”Q”「市街地西」箕面駅→巡礼道→徳尾巡礼地蔵→新稲愛宕社→一本杉→阿比太神社→止々呂淵公園→瀬川神社→瀬川北公園→弁慶鏡水→待兼山→瀬川南公園→市立霊園→坪→本陣跡→紅葉橋→半町道→桜の地蔵→箕面街道→箕面駅

2017.08.01(火) 日帰り

チェックポイント

DAY 1
合計時間
4 時間 16
休憩時間
35
距離
12.4 km
のぼり / くだり
168 / 169 m
1 45

活動詳細

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箕面市街地西地区は寺社や史跡が多く定番のコースであるが今回のポイントは ・阪大構内の待兼山 ・瀬川南の市立霊園からの北摂の眺望 ・紅葉橋の景観 ・昔からの参詣道半町道~西小路道~箕面街道  おまけとして止々呂淵公園の淵の暗渠が箕面川に合流する部分が昔”瀧門の滝”と云われていた禊ぎの場所では無いかという発見があった。 しかし猛暑の町歩き徳にアスファルト道は辛い。消費カロリーは山歩きに比べ少ないが、木陰の山歩きの方がアップダウンがあっても楽である。

六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 箕面駅出発
箕面駅出発
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 牧の荘の道標
大きい石は牧の荘の標石と云われ、牧の荘(平尾・西小路・牧落・桜の4ケ村)を所領した旗本青木氏の代官寺井新十郎が、その位置を示すために建てたもの。小さい石は「すぐ中山」と記した道標である。これらは元は大井堰水路の中の分水石に転用されていたものである。
牧の荘の道標 大きい石は牧の荘の標石と云われ、牧の荘(平尾・西小路・牧落・桜の4ケ村)を所領した旗本青木氏の代官寺井新十郎が、その位置を示すために建てたもの。小さい石は「すぐ中山」と記した道標である。これらは元は大井堰水路の中の分水石に転用されていたものである。
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 巡礼道を西へ(勝尾寺→中山寺の道)
巡礼道を西へ(勝尾寺→中山寺の道)
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 この高低差は箕面駅がラケット型駅舎であった時の遺物
元の軌道に戻す為嵩上げしたもの
この高低差は箕面駅がラケット型駅舎であった時の遺物 元の軌道に戻す為嵩上げしたもの
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 巡礼道が箕面線の下のトンネルを潜る
巡礼道が箕面線の下のトンネルを潜る
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 巡礼道を西へ
巡礼道を西へ
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 高橋邸
インドネシアのジャワ島を拠点とする貿易商社・有馬洋行を経営していた実業家・有馬彦吉の別邸として、大正8年(1919)頃の創建と考えられている。
昭和14年に高橋家の所有となり、現在も同家によって維持されている。
高橋邸 インドネシアのジャワ島を拠点とする貿易商社・有馬洋行を経営していた実業家・有馬彦吉の別邸として、大正8年(1919)頃の創建と考えられている。 昭和14年に高橋家の所有となり、現在も同家によって維持されている。
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 箕面観光ホテル
ホテルの下の日本屋根が松風閣
箕面観光ホテル ホテルの下の日本屋根が松風閣
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 明治の中頃、北浜銀行頭取の岩下清周ら7人によって、関西の財界人クラブとして建てられたもので、桃山風の総数寄屋普請で三階建て。土台は清水舞台作りの木組。3つの茶室は全国の銘木を集めて贅を尽くしたものである。
この松風閣には、明治時代に総理大臣に3回もなった桂太郎が、愛妾「お鯉」を伴ってしばしば泊まったので、人々は松風閣のことを桂公爵別邸と呼んだと云う。
明治の中頃、北浜銀行頭取の岩下清周ら7人によって、関西の財界人クラブとして建てられたもので、桃山風の総数寄屋普請で三階建て。土台は清水舞台作りの木組。3つの茶室は全国の銘木を集めて贅を尽くしたものである。 この松風閣には、明治時代に総理大臣に3回もなった桂太郎が、愛妾「お鯉」を伴ってしばしば泊まったので、人々は松風閣のことを桂公爵別邸と呼んだと云う。
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 高橋邸
外壁は、元々は特殊な貝殻の粉末を塗って仕上げられていたが、現在は入手が困難であることから似たような色のペンキで仕上げているそうだ。
屋根もやはり現在では維持が困難と思われる、天然スレートで葺かれており、建物の維持にかける所有者の熱意が窺える。
高橋邸 外壁は、元々は特殊な貝殻の粉末を塗って仕上げられていたが、現在は入手が困難であることから似たような色のペンキで仕上げているそうだ。 屋根もやはり現在では維持が困難と思われる、天然スレートで葺かれており、建物の維持にかける所有者の熱意が窺える。
