136:46
488.1 km
5427 m
冬季北海道徒歩横断
藻岩山 (北海道)
2025.03.01(土) 15 DAYS
小樽から網走まで、冬の北海道を徒歩で横断した記録です! 今回のロングトレイルに向かうにあたりいくつかルールを設定しました。 ・当たり前ですが移動は基本徒歩で行うこと。 ・交通量の多い幹線道路で歩道のない区間など は交通の妨げになる可溶性がある他、事故の 可能性がかなり高まるので、公共交通機関 を利用して迂回すること。 ・冬の北海道という厳しすぎる気象条件のなか のトレイルなので、限界を迎えた場合は誰か の迷惑にならないためにも交通機関等を利用 したり、宿に泊まるなりの対処をすること。 ・北海道は冬場キャンプ場が閉鎖され、テント を張る場所がないので、公園など周辺住民や 交番に挨拶をすれば泊まれるかもだが、 本当に家が無いわけではないので、周辺住民の 事を考えて宿は基本的に民宿やゲストハウス など料金のリーズナブルな宿に宿泊すること。 ・交通機関利用中など徒歩以外の区間では YAMAPのログは一時停止にすること。 このためログを終了した最後に表示される 「おつかれ山」画面での距離や累積標高は 歩いた区間のみの距離なのでスクショを して残しておくこと。 以上のルールのもと、北海道横断に挑むことにしました。 【以下は実際の徒歩区間の行動時間等です】 行動日数:14泊15日 行動時間:117時間30分 歩行距離:311.2km 累積標高:10552m ↑ 🚶♂️歩行区間🚶♂️ 1日目:南34条西11バス停〜藻岩山〜 もいわ山ロープウェイ中腹駅 9km 2日目:小樽〜拓北駅 42.5km 3日目:北海道医療大学駅〜月形温泉 20.1km 4日目:月形温泉〜美唄駅 23.6km 5日目:江部乙〜深川 22km 6日目:納内駅〜神居古潭 / 旭川散策 17.2km 7日目:旭川〜東川〜東神楽 24.2km 8日目:東神楽〜東川〜東11号バス停 11.6km 9日目:停滞(旭岳温泉散策) 4.5km 10日目:旭岳温泉〜層雲峡 21.3km 11日目:層雲峡・留辺蘂散策 10.2km 12日目:留辺蘂〜北見:27.3km 13日目:北見〜美幌 / 女満別〜呼人 38.5km 14日目:呼人〜天都山〜網走 27.4km 15日目:網走周辺散策 11.8km 実際の歩行距離合計:311.2km 🚆交通機関利用区間🚆 1日目:札幌駅〜小樽駅(JR) 750円 2日目:拓北駅〜当別駅(JR) 340円 3日目:当別駅〜北海道医療大学駅(JR) 200円 4日目:美唄駅〜江部乙駅(JR) 750円 5日目:なし 6日目:深川駅〜納内駅(JR) 290円 神居古潭〜旭川駅前(道北バス) 380円 7日目:なし 8日目:東11号〜旭岳温泉入口 (旭川電気軌道) 840円 9日目:なし 10日目:なし 11日目:層雲峡〜留辺蘂駅前 (道北バス) 2500円 12日目:なし 13日目:美幌駅〜女満別駅(JR) 340円 14日目:なし 15日目:網走駅⇄北浜駅 (JR) 680円 -------------------------------------------- 自分のなかでも最悪の年だった2024年。新卒より勤めた会社を辞めて上京。心機一転アウトドア関係の小さいメーカーに転職しました。しかし勤めた会社がかなりやばい企業で病んでしまい、ドクターストップで退職。急に無職になってしまいました。 そのうえ、色々な事情が重なってしまったことで多額の借金を背負ってしまったのです。 改めて新卒より勤めた会社が素晴らしかったこと、恵まれた環境にいたこと、いい仲間に囲まれていたことを実感しました。 アウトドアメーカーを辞めてから最初は動けなかったのですが、次第に自分の趣味である登山すら辞めてしまったらアイデンティティを失ってしまうような気がしてきて、高尾山や丹沢など家の近くの山を中心に歩いていました。でも山を歩くと辞めたメーカーを身に付けてる人がいる。その物に罪はないのだけれどモヤモヤしてしまいます。「誰もいないような場所を歩きたい。秘境とか、厳しい場所とか。」人が近づかない厳しい場所に行ってしまえばそのメーカーのロゴを見ることも少なくなる。そんな風に思っていました。 年始から始めていた就職活動。無事に春からしっかりとした会社への就職も決まり、抱えていた借金の全額返済の目処も立ちました。 就職まで1ヶ月時間ができました。金銭的な余裕はないけれど、この時間を使って自分の趣味である登山や写真を絡めてなにかできないだろうか?色々考えた結果ロングトレイルをやってみることに。ただ時期は冬。ロングトレイルって荷物を最小限にして3シーズン中にやるもので、装備が増え流行りのULが不可能になる冬はロングトレイルの季節ではないのです。 であれば、一層のことULとは真逆のことをやってみるか。冬の厳しい土地でロングトレイルって新しいかも。日本で冬の環境が調子厳しい場所といえば思い浮かぶのは北海道でした。 しかも冬の北海道なら辞めたメーカーを身につけてる人も少ないかもしれない。 もともと北海道という場所が僕は大好きで、好きがこうじて学生時代には旭川のゲストハウスでヘルパーをやっていたほどでした。 北海道のロングトレイルは開通したばかりの道東トレイルがあるけれど、まだそこまでトレイルの文化も浸透していない。一層のこと新しいルートを自分でやってみようと思いました。 僕は地理や歴史が好きで、北海道だとアイヌや屯田兵の歴史がすごく面白い。であればその歴史を辿るルートをとってみよう。 屯田兵が入植したかつての北海道の玄関口小樽から網走監獄の囚人によって開削され繋がったオホーツクの玄関口網走まで。これを結んで冬の北海道の原野を歩けば当時の屯田兵の目線になれるかもそう思いました。 宿泊は最初テント泊を考えたのですが、冬の北海道はキャンプ場もほとんど閉鎖されていてテントを張れそうな場所が少ないです。周辺の住民や交番に挨拶をすれば公園とかに泊まれるかもしれないですが、僕は社会人で学生でもない。当時の学生ならやってたかもしれませんが、いい大人がそ自分のやりたいことをやるために周辺の人に迷惑かけるのは如何なものかと思いテント泊は諦めました。 ゲストハウスやホステル、民宿などに泊まりながら行くことにします。 ルートも決まりいよいよ出発です。 