や御小休所御野立所(休憩所)等が設けられ御巡幸に役立てられた。表面の略図はそれらを記したものである。
(一戸町誌より抜粋)

 土川 三郎
 小野寺明彦

・・・・・・
※事蹟・・・物事や事件が行なわれたことが分かるあと。事実の痕跡。
地図面の裏側の解説文。 明治天皇の東北御巡幸 明治天皇は、明治維新の諸改革による新政の事蹟(※)と全国各地の情勢や民情を視察し、将来の施政に役立てたいとのお考えから全国御巡幸を御計画になられた。東北地方には、明治9年と明治14年の2回御巡幸になられた。特に一戸町は2度にわたって御巡幸の経路となり、行在所(宿泊所)や御小休所御野立所(休憩所)等が設けられ御巡幸に役立てられた。表面の略図はそれらを記したものである。 (一戸町誌より抜粋)  土川 三郎  小野寺明彦 ・・・・・・ ※事蹟・・・物事や事件が行なわれたことが分かるあと。事実の痕跡。
鳥越山 安心の誘導柱。
安心の誘導柱。
鳥越山 なかなかのジブリ感です。
なかなかのジブリ感です。
鳥越山 南側の未舗装路の入口付近には「女鹿口へ至る→」の標柱。
南側の未舗装路の入口付近には「女鹿口へ至る→」の標柱。
鳥越山 安心の誘導柱。
安心の誘導柱。
鳥越山 ここで舗装路を外れてトレイルへ。
ここで舗装路を外れてトレイルへ。
鳥越山 ここは御小性(こしょうどう)神社。
ここは御小性(こしょうどう)神社。
鳥越山 解説板によれば、 地元には「都から追われた小姓が旅の疲れと 病気のため息を引き取ったので、その亡骸を弔ってお堂を建て、そこを小性堂と呼んでまつった」という伝説が残されているとのこと。
解説板によれば、 地元には「都から追われた小姓が旅の疲れと 病気のため息を引き取ったので、その亡骸を弔ってお堂を建て、そこを小性堂と呼んでまつった」という伝説が残されているとのこと。
鳥越山 奥州街道 御小性神社

所在地
一戸町小鳥字小性堂

 平地に長く伸びる小鳥谷の町並みの北側、尻引坂を登った馬淵川を見下ろす高台に「御小性神社」は位置しています。

 大巻秀詮著「邦内郷村志」には「小性堂ニ間四方 従往古不伝為何神乎 里人伝云古社也」とあって「何の神様をまつっているかわからないが古い神社である」と記されています。 

 現在でも由来は明らかではありませんが、 地元には「都から追われた小姓が旅の疲れと 病気のため息を引き取ったので、その亡骸を弔ってお堂を建て、そこを小性堂と呼んでまつった」という伝説が残されています。

  一方で、漆戸茂樹著「北奥路程記」には「胡四王なるべし」と記述されており、胡四王神社から呼び名が転じて御小性神社になった可能性もあります。

 現在の社殿は三間(5.4メートル) ×二間半(4.5メートル) の大きさで、毎月7日と旧暦1月15日を祭日に、病気平癒に霊験あらたかな神様として参詣されています。

平成20年3月25日
一戸町教育委員会
奥州街道 御小性神社 所在地 一戸町小鳥字小性堂  平地に長く伸びる小鳥谷の町並みの北側、尻引坂を登った馬淵川を見下ろす高台に「御小性神社」は位置しています。  大巻秀詮著「邦内郷村志」には「小性堂ニ間四方 従往古不伝為何神乎 里人伝云古社也」とあって「何の神様をまつっているかわからないが古い神社である」と記されています。  現在でも由来は明らかではありませんが、 地元には「都から追われた小姓が旅の疲れと 病気のため息を引き取ったので、その亡骸を弔ってお堂を建て、そこを小性堂と呼んでまつった」という伝説が残されています。   一方で、漆戸茂樹著「北奥路程記」には「胡四王なるべし」と記述されており、胡四王神社から呼び名が転じて御小性神社になった可能性もあります。  現在の社殿は三間(5.4メートル) ×二間半(4.5メートル) の大きさで、毎月7日と旧暦1月15日を祭日に、病気平癒に霊験あらたかな神様として参詣されています。 平成20年3月25日 一戸町教育委員会
鳥越山 神社の南の未舗装路を進んだものの、道が途切れていました。
よく見ると踏み跡があったので、ここを進んで向こう側の砂利道に向かいます。
砂利道に登る手前に幅50cm程の側溝があるので通過に注意です。
神社の南の未舗装路を進んだものの、道が途切れていました。 よく見ると踏み跡があったので、ここを進んで向こう側の砂利道に向かいます。 砂利道に登る手前に幅50cm程の側溝があるので通過に注意です。
鳥越山 砂利道を進みます。
砂利道を進みます。
鳥越山 沿道の神社に寄ってみましたが、ここは奥州街道的には特に云われはない模様。
沿道の神社に寄ってみましたが、ここは奥州街道的には特に云われはない模様。
鳥越山 この小道でショートカットします。
この小道でショートカットします。
鳥越山 ここからしばらく直進です。
ここからしばらく直進です。
鳥越山 ここは野中一里塚跡。塚のあったとされる場所には馬頭観世音の石碑が建てられています。
ここは野中一里塚跡。塚のあったとされる場所には馬頭観世音の石碑が建てられています。
鳥越山 奥州街道 野中一里塚跡

所在地
一戸町小鳥谷字野中

 一戸町内を南北に縦断する奥州街道は江戸時代初期に幹線道路とし て整備されました。正式には道中奉行の管轄の下野白沢(栃木県)か ら陸奥白河(福島県)までが奥州街道でしたが、一般的には白河以北も奥州街道の延長ととらえられていました。

 街道の両側には約4キロメートルごとに一里塚が築かれました。塚は幕府の命により五間(9メートル) 四方の大きさで造られ、頂部には松または榎(えのき)、杉などが植えられていました。 

 「野中一里塚」は盛岡から北に13番目の一里塚です。道路を拡幅したときに塚は壊され現在はその姿を見ることはできませんが、江戸時代末期に書かれた漆戸茂樹著『北奥路程記」には、野中一里塚の北側に、穴久保へ向かう道と姉帯へ向かう道が描かれており、この辺りが交通の要所だったことをうかがわせます。

 塚のあったとされる場所には現在、馬頭観世音の石碑が建てられています。

平成20年3月25日
一戸町教育委員会
奥州街道 野中一里塚跡 所在地 一戸町小鳥谷字野中  一戸町内を南北に縦断する奥州街道は江戸時代初期に幹線道路とし て整備されました。正式には道中奉行の管轄の下野白沢(栃木県)か ら陸奥白河(福島県)までが奥州街道でしたが、一般的には白河以北も奥州街道の延長ととらえられていました。  街道の両側には約4キロメートルごとに一里塚が築かれました。塚は幕府の命により五間(9メートル) 四方の大きさで造られ、頂部には松または榎(えのき)、杉などが植えられていました。  「野中一里塚」は盛岡から北に13番目の一里塚です。道路を拡幅したときに塚は壊され現在はその姿を見ることはできませんが、江戸時代末期に書かれた漆戸茂樹著『北奥路程記」には、野中一里塚の北側に、穴久保へ向かう道と姉帯へ向かう道が描かれており、この辺りが交通の要所だったことをうかがわせます。  塚のあったとされる場所には現在、馬頭観世音の石碑が建てられています。 平成20年3月25日 一戸町教育委員会
鳥越山 沿道には廃屋。
沿道には廃屋。
鳥越山 激しめの廃屋も。
激しめの廃屋も。
鳥越山 藤島の藤に寄っていきます。
藤島の藤に寄っていきます。
鳥越山 こちらは観音堂。紅葉の時期を思わせるいい雰囲気です。
こちらは観音堂。紅葉の時期を思わせるいい雰囲気です。
鳥越山 こちらは一戸町指定天然記念物 観音堂の藤。
こちらは一戸町指定天然記念物 観音堂の藤。
鳥越山 一戸町指定天然記念物 観音堂の藤

指定年月日
平成4年3月25日

所在地
一戸町小島谷宇仁昌寺

所有者
一戸町

  国指定天然記念物「雄島の藤」の種子から発芽・成育した藤と考えられ、里にある藤としては珍しい大木になっています。 

 種類はノダフジで、山野に自生するつる性の落葉樹で、右巻きです。

 葉は奇数の羽状複葉で、小葉は11から19枚あり、先はややとがりうすい草質となっています。5月から6月にかけて紫色のちょう形花をつけます。

 計測値は南側の株が高さ約18m、目通り幹周囲約90cm、根元周囲1~1.2m、枝張り東西約15m、南北約10m、樹齢約100~150年と考えられます。北側の株は、高さ約13m、目通り幹周囲約70cm、根元周囲0.8~0.9m、枝張り東西約15m、南北約15m、樹齢約100年と考えられています。