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 正法寺の西側の川沿いの小径は、蛍の小径と呼ばれ、シーズンには蛍の乱舞が見られる。
正保4年(1647)に大阪の中津に創建された臨済宗の寺で、昭和42年に箕面の現在地に移転してきた。
境内のエノキやケヤキの樹叢は保護樹林、アキニレは保護樹木になっている。
正法寺の西側の川沿いの小径は、蛍の小径と呼ばれ、シーズンには蛍の乱舞が見られる。 正保4年(1647)に大阪の中津に創建された臨済宗の寺で、昭和42年に箕面の現在地に移転してきた。 境内のエノキやケヤキの樹叢は保護樹林、アキニレは保護樹木になっている。
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 徳尾の巡礼地蔵
石仏を納めた堂があり、その前に元禄9年(1696)に作られた地蔵がある。巡礼たちの安全を守る地蔵とされて、この名がある。横に歌碑がある。
徳尾の巡礼地蔵 石仏を納めた堂があり、その前に元禄9年(1696)に作られた地蔵がある。巡礼たちの安全を守る地蔵とされて、この名がある。横に歌碑がある。
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 お堂の中には沢山の石仏
お堂の中には沢山の石仏
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 山麓線を西へ
山麓線を西へ
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 巡礼道はここから左へ
巡礼道はここから左へ
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 新稲の愛宕社
愛宕社は防火の神、京都の愛宕山から護符を受けて祀っているもの。脇に消防車庫がある。以前は火の見櫓と散髪屋もあり、防火の4点セットが揃っていた。散髪屋は、昔は村人が共同で雇って散髪と火の見櫓の番をして貰っていたもの。
新稲の愛宕社 愛宕社は防火の神、京都の愛宕山から護符を受けて祀っているもの。脇に消防車庫がある。以前は火の見櫓と散髪屋もあり、防火の4点セットが揃っていた。散髪屋は、昔は村人が共同で雇って散髪と火の見櫓の番をして貰っていたもの。
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 箕面の各村には愛宕社があるが新稲の愛宕社が最も立派である。
真ん中の愛宕神の本持仏地蔵尊が本尊として安置され後には観音様の様な仏像も見える
箕面の各村には愛宕社があるが新稲の愛宕社が最も立派である。 真ん中の愛宕神の本持仏地蔵尊が本尊として安置され後には観音様の様な仏像も見える
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 愛宕大神の護符
愛宕大神の護符
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 道の反対側に、元禄4年(1691)に新稲村が建てた巡礼道の道標がある。
道の反対側に、元禄4年(1691)に新稲村が建てた巡礼道の道標がある。
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 右中山寺
右中山寺
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 新稲の一本杉と庚申塔
昔ここには大きな一本杉があり、新稲の人たちは、朝日が昇ると、その影が池田村まで届いたと自慢した。平成3年の突風で倒れて今は無い。
新稲の一本杉と庚申塔 昔ここには大きな一本杉があり、新稲の人たちは、朝日が昇ると、その影が池田村まで届いたと自慢した。平成3年の突風で倒れて今は無い。
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 この辺りに一本杉があった
この辺りに一本杉があった
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 その脇に、青面金剛と刻られた庚申塔が立っており、庚申待ちの習俗を伝えている。寛文7年(1677)の造立で、箕面では最も古い庚申塔である。
その脇に、青面金剛と刻られた庚申塔が立っており、庚申待ちの習俗を伝えている。寛文7年(1677)の造立で、箕面では最も古い庚申塔である。
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 南へ下る
南へ下る
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 振り返れば 箕面の山が見える道
振り返れば 箕面の山が見える道
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 虫籠窓(むしこまど)のある家
虫籠窓(むしこまど)のある家
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 清水医院を左折
清水医院を左折
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 阿比太公園
阿比太公園
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 阿比太神社