危険な箇所は交通機関を利用することを良しとして冬の北海道を横断します。 【1日目】 羽田から新千歳空港に到着し、急いで札幌に向かいました。というのも僕は夜景の名所である藻岩山にどうしても登りたくて、過去2回トライしてるものの毎回悪天候でガスってしまい山頂からの夜景が見えないということで断念していました。札幌駅からは路線バスに乗り継ぎ真駒内の近くのバス停から歩き始めます。夕方からスタートして藻岩山スキー場の脇を登っていくルートです。アイゼンを身につけなくても問題なく歩けました。冬の北海道を歩くにあたり3シーズン用のGORE-TEXミドルカットのシューズにするか、厳冬期用の雪山ハイカットシューズにするか悩んだのですが、今回のルートの90%が道路を歩くことになるので歩きやすさを重視して3シーズン用のシューズを履いていました。この日の気温がかなり暖かかったこととあり藻岩山でも3シーズン用で全く問題ありませんでした。 山頂に着く頃にはちょうど辺りが暗くなり、夜景が一望でした。北海道に多いオレンジ色の灯りが美しく、僕がこれまで見た夜景の中でもトップクラスの美しさでした。帰りは完全なナイトハイクになるので大人しくロープウェイを利用します。下山後夕食を食べJRで小樽に向かいました。 【2日目】 この日からいよいよロングトレイルが始まります。小樽は港町として入植者の玄関口になっていた街で、まさしくスタート地点に相応しい場所です。かつて国鉄の手宮線が引かれたこともあり、北海道の商業の中心地として栄えました。漁業も盛んでニシン漁によって栄えた歴史もあります。北のウォール街と呼ばれ、銀行の支店が多数置かれた金融都市でもあり、いまもその銀行建築が沢山残っています。 北海道では最初冷涼な土地柄稲作に不向きで小麦栽培がメインでしたが、港があるおかげで本州からの米が手に入る小樽では米を使ったお菓子などがよく食べられるようになりました。 いまでも餅屋があったりするそうです。 小樽運河を眺めながらここからひたすら東に向かって歩いていきます。途中神居古潭と名付けられた海と山が狭まっている場所を通りやがて石狩平野の始まり銭函にでます。 銭函あたりから風が急に強まり、海岸に出てみると立っていられないほどの爆風に。そもそも海岸まで出るのも雪がかかれてないのでラッセルでした。 銭函から先は札幌市、石狩市とひたすらまっすぐな国道を歩きます。ここら辺も吹き曝しでとにかく風が強く歩道には膝下まで埋まるような吹き溜まりも現れます。やがて日が沈み気温も下がると日光で溶けた雪の水分がツルツルに氷かなり危険な状態に。この日の目的地は当別町でまだ距離はありました。 危険な箇所は迂回OKのルールなのでJR札沼線の拓北駅から当別駅まで鉄道に乗ることにしました。この日学んだことは、夜間行動は凍結と低音に晒されて危険なうえ、歩くことがあまりない道民は冬の夜間に人が歩いてるとは思ってもいないので、交通事故的な観点でも危険だということでした。また冬の北海道で1日の歩行距離は20km前半が限界だということでした。路面もびちゃびちゃで途中休憩できるような場所がまともにないので明日からの計画も見直しになります。 2日目の歩行距離は42.5km。 小樽市から当別町まで移動しました。 【3日目】 この日は当別町から月形町まで歩きます。最初にJRで一駅移動しました。スタート地点は北海道医療大学駅。スタート時はかなり天気が良く気持ちがいいです。国道沿いもしばらく歩くと歩道がなくなりました。本来迂回すべき場所なのですが、残念ながらJRも何年か前に赤字で廃線になった場所で公共交通機関がほぼありませんでした。バスがたまにあるものの本数も少ないのでそのまま車に気をつけて歩きます。 途中で一台の車に話しかけられました。この方は昨日も見かけたとのことで応援してます!と励ましてくれました。ありがたい🙇♂️ 途中から再び歩道が現れました。しかし天気は雪に変わり、風も強く地吹雪が起こります。廃線になった駅舎跡や郵便局の軒下で休みながら進みます。 しばらく進むと民家がぼちぼち現れ始めて月形町に到着しました。無事にこの日の目的地に到着です。この月形はかつて樺戸集治監という監獄が置かれて、石狩川を上り囚人たちが運ばれてきた場所でした。今でも月形刑務所があり更生の街という別名があります。 3日目の歩行距離は20.1km。 当別町から月形町への移動でした。 【4日目】 4日目は月形町から石狩平野を横断して美唄市に向かいます。昨日の雪は夜間に降り積もり歩道も結構消失していました。 この辺りは美唄原野と呼ばれ、かつて石狩川が氾濫を繰り返して出来た泥炭湿原地帯らしく開拓により今のような農耕地になったのだそう。途中その名残である宮島沼という沼地がありました。冬はただの雪原です。環境省管理しているビジターセンターもあり、鳥類の貴重な生息地であることが学べます。 美唄原野は国道から離れたこともあり喧騒も少なく、月形から離れるにつれて雪も減っていき乾燥した歩道が現れました。かなり歩きやすい道でした。 美唄の市街に到着したので、宮島沼のビジターセンターに置いてあった名刺で知った日用雑貨のお店「Tape」さんに寄ります。ここで遅めのお昼ご飯をいただきました。美唄の野菜を使ったサラダとホットサンド。暖かくて沁みます。かなり気さくなオーナーさんで色々とお話が出来ました。また行きたいお店です。 美唄の中心地にはコア美唄という商業施設があり、その中にmedoki storeさんというまちおこしの方がやっているセレクトショップがありました。美唄にはこんな素敵なお店が複数あってかなり魅力的な街でした。 美唄駅からはこの日の目的地である江部乙までJRを使います。 歩行距離は23.6km。 月形町から滝川市への移動でした。 【5日目】 この日は滝川の江部乙から深川まで移動します。ひたすらにまっすぐな道路です。 途中美術館やストーンサークルなどの遺跡があるのですが、残念ながら冬季閉館や雪で埋まっていてみることは出来ませんでした。 途中お腹が空いたのでロードサイドにあるラーメン屋に立ち寄りました。ふと寄ったラーメン屋でしたが、味噌ラーメンが信じられないほど美味しかったです。結構過去食べたラーメンでトップクラスかもしれません。 深川は小麦栽培がメインの北海道で稲作が進められた地域で、いまは道内有数のお米の産地になっています。また、日本三大都市圏外で唯一の都市銀行だった拓殖銀行の深川支店が中心部にあり、銀行建築が残っていました。