平成5年1月30日
一戸町教育委員会

平成4年度快適環境施設整備事業補助事事業 岩手県
一戸町指定天然記念物 観音堂の藤 指定年月日 平成4年3月25日 所在地 一戸町小島谷宇仁昌寺 所有者 一戸町   国指定天然記念物「雄島の藤」の種子から発芽・成育した藤と考えられ、里にある藤としては珍しい大木になっています。  種類はノダフジで、山野に自生するつる性の落葉樹で、右巻きです。  葉は奇数の羽状複葉で、小葉は11から19枚あり、先はややとがりうすい草質となっています。5月から6月にかけて紫色のちょう形花をつけます。  計測値は南側の株が高さ約18m、目通り幹周囲約90cm、根元周囲1~1.2m、枝張り東西約15m、南北約10m、樹齢約100~150年と考えられます。北側の株は、高さ約13m、目通り幹周囲約70cm、根元周囲0.8~0.9m、枝張り東西約15m、南北約15m、樹齢約100年と考えられています。 平成5年1月30日 一戸町教育委員会 平成4年度快適環境施設整備事業補助事事業 岩手県
鳥越山 こちらが国指定天然記念物 藤島のフジ。
こちらが国指定天然記念物 藤島のフジ。
鳥越山 国指定天然記念物 藤島のフジ

指定年月日
昭和13年12月14日

所在地
一戸町小鳥谷字仁昌寺

所有者
一戸町

 このフジは、別名ノダフジとも呼ばれ、春から初夏にかけて紫色の花をつけます。もともとこのフジはすぐ隣のカツラの樹にまつわりついていましたが、その重みでカツラの枝が折れてしまったので、今は鉄骨のやぐらと支柱によって支えています。

 樹齢は数100年、高さは20メートルもあり、日本一大きいフ ジとして知られています。天然記念物に指定された昭和13年には根回りが3.3メートルありましたが、その後、老木のため今のような状態になっています。

 この地は、古くから仁昌寺の境内に相当し、天正19年 (1591)九戸城主九戸政実がおこした闘いの際には、豊臣秀吉軍の蒲生氏郷が姉帯城攻略のため陣を張った場所だとも伝えられています。当時、フジのあるところは周囲三方に堀が巡り、 あたかも島のように見えたことから藤島の名がおこったようです。

 今は、この堀もなくなっていますが、フジの根元近くに弁天を祀る祠があって周辺の人達の信仰の場となっています。

平成13年3月20日
一戸町教育委員会
国指定天然記念物 藤島のフジ 指定年月日 昭和13年12月14日 所在地 一戸町小鳥谷字仁昌寺 所有者 一戸町  このフジは、別名ノダフジとも呼ばれ、春から初夏にかけて紫色の花をつけます。もともとこのフジはすぐ隣のカツラの樹にまつわりついていましたが、その重みでカツラの枝が折れてしまったので、今は鉄骨のやぐらと支柱によって支えています。  樹齢は数100年、高さは20メートルもあり、日本一大きいフ ジとして知られています。天然記念物に指定された昭和13年には根回りが3.3メートルありましたが、その後、老木のため今のような状態になっています。  この地は、古くから仁昌寺の境内に相当し、天正19年 (1591)九戸城主九戸政実がおこした闘いの際には、豊臣秀吉軍の蒲生氏郷が姉帯城攻略のため陣を張った場所だとも伝えられています。当時、フジのあるところは周囲三方に堀が巡り、 あたかも島のように見えたことから藤島の名がおこったようです。  今は、この堀もなくなっていますが、フジの根元近くに弁天を祀る祠があって周辺の人達の信仰の場となっています。 平成13年3月20日 一戸町教育委員会
鳥越山 解説板の解説のとおり、フジの根元近くに祠がありました。
解説板の解説のとおり、フジの根元近くに祠がありました。
鳥越山 気になる鳥居があったので立ち寄ってみました。
気になる鳥居があったので立ち寄ってみました。
鳥越山 奥州街道に関係する云われは無いようです。
奥州街道に関係する云われは無いようです。
鳥越山 激しめの廃屋。
激しめの廃屋。
鳥越山 その向かいには立派な建物。
その向かいには立派な建物。
鳥越山 ここは明治天皇御小休所跡のようです。
ここは明治天皇御小休所跡のようです。
鳥越山 そう思ってみると雰囲気があります。
そう思ってみると雰囲気があります。
鳥越山 階段を登ってこの先にある神社に向かいます。
階段を登ってこの先にある神社に向かいます。
鳥越山 ここは八幡神社。
ここは八幡神社。
鳥越山 奥州街道に関係する云われは無いようです。
奥州街道に関係する云われは無いようです。
鳥越山 安心の誘導柱。
安心の誘導柱。
鳥越山 安心の誘導柱。
安心の誘導柱。
鳥越山 右ハ山道
左ハもり岡
右ハ山道 左ハもり岡
鳥越山 奥州街道 五月館の追分石

所在地
一戸町小鳥谷字若子內

 追分石は、街道を歩く人たちの目印となるよう造られた当時の道路標識にあたるもので、多くは道の分岐点に設置されています。

 文久元年(1861)の記銘がある「五月館の追分石」は、南北に伸びる奥州街道と南西の尾根へと向かう道の分岐点に設置されています。この付近の奥州街道は、明治天皇の東北巡幸の際に幅二間(3.6メートル)に拡幅する工事が行われたと記録されていますので、それまでは幅二間に満たない道が続いていたと考えられます。

 「五月館の追分石」の正面には「右ハ山道 左ハもり岡」と刻まれてい ます。北方から盛岡方面へ向かう旅人が奥州街道と山道を間違えないように建てられたと考えられ、当時の様子を示す貴重な資料となっています。

 街道を挟んだ向かい側には、文化7年(1810) 銘の庚申塔があります。自然石を利用したもので、正面上部に「日」「月」を配し、中央に 「庚中」、その両側に造立年を刻んでいます。隣には、庚申塔と同じ年に 同一人物によって建てられた「南無地蔵尊」碑が並んでいます。地蔵尊碑には「為祖先代々菩提」と刻まれていることから、同時に建てられた庚申塔にも先祖供養の意味合いが込められているものと考えられます。

平成20年3月25日
一戸町教育委員会

・・・・・・
庚申塔と「南無地蔵尊」碑は見つけられず。
奥州街道 五月館の追分石 所在地 一戸町小鳥谷字若子內  追分石は、街道を歩く人たちの目印となるよう造られた当時の道路標識にあたるもので、多くは道の分岐点に設置されています。  文久元年(1861)の記銘がある「五月館の追分石」は、南北に伸びる奥州街道と南西の尾根へと向かう道の分岐点に設置されています。この付近の奥州街道は、明治天皇の東北巡幸の際に幅二間(3.6メートル)に拡幅する工事が行われたと記録されていますので、それまでは幅二間に満たない道が続いていたと考えられます。  「五月館の追分石」の正面には「右ハ山道 左ハもり岡」と刻まれてい ます。北方から盛岡方面へ向かう旅人が奥州街道と山道を間違えないように建てられたと考えられ、当時の様子を示す貴重な資料となっています。  街道を挟んだ向かい側には、文化7年(1810) 銘の庚申塔があります。自然石を利用したもので、正面上部に「日」「月」を配し、中央に 「庚中」、その両側に造立年を刻んでいます。隣には、庚申塔と同じ年に 同一人物によって建てられた「南無地蔵尊」碑が並んでいます。地蔵尊碑には「為祖先代々菩提」と刻まれていることから、同時に建てられた庚申塔にも先祖供養の意味合いが込められているものと考えられます。 平成20年3月25日 一戸町教育委員会 ・・・・・・ 庚申塔と「南無地蔵尊」碑は見つけられず。
鳥越山 安心の誘導柱。
安心の誘導柱。
鳥越山 気持ちのいい青空。
気持ちのいい青空。
鳥越山 安心の誘導柱。
安心の誘導柱。
鳥越山 小さな祠が見えたので寄ってみました。
小さな祠が見えたので寄ってみました。
鳥越山 こちらは「むらの氏神様 岩瀧大明神」とのこと。
こちらは「むらの氏神様 岩瀧大明神」とのこと。
鳥越山 むらの氏神さま 岩識大明神社