式内社。物部系の阿比太連が祖神を祀ったもの。本来の祭神はニギハヤヒノミコトと思われるが、中世に牛頭天王に変えられ、現在はスサノオノミコトになっている。明治40年代の神社統合により旧箕面村内の全ての神社がここに統合されたが、現在は半町、桜、新稲の氏神。
阿比太神社 式内社。物部系の阿比太連が祖神を祀ったもの。本来の祭神はニギハヤヒノミコトと思われるが、中世に牛頭天王に変えられ、現在はスサノオノミコトになっている。明治40年代の神社統合により旧箕面村内の全ての神社がここに統合されたが、現在は半町、桜、新稲の氏神。
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 神紋は木瓜紋 牛頭天王ゆかりの祇園信仰の印
神紋は木瓜紋 牛頭天王ゆかりの祇園信仰の印
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 止々呂渕公園(ととろぶち)
その名前の通り昔は淵で公園の端に水の流れがあった。今は暗渠になっているんだろう。
止々呂渕公園(ととろぶち) その名前の通り昔は淵で公園の端に水の流れがあった。今は暗渠になっているんだろう。
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 公園の南端から暗渠が水路として見えてくる
公園の南端から暗渠が水路として見えてくる
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 雨が降って水量が増えると流れが見えるのだろう
雨が降って水量が増えると流れが見えるのだろう
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 箕面川へ流れ込んでいる
箕面川へ流れ込んでいる
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 箕面川直前は道路下の暗渠
箕面川直前は道路下の暗渠
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 箕面川への出口は木々で見えない
箕面川への出口は木々で見えない
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 対岸から見る。 瀬川大橋と阿比太橋の間 やはり木々で出口は見えない。
昔のこの辺りに”瀧門の滝”という3m位の滝が有り、西国街道から参詣する人々が滝で身を清めたという伝承がある。木々が少なく、大雨の後に実際の滝を見てみたい。
対岸から見る。 瀬川大橋と阿比太橋の間 やはり木々で出口は見えない。 昔のこの辺りに”瀧門の滝”という3m位の滝が有り、西国街道から参詣する人々が滝で身を清めたという伝承がある。木々が少なく、大雨の後に実際の滝を見てみたい。
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 瀬川神社
瀬川神社
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 天児屋根命神社と云う。平安時代にこの辺りが摂関家藤原氏の垂水西牧の荘園であり、さらに奈良の春日神社の荘園になったことに由来する。
天児屋根命神社と云う。平安時代にこの辺りが摂関家藤原氏の垂水西牧の荘園であり、さらに奈良の春日神社の荘園になったことに由来する。
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 拝殿 入母屋造り
拝殿 入母屋造り
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 奥の本殿は春日造り 切妻妻入り 千木外削ぎ 鰹木2本
奥の本殿は春日造り 切妻妻入り 千木外削ぎ 鰹木2本
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 八幡宮
八幡宮
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 北摂のパワースポット 竜ケ井(たつがい)
ここから竜が昇天したと伝えられる。参詣した人々の願いを天に届けてくれるそうだ。
北摂のパワースポット 竜ケ井(たつがい) ここから竜が昇天したと伝えられる。参詣した人々の願いを天に届けてくれるそうだ。
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 天満宮 大阪天満宮から勧進
天満宮 大阪天満宮から勧進
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 神紋は藤原氏の”下がり藤”
神紋は藤原氏の”下がり藤”
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 神社の北側にある 瀬川北公園へ
神社の北側にある 瀬川北公園へ
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 遊具もある様だ
遊具もある様だ
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 東屋
東屋
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 瀬川宮橋から箕面川