拓殖銀行は戦前まで普通銀行ではなくて、特殊銀行として農工銀行の役割が強かったらしく、農地開拓への融資がメインの銀行でした。 この日の移動距離は22km。 滝川市から深川市への移動でした。 【6日目】 6日目は深川駅から一駅先の納内駅までJRを使いました。納内駅から神居古潭を目指して歩きます。深川から旭川市に入ります。神居古潭は石狩川の両端に断崖絶壁が迫る交通の難所であり、むかしアイヌがここを通過する際は神に祈りを捧げたと言われている場所です。名前の通り神々の集落を意味する神居古潭(カムイコタン)と呼ばれていました。 ここに着くと川には白鳥が泳いでおり、上空には見たことのない数のオオワシの群れに遭遇しました。ここまで今回の北海道旅ではあまり見ていなかった動物をここに来て見ることができました。 前日のラーメン屋で聞いた話によると、神居古潭から先旭川市の中心までは国道沿いの歩道がなく、交通量もかなり多いとのことで危ないそうです。なので大人しく旭川駅までバスに乗りました。 旭川は北海道第2位の都市です。いまの旭川がここまで大きく発展したのは陸軍第7師団が旭川に敷かれて、日露戦争の重要な拠点になったことが大きく影響しています。また、昔からこの地域には上川アイヌが暮らしていました。サケを主食にする彼らにとって、サケが遡上する忠別川と石狩川の二つの川が合流する地点である旭川は暮らす場所としてこの上ない環境だったそうです。 旭川ではそんな歴史を学ぶため、市の博物館に行きました。また、シンボルである常盤ロータリーや買物公園通りや市街とかつての駐屯地をつなぐ重要な橋である旭橋を見に行きました。 この旅において旭川に到着することは大きな意味があります。今回の旅のテーマは開拓の歴史を見ていくものですが、屯田兵による開拓は旭川が終着なのです。ここから先、道東方面へ進むには山が険しく屯田兵の開拓は不可能でした。そこで使われたのが網走監獄の囚人たちでした。ここから先は囚人たちの開拓の歴史を見ていきます。 この日の歩行距離は17.2km。 深川市から旭川市への移動でした。 【7日目】 北海道に入ってからちょうど1週間が経ちました。この日初めてまともに晴れました。 旭川から東川町を経由して東神楽町への移動です。東川は最近移住者も増える写真の街として有名です。また、家具の工房がたくさん置かれている家具の聖地でもあります。陸軍の第7師団の影響で鉄道の客車木工場が置かれたことで、旭川は北海道内唯一の重要木工集団地区に選ばれました。そこで培われた木工技術は大雪山から切り下ろされる木々を使った旭川家具に発展しました。万年雪の影響で木々を乾燥させることが難しかった大雪山の木々も乾燥機の普及により、扱いやすくなり生産環境が整いました。いまはその機能性の高さと優れたデザイン性から人気となり、日本5大家具の一角になりました。 途中アール工房さんという旭川家具のアトリエに寄り、小さなキーホルダーを購入しました。 東川はおしゃれなカフェやパン屋さんも多く歩いていて楽しい街です。早めに到着をして街を散策しました。 この日の歩行距離は24.2km。 旭川から東川を経由して東神楽町までの移動でした。 【8日目】 8日目は東神楽から東川町を経由して旭岳温泉を目指します。東川の中心部にはアウトドアのお店が3ヶ所あります。Transitさん、YamaTuneさん、SALTさんです。今回は3店舗全てに寄ることが出来ました。Yama Tuneさんではメリノウールの靴下を購入しました。この先の旅で使用して行きたいと思います。 SALTさんは雰囲気が素敵なお店で昔から行きたかった場所でした。店員さんともお話が弾み、温かいお茶もいただきました。ありがたい🙇♂️ お店を後にしてさらに歩みを進めます。東川町の外れには大雪湧水公園という公園があります。ここは大雪山に降り積もった雪によって生まれる湧水を利用する施設だそうです。 豊富な水はこの上にある忠別湖に一度蓄えられて、ここ大雪湧水公園に引用されます。雪解けの水はかなり冷たいので温度調整がされたのちに田畑へ使われるそうです。東川の野菜やお米はこの美味しい水が使われています。 東川は上下水道が存在しない街としても有名で、地下水を汲み上げて水道水として利用しているとのことです。素敵な街! 東川町の方々とお話をして、ここから先旭岳温泉に向かう道は歩道もなく危険とのことでした。なので行けるギリギリの東11号というバス停から旭岳温泉までバスに乗りました。 本来開拓の歴史を辿るのであれば、旭川から上川に向かう国道を通るべきなのかもしれないです。網走監獄の囚人によって開削された「囚人道路」はそっちの道であり、旭岳温泉ではないからです。ただ今回旭岳温泉をルートにしたのには理由がありました。ここら辺が観光地として開拓されたのはかなり最近で昭和29年に歩いてきた道路が出来てからだったそうです。大雪山は北海道最高峰の旭岳を有する山々で、特に冬は環境が過酷すぎるという理由から開発も遅くなりました。また、囚人による開拓もこの大雪山を大きく迂回する形で進められました。 現在も旭岳温泉より先、大雪山には道路はなく、反対側の層雲峡に直通出来ないのです。(今は環境破壊の要因からも開削は不可能だと思います。) そんな歴史が敗北した厳しすぎる山々をこの足で越えてみたい。そう思い旭岳へ向かうのでした。 この日の歩行距離は11.6km。 東神楽から東川を経由して旭岳温泉まででした。 【9日目】 朝起きると雪が吹き荒んでいました。 泊まっていたホステルには旭岳の天気を表すボードがあるのですが、雪予報とともに風速35km/hの予報が出ていました。35km/hはやばすぎます。とりあえず悪天候のため停滞となりました。このロングトレイル始まって初のゼロデイでした。 とは言え暇だったのでスノーシューを持って温泉の脇から入れるクロスカントリーコースに入ってみました。ただ雪が強く、時折風も強く吹くので途中でやめて戻りました。諦めて屋内施設のビジターセンターに向かいます。ここは大雪山の成り立ちや国立公園について勉強することが出来ます。 昼はカップ麺でいいかなと思っていたのですが、お腹が割と空いたのでロープウェイの山麓駅にある食堂でかき揚げ丼を食べてホステルに戻りました。 この厳しさこそが大雪山の冬なんだなと実感する1日でした。 この日は4.5kmの歩行でした。 