伊深城とSONY
三才山・戸谷峰
(長野)
2025年07月26日(土)
日帰り
伊深城跡(いぶか)
(長野県松本市)
やはり、夏の伊深城は草むらだった・・・ww
城跡はまったく楽しめず、復路は伊深城の裏から尾根伝いに馬飼峠に行こうとしたが、これも藪濃くあきらめ(でも、まあこれは想定内。過去歩いているので今時期は無理だろうなあ~っと)。
結局、40分程度草むらを散歩しただけ・・・となってしまった。
という事で、
分かりやすい城跡の写真も無くレポできないので、伊深城にまつわる、ウンチクを書きたいと思いますww。
●伊深城とソニー(SONY)
現在ではグローバルメーカーとなったソニー。そのルーツのひとつに伊深城があるんです!
「大きく出たな~~」っと思った方、嘘じゃありませんよ。
昭和世代、特に理工系の方なら、「ソニーとイブカ」と聞いたらピンっとくるのでは?
そうです、ソニー創業者のひとり井深大氏です。
(創業者のひとりっと書いていますが、井深氏はその前、ソニーの母体となる前身会社も営んでいました。まさにソニーの大元です)
その井深大氏。
自分で「井深」のルーツを調べて(本人は忙しいので、その取り巻きが調べてww)、自分のルーツが、ココ現松本市岡田伊深である。っと公言しています。
●伊深(井深)氏とは?
清和源氏の血を引く一族で、平安時代に東北の争乱、前9年の駅・・・違ったww、前九年の役や後三年の役で活躍した、源義家(「よしいえ」この方、源頼朝や足利尊氏のご先祖様でもあります)
の弟 源義光(「よしみつ」この方、武田氏や小笠原氏のご先祖様でもあります)
その5男 岡田親義(おかだちかよし)
この岡田冠者親義が、平安期にココ現松本市岡田地域を治めていました。源平合戦の時、親義は木曽義仲に加勢し、義仲と共に京を目指します。しかし、途中の北陸での有名な戦い「俱利伽羅峠の戦い」で戦死してしまいます。しかし、残った子孫がこの岡田の地で、いつしかこの地名を名乗り、伊深氏として続いていきます。
(「伊深」それとも「井深」が正解なのかは、はっきりしない。どちらも史料にでてくるらしい)
1400年に信濃で起こった、新任の信濃守護小笠原長秀と在地豪族の戦い「大塔合戦」では、伊深氏は小笠原方として出陣、しかし小笠原敗戦、出陣した伊深氏も戦死したことが記録されています。
戦国期には伊深城を整備し、名を伊深氏から後庁氏に変え、小笠原氏の下、この地を治めていたようです。
(「後庁」または「後町」と書いたらしいが、これもどちらの字が正しいか、はっきりしない。史料にはどちらも登場するらしい。しかし、岡田郷に一時国の出先機関が置かれた(災害等による一時移転か?)とも言われ、後の庁があった事から「後庁」が正解では?という説がある)
武田信玄の信濃侵攻により、信濃守護小笠原長時は敗退、信濃から没落します。それによりその配下に居た後庁氏も伊深城を捨て、現伊那市飯島へと転居します(たぶん頼りにする方がいて、帰農したのでしょう)。
そしてさらにその後、一族の中から当時伊那地方を管轄していた武田方の武将 保科氏に仕官した方がでて、再度武家として再興します。
武田氏滅亡後、信玄に信濃を追い出された小笠原長時、その息子 小笠原貞慶が松本を奪取します。(貞慶は「松本」という地名の名付け親です)
その時、ココ岡田は後庁氏が治めていたようです。
あれ?後庁氏は伊那に移住したのでは?
どうやら、松本平の南にある洗馬荘を治めていた三村氏の一派がここに乗り込み、後庁氏を名乗っていたようです。三村氏は、小笠原VS武田の時、小笠原氏を裏切り、小笠原氏敗戦のきっかけを作った方です。
話は戻って、松本に帰り咲いた小笠原貞慶。当然、三村氏を目の敵にし、後庁の皮を被った三村氏を謀殺、偽?後庁氏は滅びます。
話は伊那に戻ってww、かつて伊深を名乗っていたホントの後庁氏。
保科氏に仕え中興し名を後庁から伊深(井深)に戻し、保科氏が東北に転封されるとそれに付いていき、あの幕末の会津保科家の家老として続いていきます。あの白虎隊のメンバーにも井深という名がでてきます。
明治維新、井深家は生き残り、ソニー創設の井深大氏へと続いていきましたとさ。
●活動後記
田舎の小規模な山城。でも、その存在には隠れた逸話があるんです。城の数だけストーリーがあるんです♪
ただ、伊深城跡、倒木に笹薮と半分藪と化してきています。
そのうち・・・
ソニー財団が整備してくれないかな~
そう言えば、伊深城から北東方面へ数キロ行くと、その地がルーツとなる居酒屋「養老乃瀧」の創業者が、山の中にゴールデンキャッスル(黄金城)を造っているなあ~。
(地元民には有名な、色んな意味で黄金の、城ですww)
ソニー財団さ~~ん。
いかが?
ちゃんちゃんww
(≧▽≦)プッ