那須ヶ原山・小那須ヶ原山(小那須山)
高畑山・那須ヶ原山・油日岳
(滋賀, 三重)
2024.10.01(火)
日帰り
1) 今回は、なぜ己は山を歩くのか、についての現時点での私の考えを述べることから始めます。
前回の三子山歩きでは、急登やアップダウンの連続に音を上げつつ登ったことを、繰り返し強調してしまいました。上記の、今回の問いについての考察は、なぜそれほど辛い思いをしてまで山を歩くのか、という疑問への回答にもなるはずです。
三子山のようなアップダウンは、山を歩くたいていの人が負荷を感じると思います。ただ、年若なハイカーさんであればそういうことはなく、いわばすいすい登り降りしてしまわれそうですが。一方、私は、体力の落ちた後期高齢者ゆえ、ことさら負荷が身に堪えるため、それによる歩きのつらさをつい吐露しがちです。年齢にしては私はよく山を歩く方だと思っていますが、それでも、そういうつらさの感情がそのつど漏れ出てしまいます。
ただ、本来、山登りは、重力に逆らって、ある程度の重量のあるリュックと着衣、および己の体重とを持ち上げ続ける行動ゆえ、そのつど負荷がかかり、かつそうした個々の登りを続けることで、負荷が累積することになるのは、当然すぎるほど当然のことです。また、山の下りでは、体重や装備を重力込みで降ろすことになるので、その全体を受け止め、そして支える足腰に、とくに膝に、平地を歩く場合以上に負荷がかかり続けるのは必至だということ、そのことも、頭ではわかっています。
さらに、高齢者の私の場合、急登を休まず登り続けることはもはやできず、概ね30歩~50歩登っては休む行程を繰り返して、急登を登り切るしかありません。それでも、そういう少しずつ登って休む、を繰り返すことで、これまで必ず登頂に至っていること、これも経験済みです。
下山の場合も、登りと同様の小股小幅歩きに加え、途中休憩を繰り返しながら、また小股小幅歩きが難しい場合は、両手両足を使いながら、そのつど膝への負荷を和らげる工夫をすることで、なんとかへたり込む(一度霊仙山下山時に経験)ことなく、登山口まで戻ることができています。
そして、こういう登り降りによって、たとえば、この夏の12時間15km超という長丁場の白山歩きを実現できましたし、雄山、大汝山、乗鞍岳、御嶽山、といった3000m超の山に登頂することができています。
要するに、山の上り下りの年齢相応のつらさがあっても、年齢相応の工夫によって、相当の山歩きを実現させることができているわけです。この夏の長丁場の白山歩きは、その負荷の大きさゆえ、これが年齢的にもう最後かな、と思うほどでしたが、実際に最後になるかどうかはまだわからないとの、気持の上での再現可能性を残しています。
以上はしかし、きつい山をいかに歩くか、いかに工夫して上り下りするか、に関する説明であって、冒頭に掲げた、なぜ山を歩くのか、についての答えではありません。
ではなぜなのか。
すでに山歩きは手段だと述べたことがあります。仕事を続けるための、また健康寿命を先延ばしするための手段、という意味で。山歩きで足腰を鍛えることで、体力がつき、健康寿命を延ばすことができる、ということです。ただ、手段としての山歩きは、山を歩く理由ではあるとしても、積極的ではなくあくまでも消極的な理由でしかありません。
次に、山を歩けば憂さを忘れる、あるいは平地における日常の雑事や雑念を忘れる、ということは、確かにあります。
これは、かつて海釣りをしていた頃に、海に出て釣りをすると、日常を忘れてしまうのが常だったことと似たところがあるように思います。