移動はありません。 【10日目】 天気は晴れ。この日大雪山を越えに行きます。 かつての開拓の障壁となった北海道の屋根、それが大雪山です。 この山には旭岳温泉側、層雲峡側それぞれに途中までロープウェイがかかってます。ただ、今回は自分の脚だけで大雪山を越えていきたいのでどちらも使いません。 また東川の山のお店で色々と相談をしましたが、この時期の大雪山に宿泊をするのは風や天候悪化で様々なリスクが伴うので天気が良い日に1日で抜けてしまうことがマストだというお話を伺ったので、地元の山屋の意見をしっかりと聞いて1日で抜けます。 宿を出発したのは朝5時半。前日までの雪で道路も完全に雪が積もり、アスファルトのアの字も見えないので宿の駐車場からアイゼンを履きました。 予報通り天気は晴れです。旭岳ロープウェイの区間は冬はスキーコースとして圧雪が入っています。今回は営業前のスキーコースを登ります。ある程度標高を上げると、麓の原生林と上川盆地、忠別湖が見えてきます。この区間はところどころでちょっとした急登はあるものの、さすが整備が入ってるだけありかなり登りやすいです。 ロープウェイの山頂駅、姿見駅が見えると森林限界を超えます。本州ではもっと高い標高に来ないと超えない森林限界も北海道では1000m前後で超えてしまいます。それだけ環境が過酷ということです。森林限界を超えると風も強くなってきます。先ほどまで晴れていた天気も雪に変わり、麓の景色も見えなくなりました。 麓の駅から姿見駅までは1時間半ほどで到着です。姿見駅に設置してある気温系ではマイナス12.1℃でした。旭岳にしては暖かいのかもですが、強風でもない中腹の姿見駅でこの気温はさすがといった具合です。 昨年も一度冬に姿見まで訪れたことがあるのですが、この先の区間旭岳の尾根に出るまでは雪がモフモフに積もってた経験があるので駅舎の前でアイゼンからスノーシューに履き替えます。姿見駅を出発し真っ白な雪原を歩き出します。大雪山は火山地形でなだらかで広い地形が広がっているので、ひとたびガスに入ってしまったり、吹雪いてしまうと自分の居場所が分からなくなります。今どきはYAMAPやヤマレコのようなGPSアプリもありますが、あまりの極寒にスマホを外で触ろうものなら数十秒で大体充電が切れます。なのでまともに地図を確認しながらは歩けないので大体の地形を頭に入れておくことと、紙媒体の地図を持つことをおすすめします。 僕も昨年1月末の雌阿寒岳でスマホで動画を撮ろうと30秒ほど外に出したらすぐに電源が落ちてしまった経験があります。よく大雪山は本州の3000m級の山々と同等の気候条件と言われますが、正直冬は北アルプスなどと比べても北海道の2000m級の山々の方が気象条件は厳しい気がします。本州の山はある程度天気予報通りに行きますが、北海道は平地も含めて晴れ予報で快晴でも数分後には吹雪出したりするので天気予報も正直あてになりません。 厳冬期の本州3000m級の山々や東北の2000m級の山々、ヨーロッパアルプスの4000m級の夏山など幾度となく歩いてますが、厳冬期の北海道の山はかなり厳しい印象です。 話が逸れましたが、姿見駅から旭岳石室までは太ももかそれ以上のパウダースノーが積もっていました。この日の第一登山者ということもあるかもですが、スノーシューを持ってしてもラッセルです。旭岳石室から先は旭岳の尾根部分に入ります。ここから先は風が強く雪も硬いので再びアイゼンに履き替えます。 本来の旭岳は綺麗な円錐型の溶岩ドームだったのですが、かつての噴火による山体崩壊で今ような一部が崩れた形になりました。その地形が作る尾根部分を歩きます。 この尾根部分に出ると信じられないほどの爆風です。晴れ予報はどこへやらという具合の吹雪も加わり、まさしく極寒です。 北側からの風が強かったので風を避けられそうな岩の陰に隠れながらマムートのダウンを着ます。このダウンはメロンインフーデットジャケットと言い、かなり温かい防寒用のダウンジャケットです。行動中というよりは冬のテント泊や休憩中に着用するもので、基本的に分厚いダウンジャケットは行動着ではないです。僕もこれを行動中に着ることは厳冬期の北アルプスでもなかったのですが、今回は寒さに耐えられず行動中に着ることにします。 爆風の尾根沿いを進んでいくと金庫岩という四角い大きな岩が見えます。この岩が見えると歩く方角が少し変わり山頂も近いです。 ガスも抜け、青空が見えました。 小樽の銭函海岸で海を触り、10日後のこの日に北海道の最高峰。旭岳に登頂しました。 究極のSea to summit (海から山頂を目指す登山スタイルのこと)です。 僕はこれまで旭岳に夏に2回登頂し、冬は悪天候で撤退しました。今回冬の旭岳に訪れて初めて晴れました。山頂からはこの先進む大雪山の御鉢カルデラやトムラウシ山方面、麓の上川盆地や十勝岳連峰の方まで一望できます。 「ここが北海道と屋根だ。」 海から歩いてきたからこそ本当の意味で北海道の屋根であることを実感しました。 そしてここからが大雪山越えの山場なのです。旭岳までは正直登山者やバックカントリーでの入山者も多く、YAMAPやヤマレコでも沢山レコが残ってます。しかしこの先の区間黒岳までの縦走は夏こそメジャーなものの、冬場のレコは見られません。ネットで調べてもほとんど出てこない。今年ではありませんが2名ほど登っていた方のレコがあったので参考にしました。 ただ冬山というのは積雪量や気温、風など夏山以上にその日の条件次第で難易度やルートが大きく変化します。なので今年のレコがない以上行ってみてその場で色々と判断をしていくことになります。 ひとまず裏旭と言われる旭岳から御鉢に向かう急な下り坂を下ります。ここは夏でも巨大な雪渓が残っている場所です。旭岳の山頂付近は強風がいつも吹くおかげで雪は硬いですが、少し下ると深く積もるパウダースノーに変わります。すぐにスノーシューに履き替え歩きます。ここも姿見と同じく太ももぐらいまでのラッセルです。 裏旭を下り終えると鞍部に出ます。この鞍部は風の通り道のようで大きなシュカブラができていました。ここからまた風の影響で雪が硬くなります。シュカブラ地帯を抜けると雪が風で飛ばされ岩が剥き出しになっていたのですぐにアイゼンに切り替えます。 緩やかな登りを登ると間宮岳です。ここで御鉢カルデラ出ます。間宮岳を南側に進むと白雲岳やトムラウシ方面への縦走路に進むことが出来ます。