所在地
古屋敷79

所有者(別当) 
高嶋謙次郎

祭りの日
旧3月3日

由来
昭和47年に現在の社殿建立
昭和50年駒石奉納
神社の後方の澤の岩には「馬の蹄の痕」があり、「義経の馬の蹄痕」と伝わっている。
むらの氏神さま 岩識大明神社 所在地 古屋敷79 所有者(別当) 高嶋謙次郎 祭りの日 旧3月3日 由来 昭和47年に現在の社殿建立 昭和50年駒石奉納 神社の後方の澤の岩には「馬の蹄の痕」があり、「義経の馬の蹄痕」と伝わっている。
鳥越山 こちらは下の井戸。
こちらは下の井戸。
鳥越山 下の井戸

所有者
高見忠心

由来・内容
 集落の北に位置し、往時は15戸もの利用がありました。現在も両隣の2戸がポンプにより飲み水等に利用しております。井戸の背後には大きな桂の大木が 残っております。火災の際、水利として利用できるように北側に給水口を取り付けてあります。
(平成19年7月修復)
下の井戸 所有者 高見忠心 由来・内容  集落の北に位置し、往時は15戸もの利用がありました。現在も両隣の2戸がポンプにより飲み水等に利用しております。井戸の背後には大きな桂の大木が 残っております。火災の際、水利として利用できるように北側に給水口を取り付けてあります。 (平成19年7月修復)
鳥越山 安心の誘導柱。
安心の誘導柱。
鳥越山 高屋敷の解説板と、その後ろに中井戸。
高屋敷の解説板と、その後ろに中井戸。
鳥越山 奥州街道 高屋敷

所在地
一戸町小鳥谷字高屋敷

 「高屋敷」は北に流れる平糠川を見下ろす高台にある集落です。奥州街道沿いに位置し、馬を利用した運搬の中継施設である馬継所が置かれていました。

 集落の中央から山手に登る道を行くと、「笹目子・上女鹿沢一里塚」、「穴久保・下女鹿沢一 里塚」を結ぶ尾根沿いの道に出、さらに御山(天台寺)へ向かう通称「巡見道」へ繋がります。

  「高屋」の馬離所は記録によると、ほとんどが現八幡平市の中佐井との馬継ぎであり(「一戸町誌」)、奥州街道だけではなく巡見道においても交通の要所であったと考えられます。

 漆戸茂樹著「北奥路程記」には「此村梨を産す」と記述され、以前は梨の産地であったようです。現在、梨の木は残っていませんが、集 落南の入り口を流れる沢が「山梨沢」と呼ばれるのは、その名残をとどめているからなのでしょう。

 平成18年からは、地域の方々の手により街道沿いの井戸が復元されるなど景観づくりの活動が行われています。

平成20年3月25日
一戸町教育委員会
奥州街道 高屋敷 所在地 一戸町小鳥谷字高屋敷  「高屋敷」は北に流れる平糠川を見下ろす高台にある集落です。奥州街道沿いに位置し、馬を利用した運搬の中継施設である馬継所が置かれていました。  集落の中央から山手に登る道を行くと、「笹目子・上女鹿沢一里塚」、「穴久保・下女鹿沢一 里塚」を結ぶ尾根沿いの道に出、さらに御山(天台寺)へ向かう通称「巡見道」へ繋がります。   「高屋」の馬離所は記録によると、ほとんどが現八幡平市の中佐井との馬継ぎであり(「一戸町誌」)、奥州街道だけではなく巡見道においても交通の要所であったと考えられます。  漆戸茂樹著「北奥路程記」には「此村梨を産す」と記述され、以前は梨の産地であったようです。現在、梨の木は残っていませんが、集 落南の入り口を流れる沢が「山梨沢」と呼ばれるのは、その名残をとどめているからなのでしょう。  平成18年からは、地域の方々の手により街道沿いの井戸が復元されるなど景観づくりの活動が行われています。 平成20年3月25日 一戸町教育委員会
鳥越山 こちらが中井戸。
こちらが中井戸。
鳥越山 中井戸

所有者
高屋敷サツ子

由来・内容
 高屋敷集落のほぼ中央に位置し、中井戸と呼ばれています。掘り抜き井戸で、地下5mにある水脈から湧き出る地下水を蓄え、つるべ(車井戸)により汲み上げる井戸です。消防ポンプによる揚水時間が30分を要し、万一の際の準防水利として使用できるよう北側に給水口を取り付けてあます。

 古い建物の写真はありませんが平成に入り建物のが朽ち落ちてしまい危険なことから所有者が井の機能を廃止するところを村人の力を借り木材の切り出し、 皮むき、組み立てまでボランティアで行い修復しました。
(平成18年9月修復)
中井戸 所有者 高屋敷サツ子 由来・内容  高屋敷集落のほぼ中央に位置し、中井戸と呼ばれています。掘り抜き井戸で、地下5mにある水脈から湧き出る地下水を蓄え、つるべ(車井戸)により汲み上げる井戸です。消防ポンプによる揚水時間が30分を要し、万一の際の準防水利として使用できるよう北側に給水口を取り付けてあます。  古い建物の写真はありませんが平成に入り建物のが朽ち落ちてしまい危険なことから所有者が井の機能を廃止するところを村人の力を借り木材の切り出し、 皮むき、組み立てまでボランティアで行い修復しました。 (平成18年9月修復)
鳥越山 こちらは上の井戸。
こちらは上の井戸。
鳥越山 上の井戸

由来・内容
 集落の南側に位置し、深さは浅いものの当時は、大切な井戸でした。浅いため釣る瓶(つるべ)に代わり柄の長い柄杓(ひしゃく)で直に汲み揚げます。井戸の傍らに同じ所有者の「駒形神社」が祀られております。
(平成19年8月修復)
上の井戸 由来・内容  集落の南側に位置し、深さは浅いものの当時は、大切な井戸でした。浅いため釣る瓶(つるべ)に代わり柄の長い柄杓(ひしゃく)で直に汲み揚げます。井戸の傍らに同じ所有者の「駒形神社」が祀られております。 (平成19年8月修復)
鳥越山 こちらが駒形神社。
こちらが駒形神社。
鳥越山 むらの氏神さま 駒形神社

所在地
高屋敷24

所有者(別当) 
澤下邦男

祭りの日
正月16日 旧3月3日

由来
先祖に馬喰(家畜商)を行う者があり、馬を商いとした事から駒形神社を建立した。
むらの氏神さま 駒形神社 所在地 高屋敷24 所有者(別当) 澤下邦男 祭りの日 正月16日 旧3月3日 由来 先祖に馬喰(家畜商)を行う者があり、馬を商いとした事から駒形神社を建立した。
鳥越山 駒形神社は少しヤブヤブなところに建立されています。右奥には上の井戸。
駒形神社は少しヤブヤブなところに建立されています。右奥には上の井戸。
鳥越山 ここからトレイルへ。解説板と誘導柱が目印です。
ここからトレイルへ。解説板と誘導柱が目印です。
鳥越山 奥州街道 川底の道

所在地
一戸町小鳥谷字高屋飯

 奥州街道中もっとも険しい道であったと伝えられているのが、笹目子と高屋敷を結ぶ川底の道でした。街道は小繋川を見下ろす左岸にあり、急峻な斜面に沿って進む上り下りの厳しい難所となっています。

 明治9年(1876)、明治天皇が東北を巡幸した時の記録によると、「高間館坂」、「赤羽根坂」、「舅転の険」と呼ばれる難所が連続するこの区間は、「屈曲登降極まりなく」、「御巡幸中未だかつて見ない険路であった」と記されています。

 残念ながら街道は、明治24年(1891)盛岡—青森間で運行を開始した東北本線の開設工事によって分断され、区間を通して通行することはできなくなってしまいました。

 しかし、現在まで大規模な道路工事が行われなかったため、 今となっては貴重な区間となっています。

平成20年3月25日
一戸町教育委員会
奥州街道 川底の道 所在地 一戸町小鳥谷字高屋飯  奥州街道中もっとも険しい道であったと伝えられているのが、笹目子と高屋敷を結ぶ川底の道でした。街道は小繋川を見下ろす左岸にあり、急峻な斜面に沿って進む上り下りの厳しい難所となっています。  明治9年(1876)、明治天皇が東北を巡幸した時の記録によると、「高間館坂」、「赤羽根坂」、「舅転の険」と呼ばれる難所が連続するこの区間は、「屈曲登降極まりなく」、「御巡幸中未だかつて見ない険路であった」と記されています。  残念ながら街道は、明治24年(1891)盛岡—青森間で運行を開始した東北本線の開設工事によって分断され、区間を通して通行することはできなくなってしまいました。  しかし、現在まで大規模な道路工事が行われなかったため、 今となっては貴重な区間となっています。 平成20年3月25日 一戸町教育委員会
鳥越山 こちらは庚申塚。
こちらは庚申塚。
鳥越山 「庚申」と刻まれた石碑。
「庚申」と刻まれた石碑。
鳥越山 むらの氏神さま 庚申塚(二十三夜)