今は護岸工事で川幅は狭くなっているが昔は瀬川の地は何度も箕面川の氾濫に遭い、地名が示す様に歩いてわたれる瀬となっていた地であり川原はもっと広かった。
瀬川宮橋から箕面川 今は護岸工事で川幅は狭くなっているが昔は瀬川の地は何度も箕面川の氾濫に遭い、地名が示す様に歩いてわたれる瀬となっていた地であり川原はもっと広かった。
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 南北朝時代に瀬川合戦と豊島河原合戦と二つの大きな戦があった。
瀬川合戦は元弘3年(1333年)3月に行われた赤松則村(円心)を総大将とする後醍醐天皇軍と鎌倉幕府六波羅探題軍との戦い。赤松の勝利の結果鎌倉幕府が滅亡した。
豊島河原合戦は建武3年(1336年)2月に行われた新田義貞と北畠顕家を総大将とする後醍醐天皇軍と足利尊氏を総大将とする反乱軍の戦い。
敗戦の尊氏は九州に逃走したが、早くも4月には反転攻勢5月22日湊川で新田、楠木と合戦勝利11月室町幕府を開く。
南北朝時代に瀬川合戦と豊島河原合戦と二つの大きな戦があった。 瀬川合戦は元弘3年(1333年)3月に行われた赤松則村(円心)を総大将とする後醍醐天皇軍と鎌倉幕府六波羅探題軍との戦い。赤松の勝利の結果鎌倉幕府が滅亡した。 豊島河原合戦は建武3年(1336年)2月に行われた新田義貞と北畠顕家を総大将とする後醍醐天皇軍と足利尊氏を総大将とする反乱軍の戦い。 敗戦の尊氏は九州に逃走したが、早くも4月には反転攻勢5月22日湊川で新田、楠木と合戦勝利11月室町幕府を開く。
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 弁慶の鏡水へ
弁慶の鏡水へ
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 ここに小さな池があり化粧井戸とも云った。寿永年間の平家追討の時、弁慶が自らの姿を水面に映して、戦いの吉凶を占ったとの伝えがある。
今は水は枯れて、僅かな窪地を残すだけである。
ここに小さな池があり化粧井戸とも云った。寿永年間の平家追討の時、弁慶が自らの姿を水面に映して、戦いの吉凶を占ったとの伝えがある。 今は水は枯れて、僅かな窪地を残すだけである。
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 更に南へ171号線の歩道橋を渡る
更に南へ171号線の歩道橋を渡る
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 暑いので阪急オアシスでしばし休憩
暑いので阪急オアシスでしばし休憩
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 店内は天国だ
店内は天国だ
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 南へ阪大への上り道をいく
南へ阪大への上り道をいく
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 50年以上前からある阪大弓道場
50年以上前からある阪大弓道場
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 弓道場の南側の細い道を西へ行く
弓道場の南側の細い道を西へ行く
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 待兼山を目指すがしかし行き止まり
待兼山を目指すがしかし行き止まり
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 戻って待兼山修学館の遊歩道から
戻って待兼山修学館の遊歩道から
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 少し登って一番高い場所へ
少し登って一番高い場所へ
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 三等三角点(名:瀬川) 76.9m
大阪の一等三角点では堺市の蘇鉄山、二等は大阪市の天保山とともに三等の待兼山は三低山の一つとして知られている。
三等三角点(名:瀬川) 76.9m 大阪の一等三角点では堺市の蘇鉄山、二等は大阪市の天保山とともに三等の待兼山は三低山の一つとして知られている。
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 待兼山 77m
待兼山は小高い丘として豊中キャンパスの象徴的な自然地形となっていて、「待兼山」は大阪大学の代名詞とされている
待兼山 77m 待兼山は小高い丘として豊中キャンパスの象徴的な自然地形となっていて、「待兼山」は大阪大学の代名詞とされている
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 摂津名所図絵
この待兼山は「待ちかねる」という掛詞につながるユニークさから、中世では多くの歌人たちが待兼山を歌枕とする和歌を詠んだ。
周防内侍(新古今集):夜をかさね待かね山の郭公 雲居のよそに一声ぞきく
後鳥羽院(夫木和歌抄):来ぬ人を待兼山のほとときす 傾く月のかけに啼くなり
摂津名所図絵 この待兼山は「待ちかねる」という掛詞につながるユニークさから、中世では多くの歌人たちが待兼山を歌枕とする和歌を詠んだ。 周防内侍(新古今集):夜をかさね待かね山の郭公 雲居のよそに一声ぞきく 後鳥羽院(夫木和歌抄):来ぬ人を待兼山のほとときす 傾く月のかけに啼くなり