今回は北側を進みます。御鉢カルデラも常に強風吹き荒れており岩が出てる場所が結構あります。スノーシューだと逆に歩きづらいです。 夏も広大な風景ですが、冬は壮大な白一色の雪原にモコモコと聳える溶岩ドームが複数ある日本離れした風景が広がります。海外の山々も登りますが、大雪山のこの景色は本当に世界屈指の絶景だと思います。 緩やかなアップダウンを繰り返すと左手に大きな山が現れます。これが北鎮岳です。北鎮岳は旭岳に次いで北海道で2番目に高い標高を誇ります。せっかくなので山頂を踏みました。 北鎮岳を後にすると少し標高を下げます。この下りに入ると風も少し弱まり、再び積雪量が増加です。裏旭と同じく太ももらへんまでのラッセルが続きました。しばらくなだらかな平原を進むと黒岳石室という山小屋があります。 石室をすぎると文字通り風で雪が飛ばされ岩が剥き出しの黒色をした黒岳が見えてきます。ここから黒岳山頂までは強風地帯でした。 黒岳の山頂を踏むといよいよ下山路に入ります。が!この下山が意味がわからない!地図を確認するもここ!?と思う崖を指している。 黒岳は北側が本当に崖になっていて南側が崖と比べると少しだけ緩やかな斜面になっています。この斜面に雪が積もりめちゃくちゃ急なスキーコースのようになっていました。地図通り行けそうな斜面を下りました。遥か下に黒岳スキー場のリフトが見えているので、そのリフト目掛けて下ります。ルートはしっかり合ってました。なるほど。これはバックカントリーの人が好んで黒岳に行く訳だという斜面でした笑 スキー場に入ると黒岳ロープウェイの5合目駅までは圧雪された歩きやすい道です。 問題はここから!ロープウェイ区間は夏は登山道がありますが、冬はなくなります。 しかもロープウェイの途中からは完全な崖があり、一歩間違えると一発で終わるルートです。 今回は1日で層雲峡まで抜けるのでこの時点で夜間行動でした。このレポを読んでくれてる方がいてくださったらぜっったいに真似しないように!と思います。しっかり地形図を頭に入れながらヘッドライトとロープウェイの支柱、バックカントリーの方が滑った跡をあくまで参考にしながら下ります。途中までは太ももから腰ぐらいまでの深さのラッセルではありますが、下っていけます。問題はやはり崖の区間。ここからはロープウェイに対して左の斜面側に等高線を斜めに下りるように意識します。ただあまり行きすぎると今度は下れない別の崖にぶち当たるのである程度行った時点で覚悟を決めて急斜面を下ります。ここまで標高を下げると雪が少し崩れており、一歩踏み出すごとに腰らへんまで埋もれてしまいます。アックスでしっかり確保しながらアイゼンで蹴り込み下降します。 ただ雪が深すぎて片方の脚が埋もれたまま抜ける前に次の脚が埋もれてしまうような状況で、脚がもげそうな角度になるので、太い木の幹にピッケルを引っ掛けて自分の身体を一度上に引き抜いてから降るということを繰り返しました。 しばらく下っていくと川の音が聞こえます。 急な斜面が緩くなると川と合流です。この川まででると林道があるので一安心です。とはいえ雪崩のリスクがなくはないのでそそくさと抜けます。 一般の道に合流するところで登山口の目印となる層雲峡神社があります。無事に旭岳温泉なら層雲峡まで冬の大雪山を縦走しました。ものすごい達成感と疲労感。嬉しさが込み上げました。アイゼンを脱いだりピッケルをしまい宿に向かいます。 この日の行動時間は14時間でした。満身創痍です。 この日の歩行距離は21.3kmでした。 【11日目】 先日北海道横断の山場である大雪山を越えて層雲峡へとやってきました。この日は少しゆっくりです。まずは層雲峡を街ブラします。向かったのはビジターセンターです。ここでビジターセンターの方と意気投合をして、層雲峡の歴史について色々と教えていただきました。 ここ層雲峡は災害の歴史からなる温泉地です。昭和29年に洞爺丸台風という巨大な台風が北海道を襲いました。名前の通り、かつての国鉄が運営していた青函連絡船の洞爺丸が転覆沈没した風の強い台風だったと言います。この台風は北海道に甚大な被害をもたらし、大雪山では森林に大きな影響を与えました。大量の折れた木々は大量の木材として麓に下されました。誰か利用する人はいないかと投げかけるも、地元住民では扱えないと名乗り出るものはいませんでした。そこで名乗りをあげたのが「りんゆう観光」さんでした。りんゆう観光さんは札幌に拠点を置き、藻岩山ロープウェイを運営している会社です。この会社が木材を使用して黒岳ロープウェイを建設しました。層雲峡周辺は火山の柱状節理による断崖絶壁に囲まれていて、大雪山黒岳に向かう山も途中崖になっているので、到底近づけなかった層雲峡からの大雪山を民衆の誰もが登れる山にしたのは黒岳ロープウェイのおかげだと言えます。また、この地を北海道有数の観光地にのし上げたのは層雲閣というホテルの影響がかなり大きいです。層雲閣はまだこの地が小さな温泉だった頃に利権を譲渡された荒井利一さんによって開発されました。 北海道開拓では駅逓と呼ばれる、郵便や宿など様々な機能を持つ本州で言う宿場のような役割を持つ場所が一定間隔で置かれていましたが、層雲閣が国から駅逓の指定を受け、荒井さんは私費を投じて山間にある層雲峡までの道を開削しました。これにより層雲閣をはじめとした層雲峡温泉の歴史が始まりました。 今でこそ道内有数の温泉地として賑わう層雲峡も1人の開拓者によって生まれた歴史があるのです。 層雲峡の歴史を学んだところで次の目的地へと向かいます。が!このから先、石北峠という峠があります。この峠道がやっかいで層雲峡から反対の街である留辺蘂まで50km近く宿泊できる場所がありません。積雪した山道ということを考えると到底1日で抜けきれる距離ではないですし、もちろん道路にテントを張るわけにはいかないです。山の中に入ってテントを張ろうにも名もなき北海道の山で生活できるほどの技術はありません。しかもこの道路、冬場は除雪した雪の影響もあり歩道がありません。国道なので交通量も多いので物理的に歩けない場所なのです。 いろいろ調べましたが、上川方面から抜ける北見峠も同様にここから東側に抜ける道路は歩行者が歩ける道ではないようでした。ですのでここは最初に決めたルールに則りバスで留辺蘂まで抜けます。一日4本ほどあるバスで留辺蘂まで1時間ほどです。