所在地
高屋敷158-1

所有者(別当) 
平野忠雄

祭りの日

由来
この裏には部分的に平坦な場所があり、その昔には二十三夜の月見が行割れれたものと推察する。
むらの氏神さま 庚申塚(二十三夜) 所在地 高屋敷158-1 所有者(別当) 平野忠雄 祭りの日 由来 この裏には部分的に平坦な場所があり、その昔には二十三夜の月見が行割れれたものと推察する。
鳥越山 緑のトレイルを進みます。
緑のトレイルを進みます。
鳥越山 違うタイプの案内板がありました。
違うタイプの案内板がありました。
鳥越山 国指定史跡 川底一里塚に到着しました。
国指定史跡 川底一里塚に到着しました。
鳥越山 こちらが西塚。直径が東西10.00メートル(推定)、南北7.00メートル(残存部)、高さ3.20メートル。
こちらが西塚。直径が東西10.00メートル(推定)、南北7.00メートル(残存部)、高さ3.20メートル。
鳥越山 こちらが東塚。直径が東西10.0メートル、南北12.00メートル、高さ3.50メートル。
こちらが東塚。直径が東西10.0メートル、南北12.00メートル、高さ3.50メートル。
鳥越山 国指定史跡 川底一里塚

指定年月日
平成2年8月28日

所在地
一戸町小鳥谷宇高屋敷

所有者
(東塚) 村中啓一
(西塚)櫻田芳太郎

 江戸時代初期、参勤交代のため大名行列が行われるようになり、交通施設の整備は急速に進みました。

 幹線道路として、江戸の日本橋を起点とする東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道の、いわゆる五街道はよく知られています。宿場か発達し、街道の両側には約4キロメートルごとに一里塚が造られ、 旅はたいへんしやすくなってゆきました。

 幕府の道中奉行が管轄する奥州街道は江戸から白河(福島県)まででしたが、道は仙台・盛岡を経て津軽半島の三厩まで続き、これも奥州街道といわれました。

 川底一里塚は、その奥州街道に造られたもので、盛岡から北に13番目の一里塚です。東塚は、直径が東西10.0メートル、南北12.00メートル、高さ3.50メートルとなっています。西塚は直径が東西10.00メートル(推定)、南北7.00メートル(残存部)、高さ3.20メートルとなっています。

 明治時代になって、近代的な、幅の広い道路を造るとき、一里塚はそ の邪魔になるため壊されてしまいました。一戸町に一里塚が多く残って いるのは、奥州街道とは別なところに国道4号線が造られたためです。

平成11年3月25日
一戸町教育委員会
国指定史跡 川底一里塚 指定年月日 平成2年8月28日 所在地 一戸町小鳥谷宇高屋敷 所有者 (東塚) 村中啓一 (西塚)櫻田芳太郎  江戸時代初期、参勤交代のため大名行列が行われるようになり、交通施設の整備は急速に進みました。  幹線道路として、江戸の日本橋を起点とする東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道の、いわゆる五街道はよく知られています。宿場か発達し、街道の両側には約4キロメートルごとに一里塚が造られ、 旅はたいへんしやすくなってゆきました。  幕府の道中奉行が管轄する奥州街道は江戸から白河(福島県)まででしたが、道は仙台・盛岡を経て津軽半島の三厩まで続き、これも奥州街道といわれました。  川底一里塚は、その奥州街道に造られたもので、盛岡から北に13番目の一里塚です。東塚は、直径が東西10.0メートル、南北12.00メートル、高さ3.50メートルとなっています。西塚は直径が東西10.00メートル(推定)、南北7.00メートル(残存部)、高さ3.20メートルとなっています。  明治時代になって、近代的な、幅の広い道路を造るとき、一里塚はそ の邪魔になるため壊されてしまいました。一戸町に一里塚が多く残って いるのは、奥州街道とは別なところに国道4号線が造られたためです。 平成11年3月25日 一戸町教育委員会
鳥越山 少しだけヤブヤブな道を進みます。
少しだけヤブヤブな道を進みます。
鳥越山 気持ちのいい青空。
気持ちのいい青空。
鳥越山 ここで左に鋭角に曲がって、国道4号トンネル口に向かいます。
ここで左に鋭角に曲がって、国道4号トンネル口に向かいます。
鳥越山 まっすぐ進んだ先には誘導柱。直進方向は通行禁止になっています。
まっすぐ進んだ先には誘導柱。直進方向は通行禁止になっています。
鳥越山 直進方向には踏み跡はあるようです。
直進方向には踏み跡はあるようです。
鳥越山 案内表示のとおり国道4号トンネル口に向かいます。
案内表示のとおり国道4号トンネル口に向かいます。
鳥越山 トンネルの名称は笹目子トンネル。
トンネルの名称は笹目子トンネル。
鳥越山 トンネル内には歩道が整備されているので安全に進めます。
トンネル内には歩道が整備されているので安全に進めます。
鳥越山 もうすぐ出口です。
もうすぐ出口です。
鳥越山 国道4号線を少し外れて川沿いを進みます。
国道4号線を少し外れて川沿いを進みます。
鳥越山 新奥の細道の標柱がありました。
新奥の細道の標柱がありました。
鳥越山 小繋事件百周年記念碑 小繋の灯
小繋事件百周年記念碑 小繋の灯
鳥越山  小繋山は古来集落民が共同で利用・管理を行う入会山(いりあいやま)であった

 小繋集落民は集落の共存・共栄・平和のために入会慣行を守ってきた

 小繋山の入会権をめぐる裁判は1915(大正4)年の小撃大火により入会慣行等の関係資料が消失したことを奇貨として村外の山林地主が「所有名義」を盾に村民の入山を禁止したことに端を発する

 1917(大正6)年 村民は小繋山を守るため「地主」を相手に「入会権確認並妨害排除」訴訟を起こした

 1975(昭和50)年 和解調停が成立するまでの58年間 村民は親子三代にわたって闘い続け入会権を貫徹した

 2017(平成29)年 この事件は裁判開始以来百年目を迎えた 

 この闘いは労働者、農民、知識人、文化人、学者、学生、 そして指導と支援に半生をささげた方々によって支えられた

 この事件は今日世界的にも注目されコモンズ(入会)論としても研究されている

 先人の苦闘に思いを寄せ 闘いを支えてくださった全ての方々に深く感謝の意を表する

 ここから見渡せる山と南に延びる奥州街道沿いの山は小緊事件のあった山山である

 これらの山の一部は 入会権を主張し幾多の苦難を乗り越えて裁判を闘った村民がいたから今も使える山である

 この山は一戸町と集落との協定により  小繋再興のために 入会権的な使い方で利用される

2022(令和4)年10月15日 建立

小繋集落民
元一戸町長 稲葉 暉
岩手小つなぎの会世話人代表 早坂 啓造
 小繋山は古来集落民が共同で利用・管理を行う入会山(いりあいやま)であった  小繋集落民は集落の共存・共栄・平和のために入会慣行を守ってきた  小繋山の入会権をめぐる裁判は1915(大正4)年の小撃大火により入会慣行等の関係資料が消失したことを奇貨として村外の山林地主が「所有名義」を盾に村民の入山を禁止したことに端を発する  1917(大正6)年 村民は小繋山を守るため「地主」を相手に「入会権確認並妨害排除」訴訟を起こした  1975(昭和50)年 和解調停が成立するまでの58年間 村民は親子三代にわたって闘い続け入会権を貫徹した  2017(平成29)年 この事件は裁判開始以来百年目を迎えた  この闘いは労働者、農民、知識人、文化人、学者、学生、 そして指導と支援に半生をささげた方々によって支えられた  この事件は今日世界的にも注目されコモンズ(入会)論としても研究されている  先人の苦闘に思いを寄せ 闘いを支えてくださった全ての方々に深く感謝の意を表する  ここから見渡せる山と南に延びる奥州街道沿いの山は小緊事件のあった山山である  これらの山の一部は 入会権を主張し幾多の苦難を乗り越えて裁判を闘った村民がいたから今も使える山である  この山は一戸町と集落との協定により 小繋再興のために 入会権的な使い方で利用される 2022(令和4)年10月15日 建立 小繋集落民 元一戸町長 稲葉 暉 岩手小つなぎの会世話人代表 早坂 啓造
鳥越山 小繋御番所

