小野上温泉駅(8:20)---作間神社(8:40)---岩井堂山(9:25)---標高600m圏峰(10:55)---唐沢山(11:25)---村上採石場(12:10)---小野上温泉駅(12:45) 春になると行きたくなるのが岩櫃山で、これ迄も二回ほど、三月の頃合いに登っている。断崖犇めく岩稜を攀じ登るのも愉しいが、山麓から異形の山容を眺める早春の空気感が、なんとも云えず心地好い。 そんな岩櫃山に、春先にしか行ったことがないので、たまには違う季節に登ってみようと思い立ち、最後に訪れたのは、一昨年の秋であった。 群馬県吾妻郡東吾妻町。都心から移動するには、かなりの距離があるにも係わらず、この年は春と秋に、岩櫃山に登った訳である。 累計三回の岩櫃山登山は、いずれも有意義な行程であった。そして、何度も行きたいなと思わせる理由のひとつが、帰途に立ち寄る小野上温泉の存在である。 吾妻線の小駅、その名も小野上温泉駅からほど近い処にある温泉施設は、特に鄙びて情緒があると云う訳でもない。畑の中にぽつねんとして存在する小野上温泉の周辺は、何も無い処である。 駅に温泉場の名が付されているにも係わらず、殆どの入湯者は小野上温泉に、自家用車で訪れる。私が初めて小野上温泉駅に降り立った時も、下車した客は皆無であった。 有人駅だった頃の切符売場が、観光案内所となっている。珍しく旅行客が下車してきたなと云う表情で、案内所の女性が待合室に出てきた。 それで、温泉に入りたい旨を伝えると、えっ、本当ですかと驚き、温泉施設「さちの湯」迄、一緒に歩いて案内してくれた。 温泉に入り、山帰りの心地好い疲労感が、緩やかに溶解していくようだった。所謂、コロナ禍の世情が始まったばかりの頃である。窮屈な雰囲気の日常で疲弊した心身が慰撫されるような、旅の終わりの気分であった。 春の風に誘われて、久しぶりの岩櫃山に登ろうかなと云う想念は、小野上温泉入湯に対する憧憬も、多分に含まれている。 【岩櫃山と小野上温泉】https://yamap.com/activities/5892474 そんな感じで岩櫃山の回想は終わり、ザックの中に風呂関連の装備を加えるなどして準備しているうちに、そう云えばと、岩井堂砦のことを思い出した。 軍事的要衝地点に物見台を設えた岩井堂砦。吾妻川左岸に落ちていく尾根の末端が、峻険な岩山になっており、小野上温泉からほど近い場所に在る。 戦国大名の陣取り合戦に思いを馳せる、と云う趣味は持ち合わせないが、顕著な岩峰は気になる。それで二年前の秋、小野上温泉に立ち寄った際に、登ってみた。 登山道が整備されていると云う情報を、案内所女史から得ていたので、大したことは無いだろうと思っていた。しかし、岩崖を辿る遊歩道は鎖の手摺りが続き、烽火台が在ったと思しき平坦地の先は、設置された鎖で垂直の岩壁を攀じ登ると云う、厳しい行程となった。 狼煙洞の先に現われた岩崖には、古びた残置ロープが垂れ下がっている。この先は、行政の管理下に置かれたハイキングコースでは無い。 登ってみても、その先が不明瞭であり、このロープで下降して戻ってくるのも不安である。それで、断念することにしたのだった。 【岩井堂砦・小野上温泉再訪】https://yamap.com/activities/8174622 岩井堂砦の在る岩峰の頂上は標高458.9mで、三角点が設置されている。当時は山名が付与されていなかったが、現在はYAMAPで「岩井堂山」の表記が有る。 果たして、山頂に登ることが出来るのだろうか。調べてみると、訪れた人の殆どが、私と同様に、狼煙洞の先で断念していた。果敢にも、あのロープを使い突破するが、その先で撤退と云う記録が数件あり、さもありなんと思わせる。 