層雲峡を出ると銀河トンネルという長い長いトンネルがあり、その次は大函トンネルというトンネルがあります。どちらも銀河の滝、流星の滝、大函、小函という景勝地の脇を抜けるトンネルです。この大函トンネルは今でこそ新しいトンネルですが、かつての旧道は囚人が開削した道路のようで、火山によって出来た柱状節理を手彫りで貫いたトンネルのようです。今は旧道は通行止めとなり、隧道内にはお地蔵様が鎮座しているそうです。 長いトンネルを抜けると大雪湖というダム湖があります。ここからは雄大な大雪山の山々が望めます。ここで十勝方面方面の三国峠へ向かう道路と分岐して石北峠へと向かいます。石北峠の標高は1000mほどです。ここの峠で分水嶺を越え、流れる川はオホーツク海に注ぎます。 クネクネの峠道を降りていくとイトムカ水銀という貴重な水銀が採掘されていた鉱山跡地を左手に望みながら北見へと向かいます。 しばらく走ると山道から北海道らしいまっすぐな道になります。平坦部に出ると留辺蘂の街です。留辺蘂はかつて囚人が開削した中央道路と合流する街です。遠軽の方へ大雪山の北側を周っていた鉄道も留辺蘂で北見路に合流します。 留辺蘂には中央道路の過酷な開削によって亡くなった網走監獄の囚人の方と、同じく道東と上川地方を結ぶ鉄道路線石北本線の過酷なトンネル開削作業で亡くなった囚人の慰霊塔があります。開拓の歴史を辿るこの旅ではこの慰霊塔を訪れました。 この日の歩行距離は10.2kmでした。 【12日目】 12日目は留辺蘂から北見市に向かいます。石北峠の山頂からオホーツク海まで続く北見市は道内で1番大きな自治体で、道路もひたすらまっすぐです。石狩平野を思い出します。 途中相内という小さな街があり、さらにまっすぐ進むと北見市街に入ります。北見はオホーツク地域最大の都市で人口10万人を有します。 北見ではピアソン記念館というところに向かいました。ここは開拓時代にキリスト教の宣教活動を行っていたピアソン夫妻の暮らしていた家です。当時物珍しい外国人の移住者に最初は住民を虐めじみたことをしていましたが、明るい性格の彼らに次第に心を開いていったのだそうです。 北海道開拓では残念なことに遊郭が必須になっていました。力仕事の多い開拓には男性が多かったのかどこの街にも遊郭が置かれたのでした。例外なく北見にも遊郭設置の話が出た際に、ピアソン夫妻は遊郭設置への反対運動を起こしました。結果北見に遊郭は置かれず、たくさんの売春婦を救ったという経歴があります。 当時の歴史の名残なのかは不明ですが、調べてみたところ北見にはいまでもほとんど風俗店は存在していないようです。 北見の街は商店街が広がり、結構昭和レトロな街並みがあります。駅横の商業施設にも絶滅したかのようなゲームコーナーやデパ地下のようなものが残っていました。 この日の歩行距離は27.3kmでした。 【13日目】 朝起きると雨が降っていました。まさかの雨…。 この日は北見からいよいよ目的地である網走市内を目指します。前日とこの日は異例の気温の高さでかなり暖かいです。久しぶりに雪に降られることもなくハードシェルを着ずに過ごせそうです。 まずは北見がなぜここまで大きくなったのかを知るべく、北見ハッカ記念館へと向かいました。ここの学芸員さんがかなり親切に歴史を教えてくださいました。 北見がオホーツク最大の都市になったのは、簡潔に言うとハッカによって発展したからです。北見では戦前にハッカ油の栽培を行い本州の工場で油を精製して輸出していました。 その品質の高さから北見製のハッカは人気になり、ぜひ北見にも自分たちでハッカ油を精製できる工場を作って欲しいという要望が多かったといいます。そしてめでたく北見にハッカ油の精製工場が出来ました。 北見の工場では薄荷という植物を蒸留して出来るハッカ油と、その油が10℃以下にできる結晶化したハッカ脳というものを精製し、輸出していました。なんとピーク時には世界の70%のハッカを北見で生産していたと言います。 このおかげで北見は大きな街へと成長した。 今でこそ北海道で聞かない日、見ない日はないJAグループ北海道の経済事業を担っている「ホクレン」もこの時に一躍成長しました。 やがて第二次世界大戦の食糧難に陥ると、政府から農家に食べれない薄荷でらなく、食糧の生産をするよう命令が降りました。この命令によりハッカ油の生産は激減しました。 戦後再びハッカの生産を始めました。しかし、薄荷はもともと中国の暖かい地域が原産の植物で、一年を通して栽培のできるブラジル産が世界のシェアを占めて行きました。加えて安価な石油からハッカを精製できる技術が生まれて、北見の天然ハッカは衰退をしました。 しかし、北見をオホーツク地域最大の都市まで成長させたのは紛れもないハッカ生産の歴史があるからです。 と言うことで北見の歴史を見たのちに、目的地に向かい歩き出しました。北見の市街地から少し進んだところで最後の峠越えを行います。目指すは山を越えた美幌です。 この山岳区間を交通量の多い道を外れて歩きました。いくつもの自治体が合併して出来た北見の中でこのエリアは端野と呼ばれる場所です。端野は美瑛のようなパッチワークの美しい農耕地と丘陵地が広がっています。大雪山を越えて札幌や旭川の都市エリアから離れたこともあるのか道東では未舗装路も増えます。途中からは未舗装路を歩いていきます。 まるで机上の上で地図に適当に線を引いたかのような真っ直ぐすぎる国道をずっと歩いてきたので、この未舗装の道はまるでトレイルを歩いているようでした。パッチワークの道の美しさは本当に目を見張るものがあります。 気温の高さから雪が溶け、足元はドロドロになっていましたが気にならないぐらいに景色がいい。 そして丘の真ん中にある真っ直ぐの坂道を登ると美幌町に入ります。この坂道を登り切るとなんと斜里岳や知床連山が一望でした。ドラマチックすぎる!!!こんなドラマ的な道があるのかと感動しました。そして美幌町に入ると再び未舗装路です。 しばらく山道を歩くと交通量の多い道路に合流します。ここかは美幌町の平野に出るまで歩道がなくて少し危なかったです。予想外でした。迂回できるバスもないので、トラックや車に気をつけながら歩きました。 しばらく歩き美幌町に出ます。美幌の街は近年移住者も多いみたいです。小島農場のという農場が経営しているショップ兼カフェによりました。ここでとうきびおにぎりを買いました。リーズナブルでびっくり! 