 御番所とは、江戸時代に物資の移出入や人人の往来を取り締まることを目的として設けられた役所のことです。特に藩領の境に置かれたものは御境番所などと呼ばれ、重い任務が課せられたものでした。奥州街道沿いの小繋にも御番所が置かれていました。藩領の境ではありませんので、ここは領内の物資や人人の動きを監視するものだったでしょう。17世紀末頃の記録によると、南部領内には 御番所が26か所あったとされています。
小繋御番所  御番所とは、江戸時代に物資の移出入や人人の往来を取り締まることを目的として設けられた役所のことです。特に藩領の境に置かれたものは御境番所などと呼ばれ、重い任務が課せられたものでした。奥州街道沿いの小繋にも御番所が置かれていました。藩領の境ではありませんので、ここは領内の物資や人人の動きを監視するものだったでしょう。17世紀末頃の記録によると、南部領内には 御番所が26か所あったとされています。
鳥越山 沿道の長楽寺に寄っていきます。
沿道の長楽寺に寄っていきます。
鳥越山 天台宗 小繫山 長楽寺

延命地蔵堂 別当天台宗長楽寺 千蔵坊

沿革
 当寺縁起は恒武天皇の御代、坂上田村麻呂が征夷大将軍として、大同2年(807)に東夷鎮撫祈願のため、当地に地蔵堂を建立した事に始まります。

 また、嘉祥年中(850年頃)に慈覚大師が諸国巡錫の途上 に当地に至りて、六尺五寸の延命地蔵尊像を彫刻し授けたと 伝えられております。南部藩主入国以来神仏を尊崇すること厚く、29代重信公になって各地に堂を建立され、寛文9年(1669)には御免地の證を下賜、寺運益々隆盛をきわめておりました。

 然しながら、当寺は何度かの火災に羅り、伽藍、寺の記録等焼失することとなりました。

 再三の火災に偶するも地蔵尊だけは不思議にもその都度難 を免れ、一層霊験あらたかであることを世間の人が知ることとなり、盛岡以北旧松前藩より鹿角に至るまで信者の参拝が 断えませんでした。江戸勤番往路の際は本陣となってもおり ました。

 このような当寺も明治改革・大正4年小祭の大火にて寺は 全焼し、わずかに地蔵堂を残すのみとなっております。
天台宗 小繫山 長楽寺 延命地蔵堂 別当天台宗長楽寺 千蔵坊 沿革  当寺縁起は恒武天皇の御代、坂上田村麻呂が征夷大将軍として、大同2年(807)に東夷鎮撫祈願のため、当地に地蔵堂を建立した事に始まります。  また、嘉祥年中(850年頃)に慈覚大師が諸国巡錫の途上 に当地に至りて、六尺五寸の延命地蔵尊像を彫刻し授けたと 伝えられております。南部藩主入国以来神仏を尊崇すること厚く、29代重信公になって各地に堂を建立され、寛文9年(1669)には御免地の證を下賜、寺運益々隆盛をきわめておりました。  然しながら、当寺は何度かの火災に羅り、伽藍、寺の記録等焼失することとなりました。  再三の火災に偶するも地蔵尊だけは不思議にもその都度難 を免れ、一層霊験あらたかであることを世間の人が知ることとなり、盛岡以北旧松前藩より鹿角に至るまで信者の参拝が 断えませんでした。江戸勤番往路の際は本陣となってもおり ました。  このような当寺も明治改革・大正4年小祭の大火にて寺は 全焼し、わずかに地蔵堂を残すのみとなっております。
鳥越山 参道の解説板のとおり、境内には地蔵堂だけが残っています。
参道の解説板のとおり、境内には地蔵堂だけが残っています。
鳥越山 安心の誘導柱。
奥州街道はここを左折ですが、寄り道のため、
安心の誘導柱。 奥州街道はここを左折ですが、寄り道のため、
鳥越山 ここを直進します。
ここを直進します。
鳥越山 雰囲気のある橋脚。
雰囲気のある橋脚。
鳥越山 近くに寄ってみました。歴史を感じますが云われは分からず。
近くに寄ってみました。歴史を感じますが云われは分からず。
鳥越山 寄り道の目的地は前方のトンネルの入口です。
寄り道の目的地は前方のトンネルの入口です。
鳥越山 ここに、小鳥付車止め「ピコリーノ」が建立されているのです。

[サンポール 小鳥付車止め「ピコリーノ」誕生秘話) ]
https://www.sunpole.co.jp/product-story/post-2429/
ここに、小鳥付車止め「ピコリーノ」が建立されているのです。 [サンポール 小鳥付車止め「ピコリーノ」誕生秘話) ] https://www.sunpole.co.jp/product-story/post-2429/
鳥越山 4羽のうち1羽を他の小鳥たちから少し離して「はぐれ鳥」にしているそうです。
4羽のうち1羽を他の小鳥たちから少し離して「はぐれ鳥」にしているそうです。
鳥越山 ここでは、2羽は飛び立っていったようです。
ここでは、2羽は飛び立っていったようです。
鳥越山 「「はぐれ鳥」を作ることで情緒が生まれ、小鳥たちの間に物語も生まれる。」のだそう。
「「はぐれ鳥」を作ることで情緒が生まれ、小鳥たちの間に物語も生まれる。」のだそう。
鳥越山 微妙に向きが違うピコリーノもあります。
微妙に向きが違うピコリーノもあります。
鳥越山 ここは小繋歩道トンネル。竣工は1992年です。
ここは小繋歩道トンネル。竣工は1992年です。
鳥越山 傍らに「新奥の細道」の標柱。
傍らに「新奥の細道」の標柱。
鳥越山 トンネルの向こう側にも行ってみます。
トンネルの向こう側にも行ってみます。
鳥越山 こちら側には3台が建立されています。
こちら側には3台が建立されています。
鳥越山 いいですね。
いいですね。
鳥越山 少しアップで。
少しアップで。
鳥越山 癒されました。
癒されました。
鳥越山 本線に戻って奥州街道を進みます。
本線に戻って奥州街道を進みます。
鳥越山 ここは小繫御番所跡。
ここは小繫御番所跡。
鳥越山 奥州街道 小繫御番所跡

所在地
一戸字小繫字小繫

 小繋は、奥州街道と御山(天台寺)へ向かう通称「巡見道」との分岐点に位置しています。交通の要所となることから盛岡以北最初の御番所が置かれています。

 「岩手県史」によると、御番所には藩境に設置された境番所と領内に設置された中間番所があり、小繋には中間番所が置かれ、領内における物資の流通と交通を監視する役割を果たしていたとされています。

 盛岡藩の財政状況を記した古沢康伯著『邦内貢賦記』には、「入女は小繋・湯瀬(秋田県鹿角市)・鬼柳(北上市)にて御改」とあり、材木・馬・漆・蝋など の物資のほか、盛岡へ向かう主な街道筋の番所では女性の移動についても取り調べが行われていました。

 現在、御番所の建物は残っていませんが、漆戸茂樹著『北奥路程記』には「小繋入り口、小橋渡り、左に御番所あり」と記され、また 他の文献資料や言い伝えから、集落入口にある橋を渡ったこの場所に 「小繋御番所」が建てられていたことが分かっています。

平成20年3月25日
一戸町教育委員会
奥州街道 小繫御番所跡 所在地 一戸字小繫字小繫  小繋は、奥州街道と御山(天台寺)へ向かう通称「巡見道」との分岐点に位置しています。交通の要所となることから盛岡以北最初の御番所が置かれています。  「岩手県史」によると、御番所には藩境に設置された境番所と領内に設置された中間番所があり、小繋には中間番所が置かれ、領内における物資の流通と交通を監視する役割を果たしていたとされています。  盛岡藩の財政状況を記した古沢康伯著『邦内貢賦記』には、「入女は小繋・湯瀬(秋田県鹿角市)・鬼柳(北上市)にて御改」とあり、材木・馬・漆・蝋など の物資のほか、盛岡へ向かう主な街道筋の番所では女性の移動についても取り調べが行われていました。  現在、御番所の建物は残っていませんが、漆戸茂樹著『北奥路程記』には「小繋入り口、小橋渡り、左に御番所あり」と記され、また 他の文献資料や言い伝えから、集落入口にある橋を渡ったこの場所に 「小繋御番所」が建てられていたことが分かっています。 平成20年3月25日 一戸町教育委員会
鳥越山 この先しばらく未舗装路です。
この先しばらく未舗装路です。
鳥越山 安心の誘導柱、
安心の誘導柱、
鳥越山 誘導柱、
誘導柱、
鳥越山 誘導柱。
誘導柱。
鳥越山 小繫一里塚に到着しました。
小繫一里塚に到着しました。
鳥越山 奥州街道 岩手県指定史跡 小繫一里塚

