活動データ
タイム
09:46
距離
15.7km
のぼり
1737m
くだり
1738m
活動詳細
すべて見る2022年11月16日㈬ 《千足から千足峠へ》 四方津駅から桂川沿いの道を東に進むと、前方には上野原の栃穴御前山と鶴島御前山の顕著な隆起が眩しい朝陽の逆光に黒く蟠っています。 桂川に架かる橋を渡ると千足地区に向かう柿の木林道で、その入口の擁壁の上に馬頭観音が鎮座していました。一つは江戸時代末期の文久二年(1862年)のもので、観音様も馬頭も柔和な微笑みを湛えた印象深い刻像でした。 千足沢沿いの林道を登っていくと千足の集落で、幾つもの民家がありますがどの家もひっそりと静まり返って人影はありません。 最奥の民家を見て山道に入ると湿っぽい人工林帯が続いていました。 造林看板には小字の地名が「トヅラ岳」と記されており、現在の登山地図には見当たりませんが北麓では付近の山をトヅラ岳と呼んでいたのでしょうか。 人工林を縫う径路は明瞭ですが、とても古の峠路とは思えないような急登で驚きました。 登りつくのは大丸と高柄山を結ぶ稜線上で、南の旧 秋山村金山地区と千足を結んでいたので「千足峠」の名称がありますが鞍部ではなく、標識が無ければ峠とは気づかない地点です。 《高柄山の祠と山名由来》 東に稜線を辿ると高柄山(733)の山頂です。北には桂川北岸の河岸段丘を前景とする低山が壁のように列なっています。 高柄山は手軽なハイキングコースとして人気の山ですが、この日は私が一番乗りのようで誰も居らず、晩秋の朝の清々しい風にそよそよと頬を撫でられて爽快な気分でした。 山頂の一角には朱塗りが鮮やかな小社が北向きに鎮座しています。昭和39年の【新ハイキング】誌には「朽ちかけた祠」、昭和51年の同誌には「新旧二つの祠」、平成に入ってからは石祠は無くなったものの台座の石はそのままで、寛政六年(1794年)の年月日と北東の麓にある鶴島地区の願主6人の名前が彫られていたとの記述がありました。社は一新されており、資料によれば養蚕の神が祀られているとの事です。 高柄山の読みは一般的には「タカツカ」で地元では「タカヅカ」、【秋山村史】には「古くは高塚山と称し、金採掘の犠牲者の墓が存在したとの地名伝承がある」と記されており、山中及び南麓の金山金山遺跡に纏わる山名の可能性があります。 ふと女性の声がした気がして後続のハイカーたちかと耳を澄ませましたが、気のせいだったようです。 紅葉黄葉が最盛期を迎えた雑木林の尾根路を東に辿ると「ホウジ丸」のぽっこりとした頭が前方に見え、僅かな登り返しで木のベンチがある山頂です。南には道志山塊の主脈の向こうに丹沢山塊の山波が逆光に際立ち、思いの外 素晴らしい好展望地でした。 ここからはロープが付けられた急斜面を南寄りに下りますが落ち葉でズルズルと滑り、登りには使いたくないルートです。 旧秋山村の金山地区に下りつき、人影の無い静かな人家が点在する道を西へ遡っていくと寂れた小屋のような佇まいの「かなやま金山資料館」がありました。 《金山金山の歴史と伝説》 以下は2019年12月のmixi日記からの転載です↓ 〈大地峠から南南東に分岐するなだらかな尾根上にある「金山峠」と、大地峠から東北東に分岐する稜線上の「高柄(たかづか・たかつか)山」に挟まれた金山川流域の谷には「金山(かなやま)金山遺跡」があり、平成10年と13年に行われた山梨県による発掘調査の結果、金鉱跡や遺構が数多く発見された。 一帯では金を採掘したとみられる露天掘りの跡が発見されており、鉱山史研究においては中世の採掘技術は露天掘りから始まったとされている事から、甲斐武田氏が経営した黒川金山や牛王院平金山、湯之奥金山などと同様に、金山金山の歴史は戦国時代に遡る初期の金山経営に属する可能性があると判定された。 