美幌からは隣の女満別町の中心駅である女満別駅までほんの少し鉄道に乗りました。というのも日没前に歩きたい道があったからでした。 女満別駅の市街地の反対側には網走湖という湖が広がっています。この網走湖は鳥類も多く美しい景色が広がっています。ぜひともこの湖岸を歩きたかったのでした。 駅に着くと頭上を「コウッコウッ」となく白鳥が飛んで行きました。白鳥が見られる駅すげえ…。 全面結氷した網走湖、その湖畔の道を進むとまた未舗装路になりました。僕はここで道を間違えたことに気づきました。本来わかさぎ釣りの漁場になっているここはゲートから立ち入り禁止なのに誤って入ってしまったのです。 人もおらず除雪がされてない通行止めの看板とともに立ち入れなくなるところで気づきました。誤りとは言えあまりいいことではないので以後気をつけます。 女満別駅まで往復6〜7kmぐらいロスしてしまいました。湖畔の道は途中までしか歩けないようです。国道へと出てこの日の目的地である呼人まで向かいます。やっぱり夜間は寒い…。 途中冷たい雨に打たれながら、網走湖から少し離れた台地の上を向かいます。風も強く寒い…。この区間道をロスしてしまったこともあり精神的にかなりきつかったです。 しばらく歩くとついに網走市のカントリーサインがあります。 やっっっと最後の自治体に来た…!! 網走に入ってすぐの呼人という集落に泊まりました。 この日の夜僕は苦手な羊肉を克服するために本格的なジンギスカンを食べに向かいました。 しっかりと味付けされたラム肉に汁で煮込むようなもやし。「めっちゃ美味いじゃないか!!」驚くほど美味しい羊肉に感動しました…!!しかも値段がライス込みで1300円!焼肉の感覚だったのでリーズナブルな値段にびっくりでした! この日の歩行距離は37.5kmでした。 【14日目】 前日の天気予報で北海道は荒天というのを見ていて心構えをしていましたが、朝起きると窓の外は吹雪でした。。 この日は網走に聳える天都山という小高い低山に登ります。登ると言っても登山道ではなく道路です。 それにしても前日までの暖かな陽気はどこれやら…。山の上は猛吹雪でした。震えながら網走市の観光地、北方民族資料館に向かいます。 ここは世界的にも珍しい、アイヌやオホーツク人を始めとしたイヌイットなどの北方系の民族の展示を集めた貴重な資料館です。 僕は学生時代より北方民族の世界観に心惹かれていて、イヌイットと絡みにアラスカの北極海の村へ足を運んだり、カナダの極北地方に暮らしながらこの地に暮らすデネ族という民族について勉強したりしていました。 圧倒的に厳しい極北の自然な中で生きることを選んだ彼らの文化には、圧倒的な自然に対して生まれたデザイン性の高い衣服や、シャーマン文化など興味深いものがたくさんあります。 久しぶりに海外の北方民族について触れることができて嬉しく思いました。 資料館を後にして、すぐ裏手にある天都山に向かいます。天都山は山とは名ばかりで、道路が通じており山頂には流氷のことを知れるオホーツク流氷館や展望台もあります。 展望台に登ると屋外は荒天のため立ち入り禁止でしたが、窓から網走の街と網走湖を望めました。そしてここでオホーツク海とその奥にある流氷も拝めました。 天都山の中腹には網走監獄博物館があります。ここは網走監獄の一部を移築したり、復元したりして出来た広大な博物館で、今回の旅の目的地のひとつでもあります。 ここまで小樽から入植した屯田兵の歴史と、囚人によって開削された、当別、空知から始まった北海道を横断する中央道路の歴史を辿ってきました。ここはその開削の歴史はじまりの地です。 北海道の開拓には、囚人なくては成り立ちませんでした。 当時自由民権運動のおかげで全国的に囚人が爆増しました。これにより北海道に流刑地となる集治監(監獄)の設置を行ないました。 最初の集治監である樺戸集治監(月形)と次に置かれた空知集治監(三笠)の囚人により北海道の道路開削は進められました。 北海道の開拓は、順番で言うとまず囚人による道路開削や屯田屋の建築などが行われ、次に屯田兵の入植による開墾作業が行われ、最後に移民者によって開拓が行われたと言います。 開拓の要となるのは1番最初の囚人による開拓でした。樺戸集治監と空知集治監の囚人によって開削された道路は当別や岩見沢から旭川へと向かう上川道路となりました。 後に釧路集治監が置かれ、さらに網走に網走分監が置かれました。 しばらくして日露戦争への対ロシアの国策として、北海道を横断する中央道路の開削が進められることになりました。この開削は釧路集治監の囚人が網走分監へと大移動をし集められ、劣悪な環境のもと突貫工事で進められました。 網走を離れていくにつれて食料も不足し、工事の遅れから夜間も休むことなく開削は進みました。実に700m工事が進むごとに1人の頻度で囚人が亡くなっていたと言います。力尽きた囚人は道路脇に土で埋められたり、人柱としてトンネルの壁に埋められたりしました。実際に十勝沖地震でJR石北本線の常紋トンネルの壁が崩れた際には、その壁の中から立ったまま埋められた囚人たちの人柱人骨が出てきました。 囚人たちの開削により中央道路は開通し、現代も国道として引き継がれていきました。 民間の運動により、埋められた囚人たちの骨を掘り返し、埋葬する鎖塚や慰霊碑などが中央道路沿いにいくつも存在しています。 今回北海道開拓の道を辿るため、スタートとなる小樽から網走監獄のある網走まで実際に自分の足で歩きました。整備され、切り開かれた道路でさえ冬の北海道はあんなにも過酷な物でした。また、夏はヒグマがいたりまた別の危険性があります。こんな未開の地を開拓した屯田兵、そして囚人たちへの思いを馳せながら記録ではなく自身の記憶として残していきたいと思いました。 網走監獄を後にして、この日ついにオホーツク海へ向かいました。日没近い時間。ついに僕はオホーツク海に触れました。 小樽で日本海に触ってから2週間。崩れた流氷が漂着した網走海岸に辿り着いたのでした。 この日の歩行距離は27.4kmでした。 【15日目】 昨日網走海岸でオホーツク海に触れ、この日は網走市街で見たかった場所へと向かいます。まずはYAMAPのレコを一時停止して、JRで北浜駅へと向かいます。北浜駅はオホーツク海に1番近い駅として知られ、目の前には壮大な景色が広がります。残念ながら流氷はいませんでしたが、荒れた冬のオホーツク海の景色は恐ろしくも美しいです。 