指定年月日
平成2年8月28日

所在地
一戸町小祭字小幣123番地1

所有書
大倉まさ・辻野恭子・阿部客子・桜田展子・小林柱子・鹿志村清一

 江戸時代初期、参勤交代のため大名行列が行われるようになり、交通施設の間は急速に進みました。

 幹線道路として、江戸の日本橋を起点とする東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道の、いわゆる五街道はよく知られています。宿場が発達し、街道の両側には約4キロメートルごとに一里塚が造られ、 旅はたいへんしやすくなってゆきました。

 幕府の道中車行が管轄する奥州街道は江戸から白河(福島県)まででし たが、道は仙台・盛岡を経て津軽半島の三厩まで続き、これも奥州街道といわれました。

 小繋一里塚は、その奥州街道に造られたもので、盛岡から北に12番目の一里塚です。塚は西塚だけ残っており、直径は東西11.6メート ル、南北11.1メートル、高さ2.33メートルとなっています。

 明治時代になって、近代的な、幅の広い道路を造るとき、一里塚はその邪見になるため壊されてしまいました。一戸町に一里塚が多く残っているのは、奥州街道とは別なところに国道4号線が造られたためです。

平成7年9月15日
一戸町教育委員会
奥州街道 岩手県指定史跡 小繫一里塚 指定年月日 平成2年8月28日 所在地 一戸町小祭字小幣123番地1 所有書 大倉まさ・辻野恭子・阿部客子・桜田展子・小林柱子・鹿志村清一  江戸時代初期、参勤交代のため大名行列が行われるようになり、交通施設の間は急速に進みました。  幹線道路として、江戸の日本橋を起点とする東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道の、いわゆる五街道はよく知られています。宿場が発達し、街道の両側には約4キロメートルごとに一里塚が造られ、 旅はたいへんしやすくなってゆきました。  幕府の道中車行が管轄する奥州街道は江戸から白河(福島県)まででし たが、道は仙台・盛岡を経て津軽半島の三厩まで続き、これも奥州街道といわれました。  小繋一里塚は、その奥州街道に造られたもので、盛岡から北に12番目の一里塚です。塚は西塚だけ残っており、直径は東西11.6メート ル、南北11.1メートル、高さ2.33メートルとなっています。  明治時代になって、近代的な、幅の広い道路を造るとき、一里塚はその邪見になるため壊されてしまいました。一戸町に一里塚が多く残っているのは、奥州街道とは別なところに国道4号線が造られたためです。 平成7年9月15日 一戸町教育委員会
鳥越山 この先車両は通行止めになっています。
この先車両は通行止めになっています。
鳥越山 しばらくこんな道を進みます。
しばらくこんな道を進みます。
鳥越山 ピークに到着しました。こちら側からも車両通行止めです。
ピークに到着しました。こちら側からも車両通行止めです。
鳥越山 奥州街道 ヨノ坂

所在地
一戸町小繁字小繫、新館林

 火行と小繋、2つの集落を結ぶ「ヨノ坂」は奥州街道の中でもかなりの難所として知られていました。「野々坂」「飯の坂」とも呼ばれたこの坂は、山あいの沢に沿って進む1.5キロメートルほどの道で、 大巻秀詮著『邦内郷村志」』には「左右野山也。 不毛之地。不生一木。」と記されていることから、周囲に一軒の家も樹木も無いさびしい道だったようです。 

 明治9年、明治天皇東北巡幸の準備のため街道の各地で大規模な道路修繕が行われると、この区間も玉砂利を敷いて通行しやすいよう工事が行われことになりました。しかし、沢沿いに位置する「ヨノ坂」は路面の状態が悪く、また工事区間も長かったことから人手が不足することとなり、結局は簡易な修繕しか行われませんでした(『明治九年岩手縣御巡幸録』)。

 明治17年に行われた奥州街道の大改修の際には、一戸町内の路線の多くが山中を通る道筋から谷筋の平坦な道筋に付け替えられ、「ヨノ坂」も主要道ではなくなりました。しかし、周辺の開発が行われな かったことで、今では住時の景観を残す貴重な区間となっています。

平成20年3月25日
一戸町教育委員会
奥州街道 ヨノ坂 所在地 一戸町小繁字小繫、新館林  火行と小繋、2つの集落を結ぶ「ヨノ坂」は奥州街道の中でもかなりの難所として知られていました。「野々坂」「飯の坂」とも呼ばれたこの坂は、山あいの沢に沿って進む1.5キロメートルほどの道で、 大巻秀詮著『邦内郷村志」』には「左右野山也。 不毛之地。不生一木。」と記されていることから、周囲に一軒の家も樹木も無いさびしい道だったようです。  明治9年、明治天皇東北巡幸の準備のため街道の各地で大規模な道路修繕が行われると、この区間も玉砂利を敷いて通行しやすいよう工事が行われことになりました。しかし、沢沿いに位置する「ヨノ坂」は路面の状態が悪く、また工事区間も長かったことから人手が不足することとなり、結局は簡易な修繕しか行われませんでした(『明治九年岩手縣御巡幸録』)。  明治17年に行われた奥州街道の大改修の際には、一戸町内の路線の多くが山中を通る道筋から谷筋の平坦な道筋に付け替えられ、「ヨノ坂」も主要道ではなくなりました。しかし、周辺の開発が行われな かったことで、今では住時の景観を残す貴重な区間となっています。 平成20年3月25日 一戸町教育委員会
鳥越山 ここからはしばらく舗装路です。
ここからはしばらく舗装路です。
鳥越山 沿道の神社。奥州街道関係の云われは無い模様。
沿道の神社。奥州街道関係の云われは無い模様。
鳥越山 安心の誘導柱。
安心の誘導柱。
鳥越山 気持ちのいい青空。
気持ちのいい青空。
鳥越山 安心の誘導柱。
安心の誘導柱。
鳥越山 こちらは青面金剛像塔。
こちらは青面金剛像塔。
鳥越山 解説板によると、「顔には怒りの表情を浮かべ、中央の手は合掌し、上の手は弓と矢を構え、下の手は蛇を捕らえ、虎の皮の袴をまとい、上部に「日」「月」、 左右に2羽の「鶏」、足下に3匹の「猿」が刻まれた、青面金剛像としては典型的な姿をし ています。」とのこと。
解説板によると、「顔には怒りの表情を浮かべ、中央の手は合掌し、上の手は弓と矢を構え、下の手は蛇を捕らえ、虎の皮の袴をまとい、上部に「日」「月」、 左右に2羽の「鶏」、足下に3匹の「猿」が刻まれた、青面金剛像としては典型的な姿をし ています。」とのこと。
鳥越山 奥州街道 青面金剛像塔

所在地
一戸町中山字稲荷林

 中山集落(現・旧中山地区)の南の入り口に立つこの塔は、安永4年(1775)と記絡された、一戸町でもっとも古い青面金剛像塔です。

 この塔は、庚申塔として建てられたものです。

 顔には怒りの表情を浮かべ、中央の手は合掌し、上の手は弓と矢を構え、下の手は蛇を捕らえ、虎の皮の袴をまとい、上部に「日」「月」、 左右に2羽の「鶏」、足下に3匹の「猿」が刻まれた、青面金剛像としては典型的な姿をし ています。

 中国の道教に由来する庚申信仰は平安時代に日本に伝わり、室町時代以降、長寿を祈願して庶民の間に広がったとされています。江戸時代に入るとますます盛んになり、多くの庚申塔が造立されるようになりました。