砦からの直登で頂上に達した人の記録も、数件アップされているが、何れも行程の詳細は不明であった。危険な岩登りが待ち受けているのは必至で、せっかくの踏破記録の表現が曖昧模糊としているのは残念である。 何れにしても、岩井堂砦からの登頂は、自重すべきだろうなと思う。頂上に立つ為には、東の尾根を伝っていくのが現実的だと考えられた。 ふたたびYAMAPの記録を探してみると、麓の作間神社から、谷筋を伝い尾根に乗り、岩井堂山に登頂したと云う記録が一件見つかった。簡単ではない様子も伝わり、有益な記録である。 岩井堂山のことを考えているうちに、気持ちが徐々に傾いていった。小野上温泉駅に下車して、岩井堂山を目指す。登頂の可否に係わらず、時間はそれほど掛からない。余った時間は、並行する岩尾根に在る、古城台散策コースに充てればよい。 それで、岩櫃山はどうするのかと云うことになるが、それは次の機会に譲ることにしようと思う。出来れば、桜の咲く頃合いに、郷原駅から歩いてみたいな、とも思う。 小野上温泉の周縁を歩くことに決めて、山行の目的が具体的になった。既に有意義な気分である。未踏の奇峰、岩井堂砦の最高地点に、果たして登頂することが出来るのだろうか。それは、登ってみなければ判らない。
山手線の始発に乗車して、赤羽で高崎線に乗り換えた。コロナ禍が慢性化して、「まん延防止等重点措置」適用期間が延長しているにも係わらず、未明の街に人が多くて戸惑う。勿論私も、その中のひとりなのだけれど。 高崎駅でかき揚げ蕎麦を食し、万全の状態で吾妻線直通電車に乗り込む。新前橋を過ぎて、赤城山が近づいてくるが、靄靄として輪郭が判然としない車窓風景であった。 久しぶりに訪れた小野上温泉駅。朝の早い時刻の所為か、観光案内所はシャッターが閉じて、誰も居ない。 身支度を整えて駅前に出ると、珍しいものを見るかのように一瞥されて、農作業に向かう軽トラックが通り過ぎた。 農道を歩いて踏切に向かうと、岩井堂山の姿が現われる。近いようで遠い、道のりである。
山手線の始発に乗車して、赤羽で高崎線に乗り換えた。コロナ禍が慢性化して、「まん延防止等重点措置」適用期間が延長しているにも係わらず、未明の街に人が多くて戸惑う。勿論私も、その中のひとりなのだけれど。 高崎駅でかき揚げ蕎麦を食し、万全の状態で吾妻線直通電車に乗り込む。新前橋を過ぎて、赤城山が近づいてくるが、靄靄として輪郭が判然としない車窓風景であった。 久しぶりに訪れた小野上温泉駅。朝の早い時刻の所為か、観光案内所はシャッターが閉じて、誰も居ない。 身支度を整えて駅前に出ると、珍しいものを見るかのように一瞥されて、農作業に向かう軽トラックが通り過ぎた。 農道を歩いて踏切に向かうと、岩井堂山の姿が現われる。近いようで遠い、道のりである。
踏切を渡り、国道353号に出ると、作間神社の参道入口を示す鳥居が立っている。
踏切を渡り、国道353号に出ると、作間神社の参道入口を示す鳥居が立っている。
蛇行する石段を登り、推定樹齢三百年以上と云う大欅が、厳かに並立する作間神社に到着。 参拝して道中の無事を祈り、裏手に続く舗道に足を踏み入れた。道は最奥の民家で途切れるが、作間沢川に下ると橋が架かっている。 対岸に渡ると、杣道が辿っていた。
蛇行する石段を登り、推定樹齢三百年以上と云う大欅が、厳かに並立する作間神社に到着。 参拝して道中の無事を祈り、裏手に続く舗道に足を踏み入れた。道は最奥の民家で途切れるが、作間沢川に下ると橋が架かっている。 対岸に渡ると、杣道が辿っていた。
踏路は墓地で消失したが、その儘谷筋を辿っていく。倒木が顕著となり、鬱蒼とした雰囲気になったので、早々に尾根上を辿る方が得策のように思えた。
踏路は墓地で消失したが、その儘谷筋を辿っていく。倒木が顕著となり、鬱蒼とした雰囲気になったので、早々に尾根上を辿る方が得策のように思えた。