北浜駅は駅舎も魅力的です。全国から鉄道従事者が足を運び駅舎内に名刺をたくさん貼っていました。またかつての駅事務室跡地を活用した喫茶「停車場」があります。ここで温かい珈琲をいただきました。サービスで手作りの梅ヶ枝餅もいただきました。梅ヶ枝餅は中に餡子の入った焼かれた餅のようなもので、福岡県太宰府の銘菓です。網走という東の果てで西の果て福岡の食べ物を食べる貴重な経験でした笑 北浜駅から網走駅へと戻り、網走の歴史を見ることができる網走市博物館に向かいます。ここは北海道じゅうに広まったアイヌ文化とは別の歴史を辿ったオホーツク文化のことや、もちろんアイヌのこと、そして明治から昭和にかけての網走の開拓の歴史を貴重な資料から見ることが出来ます。 この資料館がある桂ヶ丘にはアイヌの人が残したチャシと呼ばれる砦が残っています。 資料館から少し歩いたところ、同じ桂ヶ丘の台地の上にある網走神社に足を運びました。ここら辺の地域の氏神様てきな役割を果たしているのだろうと思います。ちなみにこの神社は北見國一宮です。一宮とは簡単に言うと旧国名(薩摩國や武蔵國など)の各国に置かれた最も格式高い神社に与えられたものです。北海道は旧国名と言っても本州の文化が入った歴史が浅いのであまり一宮という概念があるような感じがしないのですが、網走神社は北見國という括りの一宮だそうです。 お昼を食べ、この日1番楽しみにしていたモヨロ貝塚に向かいます。ここはアイヌとは別の謎に満ち溢れたオホーツク文化の超重要な遺跡です。そもそも網走のあるオホーツク総合振興局は国の出先機関としてはほぼ唯一に近い外国語由来の地名「オホーツク」が使われています。 というのも、この地域にはオホーツク文化という独自の文化が存在していました。 オホーツク文化は樺太や北海道のオホーツク沿岸部に広がったアイヌとも違う海洋民族の文化です。海獣や魚を狩猟する狩猟海洋民族で、網走市街にある網走川の河口部にある砂丘では大陸からやってきたオホーツク人が村を築いていました。というのも彼らは食べた骨や貝などを地面に埋めたり、民家の奥に骨塚という動物の頭骨を重ねたものをつくっていたのですが、このモヨロ貝塚では大規模なその遺跡が見つかったのでした。長らく謎に満ちていると言われていたオホーツク文化の研究もこのモヨロ貝塚によって大きく進展したと言います。 彼らの人骨も見つかっており、アイヌとはことなる堀の浅い平たい顔をしていた彼らはロシアなどの北方民族ににていたと言います。ここで前日みた北方民族資料館の展示と話がつながりました。 本州では狩猟メインの縄文時代から、農耕メインの弥生時代に変わっていく中で北海道では、農耕が適しておらず縄文時代のような狩猟文化が続きました。これを北海道独自の続縄文時代というそうです。続縄文時代は次第に擦文土器を用いた擦文時代に進みます。この頃本州では奈良時代や平安時代だと言います。京都や奈良では都が置かれていたような時代に狩猟の時代が続いてきたこと。悪い意味ではないですが、北海道の歴史文化が遅れていたのは事実だと思います。 そして擦文時代の文化を引き継ぎながら次第に北海道ではアイヌ文化の時代に移り変わっていきました。しかし、北海道の網走やオホーツク地域では海外からやってきたオホーツク人の文化が広がっていました。彼らの土器には粘土を線のように貼り付けた貼付文土器などが見られたそうです。 そしてオホーツク文化は徐々にアイヌ文化と混ざり、トビニタイ文化というものを築いていきました。オホーツク文化は次第にアイヌ文化と同化していったのだそうです。 海外由来の独自文化を持つオホーツク。そしてその大きな拠点のあった網走はまた他の北海道とは違う歴史を持つ街で非常に興味深いです。 そして北海道開拓というのがどれだけ大きなものか改めて強く感じました。古代の歴史を見ることで狩猟文化や文明の離れた時代を進んでいた北海道を、日本として開発した功績があるからこそいまの札幌や旭川のような大きな街が北海道に切り開かれたり、北海道中に点在する街に発展したのだと思います。そしてその街がなければ日露戦争の結果はまた違ったのもになっていたかもしれません。日露戦争だけではなく、第二次世界大戦もまた別の道を辿ったかもしれません。 歴史が浅いと言われる北海道。でも北海道には本州とは異なる古来の歴史がしっかりとあり、そしてなにもり開拓の歴史があります。また戦後からいまも抱える北方領土問題もあります。 北の大地、過酷な土地だからと言ってどうでもいいなんてことはないんです。人がそこに住むからこそ日本の国土を守る意味がありますし、僕のような本州の人間が観光地としてだけ捉えてる北海道もほんの一部なのだなと今回の旅で実感しました。僕が語れることなんでたかが知れていると思います。北海道を開拓して暮らして行った移民や、古来より暮らすアイヌ、オホーツク族、和人、簡単に捉えられるようなものではないのだと思います。 近年では北海道の人口希薄地帯の鉄道が廃線されたり、駅が廃駅になったり交通インフラも衰退してると言わざるえない状況です。国鉄が民営化されたいま民間企業の利益を考えるJR北海道が維持できないのも当たり前かもしれません。そして簡単に維持して欲しいなんて言えないかも知れません。でも、明らかに先人たちが開拓していったインフラ網が消えて行ってるのは確かだと思います。どうにかしてこのインフラ網というものを残す術を僕たちも考えて行かないといけないのかな、人ごとではないのかなとま思います。 もちろん車社会に変わり高速道路が発展しているのも事実で、一概に交通インフラが衰退しているとは言えないかもですが、人口が減少を続ける日本、北海道においていつその交通網が変化していくかはわかりません。 最終日の歩行距離は11.8kmでした。 長々と書きましたが、今回この北海道徒歩横断で北海道の開拓、交通、商業、工業、金融、娯楽、風俗、自然、農業とさまざまなものの歴史を辿ることが出来ました。日本に住む僕にとってこんなに深く歴史を探索できたことは一生の財産だと思います。 また、歩き旅だからこそ見える遺跡や遺産もたくさんあります。登山やアウトドアとして捉えられるロングトレイルも、こうして歴史的な旅になるんだなと、新しい観光スタイルになるんだなと実感しました。 このログを最後まで読んでくれた方は本当にありがとうございます。かなり長い文章ですが、少しでも参考なればと思います。