 一戸町内に残る庚申塔のほとんどは、集落の入り口や分岐点など道沿いに造られており、旅人や村の安全を守る道祖神と同じ役割を持っ ていたと考えられています。

平成20年3月25日
一戸町教育委員会
奥州街道 青面金剛像塔 所在地 一戸町中山字稲荷林  中山集落(現・旧中山地区)の南の入り口に立つこの塔は、安永4年(1775)と記絡された、一戸町でもっとも古い青面金剛像塔です。  この塔は、庚申塔として建てられたものです。  顔には怒りの表情を浮かべ、中央の手は合掌し、上の手は弓と矢を構え、下の手は蛇を捕らえ、虎の皮の袴をまとい、上部に「日」「月」、 左右に2羽の「鶏」、足下に3匹の「猿」が刻まれた、青面金剛像としては典型的な姿をし ています。  中国の道教に由来する庚申信仰は平安時代に日本に伝わり、室町時代以降、長寿を祈願して庶民の間に広がったとされています。江戸時代に入るとますます盛んになり、多くの庚申塔が造立されるようになりました。  一戸町内に残る庚申塔のほとんどは、集落の入り口や分岐点など道沿いに造られており、旅人や村の安全を守る道祖神と同じ役割を持っ ていたと考えられています。 平成20年3月25日 一戸町教育委員会
鳥越山 安心の誘導柱と新奥の細道の案内板。
安心の誘導柱と新奥の細道の案内板。
鳥越山 沿道の蒼前神社に立ち寄ってみました。
沿道の蒼前神社に立ち寄ってみました。
鳥越山 境内の祠には馬の石像が祀られていました。馬を守る神様なのでしょうか?
奥州街道の云われは無い模様。
境内の祠には馬の石像が祀られていました。馬を守る神様なのでしょうか? 奥州街道の云われは無い模様。
鳥越山 正面はおそらく西岳。右側(北側)の稜線には風車が並んでいます。
正面はおそらく西岳。右側(北側)の稜線には風車が並んでいます。
鳥越山 安心の誘導柱。
安心の誘導柱。
鳥越山 国指定史跡 旧中山一里塚に到着しました。
国指定史跡 旧中山一里塚に到着しました。
鳥越山 国指定史跡 旧中山一里塚

指定年月日
平成22年2月22日

所在地(西塚)
一戸町中山字東向13番地

所有者(西塚)
中橋孫彦

 江戸時代初期、参勤交代のため大名行列が行われることになり、 交通施設の整備は急速に進みました。

 幹線道路として、江戸の日本橋を起点とする東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道の、いわゆる五街道はよく知られています。宿場が発達し、街道の両側には約4キロメートルごとに一里 塚が造られ、旅はたいへんしやすくなってゆきました。

 幕府の道中奉行が管轄する奥州街道は江戸から白河(福島県)まででしたが、道は仙台・盛岡を経て津軽半島の三厩まで続き、これも奥州街道といわれました。

 旧中山一里塚は、その奥州街道に造られたもので、盛岡から北に11番目の一里塚です。塚は西塚だけ残っていて、直径は11.4メートル、高さは3.5メートルあります。東塚は昭和50年代までありましたが、崩されて畑になりました。

 明治時代になって、近代的な、巾の広い道路を造るとき、一里塚はその邪魔になるため壊されてしまいました。一戸町に一里塚が多く残っているのは、奥州街道とは別なところに国道4号線が造られたためです。

平成6年8月31日
一戸町教育委員会
国指定史跡 旧中山一里塚 指定年月日 平成22年2月22日 所在地(西塚) 一戸町中山字東向13番地 所有者(西塚) 中橋孫彦  江戸時代初期、参勤交代のため大名行列が行われることになり、 交通施設の整備は急速に進みました。  幹線道路として、江戸の日本橋を起点とする東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道の、いわゆる五街道はよく知られています。宿場が発達し、街道の両側には約4キロメートルごとに一里 塚が造られ、旅はたいへんしやすくなってゆきました。  幕府の道中奉行が管轄する奥州街道は江戸から白河(福島県)まででしたが、道は仙台・盛岡を経て津軽半島の三厩まで続き、これも奥州街道といわれました。  旧中山一里塚は、その奥州街道に造られたもので、盛岡から北に11番目の一里塚です。塚は西塚だけ残っていて、直径は11.4メートル、高さは3.5メートルあります。東塚は昭和50年代までありましたが、崩されて畑になりました。  明治時代になって、近代的な、巾の広い道路を造るとき、一里塚はその邪魔になるため壊されてしまいました。一戸町に一里塚が多く残っているのは、奥州街道とは別なところに国道4号線が造られたためです。 平成6年8月31日 一戸町教育委員会
鳥越山 姫神山が見えました。
姫神山が見えました。
鳥越山 この東屋で少し休憩しました。
この東屋で少し休憩しました。
鳥越山 岩手山がキレイに見えました。
岩手山がキレイに見えました。
鳥越山 安心の誘導柱。
安心の誘導柱。
鳥越山 新奥の細道 旧奥州街道の道の解説板。
新奥の細道 旧奥州街道の道の解説板。
鳥越山 青空と緑。
青空と緑。
鳥越山 この先、誘導柱が集中的に配置されています。
この先、誘導柱が集中的に配置されています。
鳥越山 誘導柱①
誘導柱①
鳥越山 誘導柱②
誘導柱②
鳥越山 誘導柱③
誘導柱③
鳥越山 誘導柱④
誘導柱④
鳥越山 誘導柱⑤
誘導柱⑤
鳥越山 誘導柱⑥
誘導柱⑥
鳥越山 誘導柱⑦
誘導柱⑦
鳥越山 御堂・馬羽松一里塚に到着しました。
こちらは一戸町側の東塚(鳥羽松塚)、直径11.2メートル、高さ2.8メートル。
御堂・馬羽松一里塚に到着しました。 こちらは一戸町側の東塚(鳥羽松塚)、直径11.2メートル、高さ2.8メートル。
鳥越山 国指定史跡 奥州街道
御堂・馬羽松一里塚 

指定年月日
平成22年2月22日

所在地(東塚)
一戸町中山中上向

 江戸時代初期、参勤交代のため大名行列が行われるようになり、交通施設の整備は急速に進みました。

 幹線道路として、江戸の日本橋を起点とする東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道の、いわゆる五街道はよく知られています。宿場が発達し、街道の両脇には約4キロメートルごとに一里塚が造られ、旅はたいへんしやすくなってゆきました。

 幕府の道中奉行が管轄する奥州街道は江戸から白河(福島県)まででしたか、 道は仙台・盛岡を経て津軽半島の三厩まで続き、これも奥州街道といわれました。 

 御堂・馬羽松一里塚は、その奥州街道に造られたもので、盛岡から北に10番目の一里塚です。塚は2つとも残っており、東塚は直径が11.2メートル、高さは2.8メートル、西塚(岩手町)は直径が12.2メートル、高さは1.6メートルあります。

 明治時代になって、近代的な幅の広い道路を造るとき、一里塚はその邪魔になるため壊されてしまいました。一戸町に一里塚が多く残っているのは、奥州街道とは別なところに国道4号が造られたためです。

令和4年8月
一戸町教育委員会
国指定史跡 奥州街道 御堂・馬羽松一里塚 指定年月日 平成22年2月22日 所在地(東塚) 一戸町中山中上向  江戸時代初期、参勤交代のため大名行列が行われるようになり、交通施設の整備は急速に進みました。  幹線道路として、江戸の日本橋を起点とする東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道の、いわゆる五街道はよく知られています。宿場が発達し、街道の両脇には約4キロメートルごとに一里塚が造られ、旅はたいへんしやすくなってゆきました。  幕府の道中奉行が管轄する奥州街道は江戸から白河(福島県)まででしたか、 道は仙台・盛岡を経て津軽半島の三厩まで続き、これも奥州街道といわれました。  御堂・馬羽松一里塚は、その奥州街道に造られたもので、盛岡から北に10番目の一里塚です。塚は2つとも残っており、東塚は直径が11.2メートル、高さは2.8メートル、西塚(岩手町)は直径が12.2メートル、高さは1.6メートルあります。  明治時代になって、近代的な幅の広い道路を造るとき、一里塚はその邪魔になるため壊されてしまいました。一戸町に一里塚が多く残っているのは、奥州街道とは別なところに国道4号が造られたためです。 令和4年8月 一戸町教育委員会
鳥越山 こちらは岩手町側の西塚(御堂塚)、直径12.2メートル、高さ1.6メートル
こちらは岩手町側の西塚(御堂塚)、直径12.2メートル、高さ1.6メートル
鳥越山 国指定史跡 奥州街道
御堂・馬羽松一里塚

指定日
平成22年2月22日

所在地
岩手町大字金3-60-1他

 一里塚は、江戸時代初め街道の一里(約4キロ)ごとの道の両側に塚を築き、その上に榎(えのき)、松、杉などを植えたといわれ、旅人の道しるべとなり、旅の便がはかられた。 