ターンバックの恰好で急勾配を攀じ登り、陽当たりの良い尾根上に出る。そして、倒木と藪状の枯枝を掻い潜り、黙々と登り続けた。
ターンバックの恰好で急勾配を攀じ登り、陽当たりの良い尾根上に出る。そして、倒木と藪状の枯枝を掻い潜り、黙々と登り続けた。
順調に尾根登りが進捗して、標高400mに達する。右手に古城台の天狗岩、そして左手には、目指す岩井堂山の頂点と思しき、巨岩の塊を見るようになった。
順調に尾根登りが進捗して、標高400mに達する。右手に古城台の天狗岩、そして左手には、目指す岩井堂山の頂点と思しき、巨岩の塊を見るようになった。
作間神社から、およそ三十分が経過して、岩井堂山の東側に延びる尾根に合流した。 登る前は戦々恐々の思いだったが、目的の尾根に乗ってしまうと、臆面も無く、随分呆気無い感じで到達したな、と云う気分になる。 北面の山なみを枯木越しに見て、鞍部に降りていく。そして、岩井堂山の全容を見上げた。 急斜面が、北面に突き出た岩峰に向かっている。山頂域に至る細尾根には、南側をトラバースしていく踏跡も窺えたが、折角なので岩峰に直登してみることにした。
作間神社から、およそ三十分が経過して、岩井堂山の東側に延びる尾根に合流した。 登る前は戦々恐々の思いだったが、目的の尾根に乗ってしまうと、臆面も無く、随分呆気無い感じで到達したな、と云う気分になる。 北面の山なみを枯木越しに見て、鞍部に降りていく。そして、岩井堂山の全容を見上げた。 急斜面が、北面に突き出た岩峰に向かっている。山頂域に至る細尾根には、南側をトラバースしていく踏跡も窺えたが、折角なので岩峰に直登してみることにした。
地形図の崖印が示す通りで、登り詰めた岩峰の北面は、断崖の淵であった。 巨岩の陰から吾妻川の流れを、恐る恐る垣間見る。岩の要塞に張り付いているのだな、と云う実感が湧いてくる眺めであった。
地形図の崖印が示す通りで、登り詰めた岩峰の北面は、断崖の淵であった。 巨岩の陰から吾妻川の流れを、恐る恐る垣間見る。岩の要塞に張り付いているのだな、と云う実感が湧いてくる眺めであった。
断崖の南側を慎重にトラバースして、巨岩の反対側に出ると、遮るもののない絶景が広がった。 彼方に聳える、草津白根の銀嶺に目を奪われる。そして前衛の山々の、更に手前の左手に見えるのが、岩櫃山である。 渋川の白井城、そして前橋迄睥睨したと云う岩井堂砦。岩櫃城に烽火のサインを送る、絶好の立地であることが、明確に理解できる眺望であった。
断崖の南側を慎重にトラバースして、巨岩の反対側に出ると、遮るもののない絶景が広がった。 彼方に聳える、草津白根の銀嶺に目を奪われる。そして前衛の山々の、更に手前の左手に見えるのが、岩櫃山である。 渋川の白井城、そして前橋迄睥睨したと云う岩井堂砦。岩櫃城に烽火のサインを送る、絶好の立地であることが、明確に理解できる眺望であった。
岩稜の山頂域を辿り、頂点の岩塊が見えてくる。いよいよだな、と思う。
岩稜の山頂域を辿り、頂点の岩塊が見えてくる。いよいよだな、と思う。
標高458.9mの三角点。岩井堂山に登頂した。板片に手書きの、稚拙な手製山名標には、何故か454mと記されている。 山頂は潅木の枯木に囲まれて、全方位を明瞭に見渡すことは出来ないが、今は戦乱の世では無いので、その必要も無い。
標高458.9mの三角点。岩井堂山に登頂した。板片に手書きの、稚拙な手製山名標には、何故か454mと記されている。 山頂は潅木の枯木に囲まれて、全方位を明瞭に見渡すことは出来ないが、今は戦乱の世では無いので、その必要も無い。
