体の調子を整えると言うか、確認してみよと思うて、気にしつつぼちぼち歩きに出ました 前回は、子どもの頃からよう知ってる八幡さんの辺りを歩いたんで安心して歩けたんやけど、2回目はおんなじ八幡の市内なんですが、だんだん土地勘の薄くなる走上りから正法寺さんや圓福寺さんのある南の方へ歩いていくんで見落としがちょっと心配になってたんですが、既に1回目で見落としてた道標があって、どないしょうかなぁーって考えてたんですけど、そんなんは後で考えることとして次を歩くことにしたんですけど、案の定、幾つかの道標を見つけることができませんでした 道標の立てはった場所と内容は、三宅安兵衛さんがというか息子さんがというか、息子さんが相談しはった浜田青陵先生が、旧蹟とか街道のことをよう知ってはる凄い人やったんやなぁとつくづく思いました そやから、歩いていくのに道標が道案内してくれるんやないかなぁと思うてたんですが、なかなか思うたようにいかなくて、道標が集中するエリアもキョロキョロして探して歩いたんですが、幾つかは見落としてしまいました 幾つかの碑面は浜田青陵先生が書いてはります ここまで歩いてきて肝心の石標ですが、街道の起点や重要な分岐点のんは、やっぱり大きくて立派なんを建てはったんやなぁって思うてます コメント欄には 碑の名称 正面 側面 建之年月 所在地 と 気づいた点や出来事などを書いてみました 三宅安兵衛の石標 その壱 https://yamap.com/activities/241884 *今回も歩くにあたり、以下の“三宅安兵衛の碑”の資料を元にさせていただきました https://www.asahi-net.or.jp/~uw8y-kym/hito6_miyake_hi.html 基本的に古い石標の写真しか出てきません 古い石標に興味のない方はスルーしてください
前回も通った神原(走上り)からスタートします
巣林菴 左隣 忍澂寺 右 九品寺一丁 昭和二年十月建之 神原の谷不動への道 ひだまりコースの入口を入ってすぐのとこにあるんですが、左右が逆なので本来は道の向かい側にあったようです コレは前回見落としてしまった石標です この後、日頃歩き慣れないエリアなんで 探し切れなかった石標が何ヶ所もあります
尾張大納言義直候 母堂相應院殿墓所 正法寺 右側面 北 九品寺一丁 京阪電車一八丁 左側面 南 八角院四丁 圓福寺十五丁 昭和四年三月建之 正法寺の門前 “新善法寺旧跡の碑”と “九品(くほん)寺の碑”が分からず そのまま正法寺まで来ました *後でネット検索したら、九品寺の碑は 2019年には撤退されていたようです
正法寺 正面が唐門 唐破風造と入母屋造を組み合わせた屋根や 牡丹の透かし彫りや牡丹唐草の浮彫りなど 装飾がキレイで「徳迎山」の扁額があります
弘仁時代一里塚跡 右 正法寺隣 左 戸津道二丁 昭和二年十月建之 安心(あんしん)院の境内 門を入った正面の植え込みの中にあります
左 東在所道 戸津八丁 内里十五丁 岩田渡船場廿五丁 寺田一里半 下奈良渡船場廿二丁 宇治二里 左 京街道 御幸橋廿丁 鳥羽三里 淀一里半 伏見二里半 東寺四里廿丁 昭和二年十月建之 京田辺と京街道との分岐点 志水の内藤精肉店の前の三叉路にあります 木津川には上流から、岩田・上津屋・下奈良・川口・橋本と、多くの渡船場があったようです
樟葉道 停留所 西十五丁 橋本近道 西十五丁 昭和二年十月建之 清水井の民家の敷地の中 見れるようにブロック塀が切り取られています
水月庵 向て右 北 八幡宮本社十丁 京阪八幡停留所廿丁 西幣原水月庵八丁 招提十八丁 枚方二里 向て左 美濃山八丁 長尾停車場一里 四條畷三里 昭和二年建立 東高野街道沿い 松花堂庭園へ向かう東高野街道の向かい側 河内道と幣原(しではら)村への分岐点にあります
八角院 西車塚跡 国寶乾漆阿弥陀像 同 元横川元三大師像 昭和二年建立 今は八角堂へ上がる階段の右側にあります やまっぽさんの2021.01のレポの写真には階段の左側にあったんですが、その後左側から右側へ移されたようです
八角堂 前方後円墳だった塚の上にあり、明治の神仏分離によって、男山山上にあった豊臣秀頼寄進と伝えられるお堂が移築されています
母泥之阿治佐波毘賣命御墓参考地 これは、三宅安兵衛さんの遺志で建之した碑ではなく、息子の清治郎さんが建之したもの