 御堂・馬羽松一里塚は通称大塚と言われる奥州街道の一里塚で、岩手町と一戸町の町境にあり、街道をはさんで両側に二基一対が残っている。一戸町側の東屋(鳥羽松塚)は直径11.2メートル、高さ2.8メートル、岩手町側の西塚(御堂塚)は直径12.2メートル、高さ1.6メートルとなっている。 

 江戸時代の紀行文、漆戸茂樹の「北奥路程記」によれば岩手町内ではこの一里塚のほかに、草桁、丹藤、新町、水堀にあると書かれているが、このうち二基とも往時の姿を留めているのは、この一里塚だけとなっている。

 東日本の交通の要であった「奥州街道」たが、今日では本来の江戸から白河までの 「奥州道中」に加え、白河~三厩までを含めた全区間を広義の「奥州街道」と呼んでいる。 

 国道建設等に伴う破壊を免れ、当時の状況を良く残しているとして、平成22年に一戸町を中心とした区域の「奥州街道」が国史跡に指定された際、この一里塚もその構成要素の一部として、東塚とともに指定を受けている。

平成28年3月
岩手町教育委員会
国指定史跡 奥州街道 御堂・馬羽松一里塚 指定日 平成22年2月22日 所在地 岩手町大字金3-60-1他  一里塚は、江戸時代初め街道の一里(約4キロ)ごとの道の両側に塚を築き、その上に榎(えのき)、松、杉などを植えたといわれ、旅人の道しるべとなり、旅の便がはかられた。  御堂・馬羽松一里塚は通称大塚と言われる奥州街道の一里塚で、岩手町と一戸町の町境にあり、街道をはさんで両側に二基一対が残っている。一戸町側の東屋(鳥羽松塚)は直径11.2メートル、高さ2.8メートル、岩手町側の西塚(御堂塚)は直径12.2メートル、高さ1.6メートルとなっている。  江戸時代の紀行文、漆戸茂樹の「北奥路程記」によれば岩手町内ではこの一里塚のほかに、草桁、丹藤、新町、水堀にあると書かれているが、このうち二基とも往時の姿を留めているのは、この一里塚だけとなっている。  東日本の交通の要であった「奥州街道」たが、今日では本来の江戸から白河までの 「奥州道中」に加え、白河~三厩までを含めた全区間を広義の「奥州街道」と呼んでいる。  国道建設等に伴う破壊を免れ、当時の状況を良く残しているとして、平成22年に一戸町を中心とした区域の「奥州街道」が国史跡に指定された際、この一里塚もその構成要素の一部として、東塚とともに指定を受けている。 平成28年3月 岩手町教育委員会
鳥越山 次は御堂観音に向かいます。
次は御堂観音に向かいます。
鳥越山 こちらが御堂観音。
北上川の源泉「弓弭(ゆはず)の泉」はこの境内にあります。

[いわての文化情報大辞典(岩手県公式)]
http://www.bunka.pref.iwate.jp/archive/p1786
こちらが御堂観音。 北上川の源泉「弓弭(ゆはず)の泉」はこの境内にあります。 [いわての文化情報大辞典(岩手県公式)] http://www.bunka.pref.iwate.jp/archive/p1786
鳥越山 新奥の細道「旧奥州街道のみち」の解説板がありました。
新奥の細道「旧奥州街道のみち」の解説板がありました。
鳥越山 では境内へ。
では境内へ。
鳥越山 阿形 (あぎょう) と、
阿形 (あぎょう) と、
鳥越山 吽形 (うんぎょう) 。
吽形 (うんぎょう) 。
鳥越山 「弓弭(ゆはず)の泉」の案内板がありました。
「弓弭(ゆはず)の泉」の案内板がありました。
鳥越山 山門を抜けて、
山門を抜けて、
鳥越山 こちらが本殿。「弓弭(ゆはず)の泉」は本殿の右奥にあります。
こちらが本殿。「弓弭(ゆはず)の泉」は本殿の右奥にあります。
鳥越山 岩手町と石巻市を結ぶ記念碑

母なる北上川は岩手町御堂観音、弓弭の泉を源として、247キロメートルを流れ石巻の河口で太平洋に注ぐ。
川の流れの悠久を思い、自然の恵みに感謝し北上川源泉のこの地に本碑を建立す。

・・・・・・
碑文の「石巻の北上川の河口」は、みちのく潮風トレイルのルート上に近接しています。次の活動日記の61枚目の写真の辺りです。

[2023.7.2 みちのく潮風トレイル#22 雄勝半島]
https://yamap.com/activities/25243793
岩手町と石巻市を結ぶ記念碑 母なる北上川は岩手町御堂観音、弓弭の泉を源として、247キロメートルを流れ石巻の河口で太平洋に注ぐ。 川の流れの悠久を思い、自然の恵みに感謝し北上川源泉のこの地に本碑を建立す。 ・・・・・・ 碑文の「石巻の北上川の河口」は、みちのく潮風トレイルのルート上に近接しています。次の活動日記の61枚目の写真の辺りです。 [2023.7.2 みちのく潮風トレイル#22 雄勝半島] https://yamap.com/activities/25243793
鳥越山 こちらが北上川の源泉「弓弭(ゆはず)の泉」。
こちらが北上川の源泉「弓弭(ゆはず)の泉」。
鳥越山 水源保持のため柵内は立入禁止になっています。
水源保持のため柵内は立入禁止になっています。
鳥越山 御堂観音の正面は「いわてまち 川の駅」として公園等が整備されています。
御堂観音の正面は「いわてまち 川の駅」として公園等が整備されています。
鳥越山 奥州街道はここまで。
この道を通ってゴールの奥中山高原駅に向かいます。
奥州街道はここまで。 この道を通ってゴールの奥中山高原駅に向かいます。
鳥越山 しばらく未舗装路を進みます。
しばらく未舗装路を進みます。
鳥越山 気持ちのいい青空。
気持ちのいい青空。
鳥越山 岩手山はアーベントロート風。
岩手山はアーベントロート風。
鳥越山 沿道の聖徳皇太子堂に寄っていきます。
沿道の聖徳皇太子堂に寄っていきます。
鳥越山 阿形 (あぎょう) と、
阿形 (あぎょう) と、
鳥越山 吽形 (うんぎょう) 。
吽形 (うんぎょう) 。
鳥越山 こちらが本殿。
こちらが本殿。
鳥越山 駅名標が掲示された気になる建物。
駅名標が掲示された気になる建物。
鳥越山 奥中山高原駅の南側に広めの駐車場がありました。
奥中山高原駅の南側に広めの駐車場がありました。
鳥越山 奥中山高原駅に到着しました。
奥中山高原駅に到着しました。
鳥越山 駅舎の脇には歴史を感じる看板が置かれていました。

・・・・・・
旧東北本線 最高駅
奥中山高原駅

旧東北線最高位駅
奥中山高原駅(旧名:中山駅)
標高427m

 東北本線の歴史を辿れば、明治期に日本鉄道会社が建設した路線で当初は「東北線」と呼ばれ、1890年(明治23年)に東京-盛岡間が開通、翌1891年(明治24年)盛岡-青森間が開通して東北線の全通となっている。

 東北線最大の難工事となった盛岡・小繋間(現IGR路線)は、後に「台湾鉄道の父」と称された長谷川謹助鉄道技師が工事にあたり、小繋・青森間は小川資源鉄道技師が担当した。

 また、台湾縦貫線敷設工事を請負った鹿島組(現 鹿島建設)がこの東北線の敷設工事(盛岡-青森間)に従事したという歴史もある。

IGRいわて銀河鉄道
駅舎の脇には歴史を感じる看板が置かれていました。 ・・・・・・ 旧東北本線 最高駅 奥中山高原駅 旧東北線最高位駅 奥中山高原駅(旧名:中山駅) 標高427m  東北本線の歴史を辿れば、明治期に日本鉄道会社が建設した路線で当初は「東北線」と呼ばれ、1890年(明治23年)に東京-盛岡間が開通、翌1891年(明治24年)盛岡-青森間が開通して東北線の全通となっている。  東北線最大の難工事となった盛岡・小繋間(現IGR路線)は、後に「台湾鉄道の父」と称された長谷川謹助鉄道技師が工事にあたり、小繋・青森間は小川資源鉄道技師が担当した。  また、台湾縦貫線敷設工事を請負った鹿島組(現 鹿島建設)がこの東北線の敷設工事(盛岡-青森間)に従事したという歴史もある。 IGRいわて銀河鉄道
鳥越山 駐車場に戻ってきました。今日も一日楽しめました。
駐車場に戻ってきました。今日も一日楽しめました。

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