私の海釣りは己の小型モーターボートで沖へ出ての釣りでした。この場合、ボートで沖に出た時点からだけでも、潮や風を見て操船しながら、えさを付けた仕掛けを水深80m前後の海に降ろし、しゃくって誘い、魚がかかったら手巻きか電動リール巻きかをそのつど判断しつつ巻き上げ、魚を外してクーラーボックスに入れ、また仕掛けにえさを付けて糸を海に降ろす。魚がすぐかからなかったら、釣り糸と仕掛けを巻き上げて、ボートを走らせて魚探を見ながら別の場所に移動し、そこで同じことを繰り返す。そこでかからなかったらまた別の場所に移動する、ということで、これら一連の操作(釣りというより操業に近い)を繰り返すだけで忙しくて、日常のことなどまったく考える余裕がない程でした。そして、早朝から昼前頃まで忙しく動いて、船揚場に戻る頃には肉体的に(精神的に、ではなく)疲れ果ててしまう、という行動の繰り返しでした。要するに海では、釣りの為になすべき事柄が多すぎて、日常を考えたり思い出したりする暇がなかった、ということです。
この点、山ではどうか。山にはいると、最初から登山道に注意しながらの歩きになります。滑落リスクのある道や滑りやすい道では、ことさら細心の注意を払って慎重に歩くことになります。そうでなくとも、道の様子が絶えず変化する行程では、基本的に道をよく見ながら歩く必要があり、また急登だとそれに応じた歩きと休憩を繰り返し、下りだと、転倒に注意しながら足を踏み降ろす場所を考えつつ下る必要があり、実際にも概ねそのようにして歩いています。もちろん、眼前の道だけではなく、歩いている時の周囲の様子や先の見通しに注意を向けたりします。ことに、どこまで登ってきたかの、経過時間や経過距離をしばしば確かめますし、この先の登頂まであとどれほどの距離や時間がかかるかも、たいていずっと予想し続けます。途中では花々を見たり、遠景を展望したりもします。山の上り下りでは、少なくとも上記のようなあれこれの行動の連続となるので、たいていの場合、それらを順調にこなすだけで手一杯で、とても、下界での日常を思い起こしたり、そこでの憂さなどに悩まされる余裕はありません。
これらの点では、山歩きは海での釣りの場合とよく似ています。
別言すれば、海釣りや山歩きには、それによって日常のストレスから脱却できる効果があることになります。ストレスからの脱却は、中身からすると、最善の場合ストレス解消ないし忘却、そうでない場合でもストレス軽減、などを含むと考えられます。
ここからすれば、山歩きがもたらす ストレス解消効果を、山を歩く理由と考える人も少なくないでしょう。ただ、これもどちらかといえば、山を歩く前向きの(積極的)理由とは言いがたいと思います。
ではなにが前向きの、積極的な山歩きの理由か。
私の考えでは、少なくとも次の諸要素が、繰り返し山に向かう---山にいざなわれる、そして山歩きが癖になる---積極的な理由になるようです:
a 山の中を、山に抱かれつつ歩いたり休憩したりすること自体の心地よさ。これは、マイナスイオンほか森林浴がもたらす効果を含みます。
b 山が伝えてくれる様々の光景を目にすることの心地よさ。たとえば、歩けば心地よさそうに見える稜線を視野に収めながら歩く楽しさや、あれこれの高山植物に逢える嬉しさ。後者については、膨大な花の群生や群落を目にする場合のみならず、個別の多様な花を見かける場合でも嬉しいものです。
c 登頂の達成感と高揚感。登頂は、およそ誰にとっても、登りのつらさを忘れたり、そのつらさが報われたと感じる喜びの時、といえそうです。登頂に、または登頂回数を増やすことに、さして拘りのない私でも、そうです。
d 壮大な遠景の山々を見晴るかす際の感動。これは、下界では見られぬ景色を目にすることで感じる喜び、でもあります。