小休止の後、砦に下降出来そうな道筋を探そうと思い、尖塔のような巨岩を廻り込んで辿ってみる。しかし、それも程無く諦めることになった。 岩井堂山の山頂直下は、何れも峻険な断崖で構成されていた。改めて、岩の要塞なんだなと、首肯できる光景なのであった。
小休止の後、砦に下降出来そうな道筋を探そうと思い、尖塔のような巨岩を廻り込んで辿ってみる。しかし、それも程無く諦めることになった。 岩井堂山の山頂直下は、何れも峻険な断崖で構成されていた。改めて、岩の要塞なんだなと、首肯できる光景なのであった。
主目的の岩井堂山登頂を果たして、時刻は未だ午前九時半である。余った時間は古城台の散策で、お茶を濁そうかなどと考えていたが、北面に見る対岸の尾根のピーク、標高点677mの唐沢山に登ってみたくなった。 岩井堂と市城(いちしろ)を分ける谷を挟んで対峙する山を巡り、南西の尾根を下れば、ラウンドトリップの尾根歩きを完遂出来そうである。 そうは云っても、未踏の尾根がどうなっているのかは、判らない。岩井堂山から続く尾根を歩いて困難極まれば、何処かでエスケープしよう。そんな心積もりで、出発することにした。 岩井堂山からの復路は、斜面トラバースで鞍部に戻った。登り返して、作間神社から登ってきた支尾根を見送ると、早速巨岩に行手を遮られる。 やはり、簡単な行程では無いようだな。そんな独り言を呟きながら、南面に迂回して露岩をパスしていった。
主目的の岩井堂山登頂を果たして、時刻は未だ午前九時半である。余った時間は古城台の散策で、お茶を濁そうかなどと考えていたが、北面に見る対岸の尾根のピーク、標高点677mの唐沢山に登ってみたくなった。 岩井堂と市城(いちしろ)を分ける谷を挟んで対峙する山を巡り、南西の尾根を下れば、ラウンドトリップの尾根歩きを完遂出来そうである。 そうは云っても、未踏の尾根がどうなっているのかは、判らない。岩井堂山から続く尾根を歩いて困難極まれば、何処かでエスケープしよう。そんな心積もりで、出発することにした。 岩井堂山からの復路は、斜面トラバースで鞍部に戻った。登り返して、作間神社から登ってきた支尾根を見送ると、早速巨岩に行手を遮られる。 やはり、簡単な行程では無いようだな。そんな独り言を呟きながら、南面に迂回して露岩をパスしていった。
トラバースを余儀なくされる露岩が、更に一箇所在り、標高440m圏の瘤を通過すると、尾根は徐々に東北東に角度を変えていく。 緩やかな踏路が尽きて断崖の淵に達すると、対岸の正面に、古城台の天狗岩が佇立していた。
トラバースを余儀なくされる露岩が、更に一箇所在り、標高440m圏の瘤を通過すると、尾根は徐々に東北東に角度を変えていく。 緩やかな踏路が尽きて断崖の淵に達すると、対岸の正面に、古城台の天狗岩が佇立していた。
断崖絶壁の地点から、尾根は転進するようにして、北東に下っていく。樹林帯が尽きると、明るい鞍部に出た。 陽当たりの良い鞍部の先は、蔦が絡まるようにして薮状に覆われている。 尾根巡りを諦めて、古城台方面にエスケープする場合は、この鞍部が最有力候補地点であった。しかし、尾根から逃げようにも、苛烈な薮が広がっている。そして、尾根を離れたとしても、作間沢川を渡渉しなければならず、谷筋を簡単に下ることが出来るとは限らない。 何れにしても、この薮を突破しなければ、何も始まらない。意を決して、猛烈な薮を掻き分け、尾根を登り返すことにした。 荊棘の入り混じった薮の勾配を、声にならない声を上げながら登っていった。漸くそれも落ち着いて、振り返る。 岩崖の尾根分岐点から下降する経路は、枯芒のような色彩で覆われていた。薮状の尾根道を俯瞰して、立ち尽くす。そして、困憊の溜息を吐いた。