金山金山を開発したのは南朝の遺臣 星野正実とされている。星野氏の歴史と伝承を記した【南鶴神社誌】の「御由緒」及び【金山神社縁起】には「永享四年(※1433年)社殿造営 金山大神を奉祀する。応永年間(※1394年~1427年)金鉱を発見 採掘を始め、地名を金山とする。(※その後)金鉱は信玄の支配となり、滅亡後は徳川家 事業を継承せりと云う。」とある。 遺跡の調査報告書(2002年)では「中世の記述に関してはそれを裏付ける他の資料が無い為に伝承の域を出ない」としながらも、遺跡や神社から発見された江戸時代の遺構や石造物については【南鶴神社誌】の記述との一致点が多くその信憑性が高い故に、中世の記述についても「単なる伝承とは言い切れない部分もある」と結論付けている。 また、遺跡で発見された江戸時代の採掘従事者の慰霊供養塔に金の精錬に使う金磨り臼が用いられている点に注目してその資料的価値を高く評価し、「高度な技術を有する金山衆としての明確な意識と強固な紐帯の存在」を指摘している。 大地峠から高柄山に向かって東北東に稜線伝いに進み、716Pを越えて僅かに下った尾根には「つつみの平」と呼ばれる金山金山遺跡の遺構があり、前述の「露天掘り」の跡はここで発見された。 金鉱跡はほとんどが金山川の谷筋に集中しているが、ここだけは稜線に近い尾根上の一角で飛び地のようになっている。 すぐ近くに北の千足集落に越える小さな峠があるが急傾斜の沢沿いの為に中世の峠路としては不適で、当時の峠路に関する定説に従えば、尾根伝いで桂川沿いに出るまで見通しの良い緩やかな坂を下るだけで済む「大地峠」が物資の運搬や往来に使われた事は間違いないと私には思える。特に、馬が通行できる路は大地峠に限られていただろう。 金山金山については武田氏による直接経営の証拠となる史料が無く、金鉱の規模から見て独立経営ではないかとする説もあるが、ここは武田氏の勢力圏が及ぶ範囲であり、武田が経営した他の著名な金山と比較して規模が小さいとはいえ完全に自主独立での経営とは考えにくい。〉 引用終わり 今日は、遺跡発掘調査の契機となった金山川の堰堤の奥から、千足峠への旧道を辿るのが目的です。金山大社(金山神社)を経て金山川の涸れた川原を横切り、赤テープに従って狭い谷筋に沿う細い径路を辿ります。かつては採掘に従事した人夫が盛んに通行したと考えられますが、今は自然に還りつつある静かな谷でした。やがて谷を離れて右岸の斜面を登り、安定した尾根に乗った先の緩傾斜地が「つつみの平」で、金山金山遺跡の時代考証の核心を成す露天掘り跡が発見された場所です。 西に大丸(山)、北東に高柄山が目睫の間で遠望は利かず、戦国時代末期なのか江戸時代初期なのかは判然としませんが、星野氏らによって盛んに採掘がおこなわれた山峡の地に立って感慨も一入です。 この後は千足峠に出て西へ稜線を辿り、林道を経て大地峠道に合流し、何度となく歩いた峠路を北麓の川合へと下ります。 金山金山を訪れた武田信玄が休憩したとの伝説がある「御座敷の松」、要所に建立された江戸時代の幾つもの馬頭観音、そして倉岳山や北都留、さらに遥かに大菩薩の山々の夕景を見やりながら下りつつ、やはり金山金山に出入りした(であろう)武田の金山衆はこの峠路を辿ったに違いない、との確信が深まるのでした。 mixi 「丹沢を歩く会」コミュニティ 副管理人 S∞MЯK モリカワ ショウゴ (現 事務局長) YAMAP 山行記録アプリ アカウント https://yamap.com/users/446474 Twitterアカウント 主に山関連 https://twitter.com/moyanotabikai?s=09 (靄の旅会は「霧の旅会」へのオマージュです。)
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