e 山で人々と交流する喜び。山歩きに言い知れぬ楽しさをもたらす大きな要素です。なので、私は初めてのお相手にもよく話しかけます。また、yamapを通じて知った人に山で会えたり、再会したりすると、ついつい話し込まずにいられぬほどで、その嬉しさは格別のものとなります。さらには、yamapでフォローし合っている人と一緒に山歩きをしたこともあるのですが、そうやって歩いているあいだ、それこそ内心では、「手の舞い足の踏むところを知らず」といった嬉しさが続きました。ご近所つながりで一緒に山歩きした場合も数回あります。この場合は行程中のやりとりを通じて親睦を深める喜びがあります。時には家族との山歩きもやります。これはこれで、殊更説明するまでもない嬉しさ、楽しさがありますね。こうした人との交流は、ソロ歩きで感じるa~dの心地よさ、喜び、感動を共有することになり、このことでそれらの心地よさ、喜び、感動を増幅させる効果があるとも考えられます。
「山を歩けば五感が喜ぶ」とは、いつか見かけたあるハイカーさんによる感想であり、わたしもこれに賛同しつつ、どこかで引用したはずです。五感とは視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五つの感覚であり、これによって外界を知覚するということです。たとえば視覚は花や遠景を視て感じ、聴覚は野鳥のさえずりや吹き渡る風の音を聴いて感じることです(物騒なのはクマやマムシなどの危険動物の立てる音で、これらは歓びとはいえないですが、生命の危険を察知する不可欠の感覚です)。嗅覚は花の匂いや森の匂いに反応する感覚、味覚は山の幸を食べたり、山で準備した食べ物を食べることで感じる独特の美味感、触覚は木々や岩山などに触れる際のポジティブな感覚、など。
これらは、上記のa~eとも不可分に結びついていると考えられます。
以上が、山歩きのつらさがあるにも拘わらず、繰り返し山を歩かずにはいられぬ理由、言い換えれば、なぜ山を歩くのか、の積極的な理由だと、いまの私は考えています。
そして、以上は、異郷に在る際に感じる、旅の喜びと共通するところがあるとも考えられます。ともに、非日常に身を置いていることの心弾む気持が含まれるからです。
なお、私のフォローするyamaperさんには、日常のあれこれの憂さを晴らして「心を整える」ために山を歩かれる人も。この人の場合、山歩きは、心の平和や均衡を保つために不可欠な行動だと言えそうです。ただ、この人が、山を歩くことで日常の憂さを行程中に発散させていらっしゃるのか、あるいは、行程中は山の楽しさにたっぷり浸りつつ、活動日記の編集時に、日常の憂さを活動記録や画像のキャプションに記述することで、結果として憂さを晴らしていらっしゃるのかは、必ずしもよくわかりません。その両方かも知れません。
ただ、少なくとも、山に抱かれる心地よさをそのつど味わっていらっしゃることは確かだと思われます。この場合には、山のよさを吸収され、山を歩く歓びを感じることで、結果として心を整えるという因果関係が考えられるところです。要するに、このyamaperさんの山歩きは、上記の「山を歩けば憂さを忘れる、発散させられる」というだけでなく、山を歩くことの歓びを感じつつ、そのことが事後的に心の整序に結びつく、という面もありそうだと考えられます。
冒頭の、なぜ己は山を歩くのかの問いに関する考察は、さしあたりここまでにしておきます。
以下は、10月1日の山歩きの報告です。
2)10月1日は、拙宅から72.3km、2時間弱の、南鈴鹿の那須ヶ原山(滋賀・三重県境)を歩きました。
9月28日の三子山歩きから3日しか経っていないのに歩くことにした主な理由は、9月半ばに2週間ほど法事で歩けなかった間に、DOMOが2500程度も減らされてしまい、フォローし合うyamaperさんたちへのお返しが十分できなくなる恐れがあったからです。本来DOMOは山歩きの結果として付与されるものなのに、このようにDOMOを得ることを目的として山を歩くのは、発想が顚倒することになってまったく釈然としないですが、お返しを確保するためにはやむを得ぬこととして、歩くことにしたものです(*)。