正平役血洗池古蹟 右 八角堂 左 男塚 昭和二年七月建之 “水月菴の碑”からさくら公園へ抜ける道の途中 八角堂のある西軍塚古墳の周濠の一部と考えられ、開発によって池となって残ったらしい
中ノ山墓地の上から宇治方面をパノラマ 正平の役で敗死した人の石標があるらしいんですが、墓石に紛れたのか“中ノ山古墳の碑”と “正平塚古墳の碑”は見つけられませんでした
万稱寺跡 右 正平塚半丁 左 中の山一丁 昭和二年十月建之 中ノ山墓地の下 東側へ下った左側 次の“正平塚の碑”と対になっています
正平塚 吾妻与五郎墓 万稱山 右 男塚一丁 左 紅葉寺半丁 昭和二年十月建之 中ノ山墓地の下 “万稱寺跡の碑”と隣合わせの右側にあります
松花堂庭園旧表門 松花堂庭園へ行きましたが、松花堂と泉坊書院を含む内園は、大阪北部地震の被害とその復旧工事のために立入禁止になっていて、“東車塚古墳”と“山代之木筒木真若王命御墓参考地”の石標は見られないので、旧表門前へまわりました “その参”でふるさと学習館へ行って分かったことですが、この表門は昔の八幡小学校の校門だったようで、そう言われれば思い出しました
車塚古墳 昭和三年秋建之 松花堂園内の東車塚古墳と対の古墳だそうです 東高野街道に面した旧表門前の左側にあります
東車塚跡 女郎花蹟 元八幡山泉坊書院 松花堂茶席 月の岡邸 昭和二年建之 旧表門前の右側にあります
正平七年役 神器奉安所 岡の稲荷社 右 高野街道 峠十五丁 津田二里 野崎四里 柏原六里 従是高野山至ル 左 奈良街道 美の山十丁 松井廿 大住一里 薪一休寺 文学博士西田直二郎書 昭和二年七月建之 河内を縦断する東高野街道の起点で、後村上天皇が、北朝足利方に攻められて落ちのびる際、三種の神器を隠したのを狐が守護していたため 後に稲荷社が建てられたといわれています ここまで何度も“正平の役”と言うのが出てきましたが、正平の役とは正平七年(1352年)に南朝が京都を奪還しようとして起こりました 正平の役は八幡合戦とも呼ばれており、南朝の軍と足利義詮の軍が戦いました この頃、足利尊氏と弟の直義が争っており、南朝は混乱に乗じて、京都還幸を試みたのです *ネット情報から
小野篁公作 十王像 閻魔堂 昭和三年春建之 月夜田交差点から南側 小野篁公は小野小町の祖父だそうです 吉井勇が住んだ宝青庵の前にありました 近くに“紅葉寺の碑”があるはずなんですが 見つけられませんでした
この辺りに“圓福寺の碑”があるはずだったんですが、walkinさんからの情報ではトラックがぶつかって破損して、多分ふるさと学習館に移されたそうで、次回歩く時に確認しようと思っています 圓福寺へ向かったんですが、道を間違えてジグザグして元の道へ戻りました
涙川舊跡 向て左 寶青庵一丁半 向て右 圓福寺三丁半 昭和三年建之 円福寺道と幣原道交差点の角 左右が逆で、道の反対側にあったようです
山手幹線を潜って、右側は圓福寺の境内です
圓福寺の山門 普段でも静かなんですが6月1日から7日まで“無言の行”の最中で、静か過ぎです 4月と10月の20日には萬人講が行われます
不許葷酒入山門 修行の妨げになるので、臭いがきつく勢力が着きすぎるものやお酒を、お寺に持ち込んではいけないという意味です (注)これは三宅安兵衛碑ではありません
水月菴 是ヨリ二丁 昭和二年十月建之 圓福寺の山門を左へすぐ 皇女和宮ゆかりの尼寺と伝えられています
筒井順慶陣所跡 右 西二子塚三丁 左 圓福寺三丁 昭和二年十月建之 枚方バイパスの洞ヶ峠交差点の南東角にあり
実はこんな看板の間にあるんです
東二子塚跡 右 小塚五丁 左 西二子塚一丁 昭和二年九月建之 筒井順慶陣所跡のようです 東二子塚史跡公園の中にありました
美濃山横穴跡 右 古寺 三丁 昭和二年九月建之 美濃山の竹林の中 美濃山の在所から耕運機のタイヤ跡をたどって行った細道の先の竹林の中で見つけました
王塚古墳 右 小塚二丁 左 宇智王子邸跡八丁 濱田青陵書 昭和二年十月建之 美濃山大塚の宝寿院の境内 門扉が施錠されていて入れません “宇智王子邸跡”とは、次回歩く内里にあります
この辺りに“古寺古跡の碑”があるはずなんですが 八幡京田辺ICへの道ができて何処かへ移設したのか、見つけられませんでした
山手幹線から八幡京田辺ICへの道をパノラマ “古寺古跡の碑”は多分、左の竹林の中の何処かにあるのかもしれません 今回はここでエンドにしました