活動データ
タイム
01:03
距離
2.5km
のぼり
34m
くだり
306m
活動詳細
すべて見る講談 神田伯山の独演会の抜粋 時は幕末、慶応四年五月二日。 雨のち曇り。小千谷寺町の慈眼寺、奥の一室。会談場には継之助が一人入り、伴の二見虎三郎は次室で控えた。継之助の交渉相手となったのは、北陸道鎮撫総督軍参謀の山県狂介(有朋)でも黒田了介(清隆)でもなく、弱冠二十三歳の軍監、土佐藩 岩村精一郎であった。💥💥 それに薩長の面々が三名介添えとして待坐していた。 継之助はこれまでの長岡藩の非礼を詫びた上で、懐中から「治国平天下」を訴えた忠訓の嘆願書を取り出し、総督府への取り次ぎを願ったが💥💥、岩村は長岡藩の時間稼ぎとして一切取り合わず、取りすがる継之助を振り払い、談判は僅か三十分で決裂💥💥💥。岩村がどれだけの重要な人物との会談であったかを知るのは、後年になってからであった。 継之助は、談判決裂後、戦いに反対した河島億次郎(三島億二郎)に、「我を斬り、三万両とともに首を差し出せば戦争は避けられる」と言ったが、川島は「是非もなし。死生を供にせん」と応じ、長岡藩は壮烈な北越戊辰戦争へと舵を斬ることとなった。まさに、この瞬間、歴史は動いたのであった。💥💥💥 激戦の榎峠・朝日山の戦い ↓ 長岡城落城 ↓ 加茂軍議・今町の戦い ↓ 悲願の長岡城奪還 七月二十四日、六百名を越える長岡藩兵が闇夜に紛れ、息を潜めて魔物が棲むと言われた大湿地帯であるハ丁沖を渡り始めた。継之助の綿密な調査の上での、長岡城奪還作戦である。💥💥💥 翌朝、対岸の冨島村に上陸すると、一斉に襲撃を開始、不意を突かれた新政府軍は敗走し、約二ヶ月ぶりに城を奪還したのであった💥💥💥。 城下では町民が酒樽で長岡藩兵を歓迎し、継之助は感激の涙で城内に入ったのであった💥💥💥。 ところが、喜びも束の間、新政府軍の逆襲💥💥。継之助は特に激しい新町口に兵を集め赴いた、ダーン💥 左膝に弾丸が命中、重傷を負ったのであります。 総指揮官の負傷で長岡藩の士気は一気に衰え、戦況も悪化の一途。 奪還から僅か四日で再び落城したのであります。 継之助は担架に乗せられ、見附、栃尾を経て、八十里越の起点、吉ヶ平に入った。💥 八十里越は、越後と会津の交易の街道💥、実際は八里だが一里が十里にも感じられる険しい難所であった。💥継之助は悪路に揺られながら 「八十里 腰抜け武士の 越す峠」 と自嘲の句を詠んだ。💥💥💥 さて、いよいよ舞台は福島・只見へと移し、いかなる運命が継之助を待ち構えているのか………。💥💥💥💥💥💥💥💥💥💥💥💥💥💥💥💥 今宵はこの辺にしとうございまする🙇⤵️⤵️ スナフキンの独り言 これはもしかしたら“峠 最後のサムライ”のプロモーションでは😅
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