(*) DOMOの問題を記したため、これを読まれて10月3日に驚くほど過分のDOMOを下さったyamaperさんがいらっしゃったので、たいへん恐縮した次第です。DOMO問題を書くことでいわば寄付を期待したのではなく、自力での解決を図るつもりでしたが、私の状況を温かく受け止められたもののようで、そのお志には感謝の言葉もありません。篤く御礼申し上げます。
ただ、他に同様のご配慮をお考えの方がいらっしゃるかもしれません。そのご配慮はしかし、どうぞご放念くださればと存じます。お気持ちだけありがたく頂戴いたしますので。
なお、DOMOシステムについては、昨年7月の竜ヶ岳の記録で詳細に問題提起したことがありますので、ご参考までに、そのURLも貼り付けておきます。
https://yamap.com/activities/25262679
那須ヶ原山は、私にとって初めて歩く山になります。9月28日の三子山より標高が高い(800m)山ですから、28日より負荷が高くなることは予想していました。ただわずか3日を置いてなので、脚力には問題ないと考えて出かけました。
皆さんの活動記録をみると、林道の駐車場所が必ずしもはっきりしませんでしたから、進めるところまで進もうと考えて上がってゆきました。すると、那須ヶ原山登山口に向かう林道入口手前50~100m程の林道脇に3台ほど駐車可能な場所がありました。あとで皆さんの活動記録を拝見すると、たいていの人がここに駐車されていることもわかりました。9月28日に登られたスナオさんのURLの最初の画像がその場所です。
https://yamap.com/activities/34715879
その理由は、その先から那須ヶ原山登山口に向かう林道入口までの間に、林道が大きくえぐられて通行困難な場所があったためです。9月28日にスナオさんと同行して登られたこやまんさんのURL(https://yamap.com/activities/34727501/article#image-478458414)の最初の画像がその箇所です。ここが最大の通行困難箇所でしたが、前後にまだ2~3箇所厳しい場所がありました。
私はしかし、最大の崩れた悪路を、右端の黒い路肩の段に右車輪をのせながら、そろりそろりと車で上がりました。他の悪路も似たような仕方で上がって行きました。すると、すぐに上記の那須ヶ原山登山口に向かう林道入口に至りました。ただ、那須ヶ原山登山口に向かう林道入口には虎縞ロープが張られていたので、坂下峠に向かう林道をさらに登ってみたところ、程なく、小屋の前に3~4台ほどはゆったり駐車できる林道沿いの平らな草地が現れたので、そこに駐車しました。過去のyamaperさんの記録でも、複数の人が同じ場所に駐車していることが事後的にわかりました。
3) 支度をして歩き始めたのが10:25でした。まずは、駐車場所から林道を少し下って、那須ヶ原山登山口に向かう林道入口の虎縞ロープを乗り越え、林道を登山口に向かって歩きました。これは皆さんと同じ行動です。ただ、入口の虎縞ロープは脇の柱に引っかけてあるだけでしたので、これを外せば、登山口自体までの林道を車で上がることができそうでした。実際にも、途中歩きながら、引き返して車で上がろうか、と何度か考えています。結果としてそうはせず、登山口までの急坂の林道を足で歩いてしまいましたが。ともあれ、その過程で、登山口直前の林道脇の2~3台分を含め、途中の林道脇には、合わせて7~8台分の駐車可能な場所があることを、確認しました。今度また来る時があれば、歩きにとっては急だったこの林道を600~700m先の登山口まで車で上がるのが目的合理的だと思っています。
さて、登山口から山頂までの行程は、①二合目の小屋までの緩やかな登り、②小屋の先の渡渉点から四合目の先までの、石段や木段の多い、しかし土の道もある植林帯の急登および準急登、③四合目の先の稜線から最初の害獣防止柵までの、同じく植林帯の急登と準急登、④最初の害獣防止柵から二つ目の害獣防止柵までの草木の多い急登で、ここには多様な花があり、休憩ベンチあり、複数の眺望ポイントあり、藪漕ぎあり、の変化に富む行程、⑤二つ目の害獣防止柵を越えた先から、再びの植林帯となる、途中の峰頂(展望ベンチあり)までの急登や、そこを少し下った先から山頂までの急登、という構成でした。
