菰釣山と西丹沢の最深部(小屋泊)
大室山・畦ヶ丸・菰釣山
(山梨, 神奈川, 静岡)
2026年02月21日(土)〜22日(日)
2日間
〇所感
山と高原地図に登山道が描かれていない丹沢の空白地帯として知られるエリアを歩いてきた。今回はGPSへの依存を避け、紙地図とコンパスを主体としたナビゲーションの練習も兼ねて行動した。
登山道の踏み跡は非常に薄く、代わりに無数の獣道が錯綜しており、何度も進路修正を要した。踏み固められていない柔らかい地面は急斜面で滑りやすく、整備された登山道の有り難みを改めて認識した。
道中には鹿の蹄跡やヌタ場、動物の糞が多数見られ、この場所が野生動物の生活圏であることを強く感じた。この地帯は歴史的に林業が盛んであったためパッチ状にスギ植林が分布していたが、自然林の区間では樹種構成の豊かな、静かで魅力的な森林が広がり、静寂に包まれた山歩きを心ゆくまで堪能できた。
一方でシカの影響は深刻で、どこに行くにしても鹿の群れと新鮮な蹄跡に会い下層植生はほぼ消失し、林床は裸地化していた。土壌侵食によって形成された土柱も各所で確認でき、破壊されつつある自然に悲しさを感じた。
〇地域の特徴と歴史
この地域は丹沢山地西部、世附川流域に位置し、古くから林業の重要な拠点であった。良質な木材の産地として知られ、戦国期には北条氏の支配下で小田原へ木材が運ばれていたとされる。江戸時代には幕府の御用木(御木)の産地として保護され、御料林を経て現在の国有林へと引き継がれている。この山域が現在まで広大な森林として維持されている背景には、こうした歴史的経緯がある。
また、この一帯は相模・甲斐・駿河三国の国境紛争(相甲国境紛争)の舞台でもあった。山林資源の利用権を巡る争いは天保12年(1841)に甲州平野村の名主・勝之進による幕府への提訴によって表面化し、約7年に及ぶ裁定の末、現在の神奈川県・山梨県・静岡県の県境の原型が確定した。この紛争の際、平野村側の代表が山頂に菰を掲げ、自らの主張の正当性を示したという伝承があり、これが菰釣山の山名の由来になったとされる。
さらに、現在の水ノ木橋付近には「馬印」という地名が残されている。これは、この地域で伐採された良質な木材を小田原方面へ運搬する際の中継地点であり、伝馬制度によって馬を用いた輸送が行われていたことに由来するとされる。これらの地名は、この山域が単なる奥山ではなく、かつては資源供給の最前線として人間活動の深く及んだ場所であったことを示す。
近代に入ると1934年から1966年にかけて世附森林鉄道が敷設され、世附川沿いには木材運搬のための軌道が敷かれた。流域には林業従事者の集落も形成されたが、林業の衰退とともに廃村となった。現在の林道の多くは森林鉄道跡を転用したものである。
参考:
・奥野幸道 『丹沢今昔』、有隣堂、2006年
・ハンス・シュトルテ『続 丹沢夜話』、有隣堂、1991年
・https://toki.moo.jp/gaten/501-550/gate516/gate516.html
・https://yamanokoyk.sakura.ne.jp/soukaihunsou.html#hunsou5
・https://toki.moo.jp/gaten/351-400/gate378/gate378.html
・http://www.aikis.or.jp/~kage-kan/14.Kanagawa/Yamakita_Mizunoki.html