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 西へ進むと 大正天皇の行幸を記念した石碑
西へ進むと 大正天皇の行幸を記念した石碑
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 こちらは大正時代の東宮(昭和天皇)行幸の碑
こちらは大正時代の東宮(昭和天皇)行幸の碑
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 箕面市と豊中市の境界を東へ
箕面市と豊中市の境界を東へ
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 瀬川南公園  ここで昼食
瀬川南公園  ここで昼食
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 箕面市立霊園の南端を東へ
箕面市立霊園の南端を東へ
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 霊園内からの眺望は抜群 墓地の宣伝文句
霊園内からの眺望は抜群 墓地の宣伝文句
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 墓地内を西へ
墓地内を西へ
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 地蔵奥村七良兵衛
説明が欲しい。
地蔵奥村七良兵衛 説明が欲しい。
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 坪
箕面川の伏流水 14カ所あったと云われている湧き水の一つ
坪 箕面川の伏流水 14カ所あったと云われている湧き水の一つ
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 瀬川・半町立会駅所と本陣跡
瀬川は中世から宿場として栄えていたが、江戸時代に瀬川村の庄屋山脇家が領主から本陣経営を申し付けられた。
瀬川・半町立会駅所と本陣跡 瀬川は中世から宿場として栄えていたが、江戸時代に瀬川村の庄屋山脇家が領主から本陣経営を申し付けられた。
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 やがて瀬川村だけでは賄いきれなくなり天和年間(1681~1684)
半町村の梶山家も本陣経営に参加しました。
瀬川、半町立会本陣として栄えたが明治13年廃止され本陣も消滅した。
やがて瀬川村だけでは賄いきれなくなり天和年間(1681~1684) 半町村の梶山家も本陣経営に参加しました。 瀬川、半町立会本陣として栄えたが明治13年廃止され本陣も消滅した。
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 箕面自動車教習所は半町本陣の梶山家の経営
箕面自動車教習所は半町本陣の梶山家の経営
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 紅葉橋通りを北へ
紅葉橋通りを北へ
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 道標の様であるが読めない
道標の様であるが読めない
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 紅葉橋
大正の末桜ヶ丘住宅地開発と共に生まれた鉄橋。鉄筋コンクリートの上を「大谷(おおや)野面石(のづらいし」としたモダンな橋である
紅葉橋 大正の末桜ヶ丘住宅地開発と共に生まれた鉄橋。鉄筋コンクリートの上を「大谷(おおや)野面石(のづらいし」としたモダンな橋である
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 橋からの景色も木々が美しい
橋からの景色も木々が美しい
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 住野家 オートバックス創業者の大邸宅
住野家 オートバックス創業者の大邸宅
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 半町道を北東へ
半町道を北東へ
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 南小学校の北側をいく
南小学校の北側をいく
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 桜の地蔵
桜の地蔵
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 中井家 この辺に高札があったと思われる。
中井家 この辺に高札があったと思われる。
六個山・鉢伏山・明ヶ田尾山・五月山 半町道を行く参詣者にお茶の接待をしていたと云う。
半町道から西小路道へ経て箕面街道を北へ 箕面駅に帰着する。
半町道を行く参詣者にお茶の接待をしていたと云う。 半町道から西小路道へ経て箕面街道を北へ 箕面駅に帰着する。

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