このうち、稜線に出るまではあまり風がなく、三子山の時と同様、汗をかきながらの登りでしたが、渡渉点の冷たい沢水で冷感タオルを濡らして絞ることができたので、汗拭き時にはこれの冷たさがたいへん気持よいでした。
渡渉点から最初の害獣防止柵までと、二番目の害獣防止柵から山頂までは、秋らしい涼しい風が吹いていました。それが心地よかったのは確かですが、風が強いとむしろ寒さも感じるほどでしたから、同時に秋の深まりも実感しました。長野あたりの高山だと、もう晩秋の装備が要りそうだとも思ったことでした。
④の草木の多い急登は、防止柵に保護されているためもあってか、花や景色など、山歩きの楽しさの詰まった行程でした。ことにイヌヤマハッカなどの群生に逢えたのは嬉しいことでした。
なお、途中では、五~七合目、九合目の標識は確認できませんでした。
山頂には11:41に到達。歩き始めて1時間16分の行程でした。
山頂で小休止したのち、程なく、次に目的とする小那須ヶ原山への南鈴鹿縦走路に入りました。この稜線路のアップダウンは、負荷はさしたることはなく、また、木の根と土の道は、何年にも亙って落ち葉が散り敷かれた、ふかふか、もふもふの、まことに心地よい感触のトレイル路でした。
同じことは、坂下峠と小那須ヶ原山との分岐から小那須ヶ原山までの行程にも妥当しました。この分岐から小那須ヶ原山山頂までは、予想より距離が長く、途中には偽ピークもあり、これを含む中程度のアップダウンがありましたが、道はやはりフカフカ基調で歩きやすいでした。ただ、分岐から小那須ヶ原山までは、yamapのコース設定がなかったので、コース外れ警告を受けながらの往復になっています。
4) 小那須ヶ原山からは、分岐を経て、一旦那須ヶ原山山頂まで移動。その間の心地よさは、むろん往路と同じでした。
那須ヶ原山山頂に戻ったのが12:01で、ちょうど昼食時でした。最初は、準備された木のベンチに腰掛けて食べようとしたのですが、陽射しに暑さを感じたので、日影になっていた脇の草むらに移動して昼食を摂っています。ただ、ファイントラックなど吸湿吸汗下着等を身につけていたものの、途中から汗冷えを感じています。秋が深まりつつある季節の推移を文字通り肌で感じたということです。
下山開始は12:35でした。そして下山は13:23でした。言い換えれば、往路の1時間16分に対して、帰路は48分で済んだことになります。下る途中の、害獣防止柵の間の花々は、往路のデジイチではなくiPhoneで撮影するなどしました。
車に戻り、汗まみれの着衣を取り替えて帰途へ。難物の林道入口から少し下った林道悪路も問題なく通過できました。
5) この日は、往復とも完全ソロ状態でした。平日のやや地味な山だったからでしょうか。
入山時には熊警告表示がありませんでしたし、県境稜線コースに樹皮のはがれた樹木を複数見かけましたが、これは熊によるのではなく鹿によるもの、と勝手に決め込んでしまったこともあって、行程中の不安はありませんでした。花の多い場所では帰路の登山道脇を移動する幼蛇を見かけましたが、少なくとも怖いマムシではありませんでしたし。
総じて、この山は、私にはすこぶる好感の持てる山でした。急登一本槍ではなかったので負荷も大きくはなく、また樹林帯とお花畑帯、樹林帯、稜線トレイルなどと、行程が変化に富んでいて、行程間もさして長くなかったことで、楽しく歩くことができたからです。
唯一残念だったのは、登山口までの往復の林道を歩いたことで、不必要な負荷をかけてしまったことです。下りはさしたることはありませんでしたが、登りは結構きつく感じられたゆえに、このきつさのない状態での山道歩きはもっと快適だったろうと思われました。