断崖絶壁の地点から、尾根は転進するようにして、北東に下っていく。樹林帯が尽きると、明るい鞍部に出た。 陽当たりの良い鞍部の先は、蔦が絡まるようにして薮状に覆われている。 尾根巡りを諦めて、古城台方面にエスケープする場合は、この鞍部が最有力候補地点であった。しかし、尾根から逃げようにも、苛烈な薮が広がっている。そして、尾根を離れたとしても、作間沢川を渡渉しなければならず、谷筋を簡単に下ることが出来るとは限らない。 何れにしても、この薮を突破しなければ、何も始まらない。意を決して、猛烈な薮を掻き分け、尾根を登り返すことにした。 荊棘の入り混じった薮の勾配を、声にならない声を上げながら登っていった。漸くそれも落ち着いて、振り返る。 岩崖の尾根分岐点から下降する経路は、枯芒のような色彩で覆われていた。薮状の尾根道を俯瞰して、立ち尽くす。そして、困憊の溜息を吐いた。
薮道から開放されて、今度は砂礫と枯葉の急登になる。標高差およそ30mを、間断無く急勾配が続き、標高460m附近で、漸く平坦地に乗り上げる。 薮状の鞍部から此処迄、僅か十数分しか経過していない。それが、なんだか信じ難いような気分であった。
薮道から開放されて、今度は砂礫と枯葉の急登になる。標高差およそ30mを、間断無く急勾配が続き、標高460m附近で、漸く平坦地に乗り上げる。 薮状の鞍部から此処迄、僅か十数分しか経過していない。それが、なんだか信じ難いような気分であった。
北上する尾根は、徐々に方角を西向きに変えながら、標高を上げていく。等高線の閉じる、標高480m圏の瘤山がふたつ並んでいる。岩井堂山と唐沢山の中間に差し掛かろうと云う地点であった。 渋川、中之条の市町境界線が尾根に近づくと、緩やかな踏路は終わりを告げる。 右手に小野子山を仰ぎ、左手には剥き出しになった岩崖の山肌が眼を惹く。 斜面を実直に登り続けて、露岩のスケールも大きくなり、唐沢山の手前に在る、標高600m圏峰が近づいてきた。
北上する尾根は、徐々に方角を西向きに変えながら、標高を上げていく。等高線の閉じる、標高480m圏の瘤山がふたつ並んでいる。岩井堂山と唐沢山の中間に差し掛かろうと云う地点であった。 渋川、中之条の市町境界線が尾根に近づくと、緩やかな踏路は終わりを告げる。 右手に小野子山を仰ぎ、左手には剥き出しになった岩崖の山肌が眼を惹く。 斜面を実直に登り続けて、露岩のスケールも大きくなり、唐沢山の手前に在る、標高600m圏峰が近づいてきた。
東側の尾根が収斂して、標高600m圏のピークに到達した。狭い山頂で岩に座り、束の間の休息となる。 唐沢山南面の断崖。その向こうに、浅間山が遠望出来る。実際の標高以上に、高い処に居るような感覚になる眺望だった。
東側の尾根が収斂して、標高600m圏のピークに到達した。狭い山頂で岩に座り、束の間の休息となる。 唐沢山南面の断崖。その向こうに、浅間山が遠望出来る。実際の標高以上に、高い処に居るような感覚になる眺望だった。
標高600m圏峰の尾根を、唐沢山に向かって辿る。崖に囲まれ、極端に細長い尾根である。 渡り廊下のような尾根筋を登るほどに、地形図の等高線は、くびれるように細くなって表現されている。 果たしてピークを下り始めて間も無く、岩稜の踏路となっていった。
標高600m圏峰の尾根を、唐沢山に向かって辿る。崖に囲まれ、極端に細長い尾根である。 渡り廊下のような尾根筋を登るほどに、地形図の等高線は、くびれるように細くなって表現されている。 果たしてピークを下り始めて間も無く、岩稜の踏路となっていった。
最初の岩場は、なんとか渡り切るが、続いて現われたナイフリッジには虚を突かれた。 黙考してルートファインディングを行なう。岩の上を少し進んで、右側に足場を見つける。 途中から岩の側面に沿って、これも何とか通過することが出来た。
最初の岩場は、なんとか渡り切るが、続いて現われたナイフリッジには虚を突かれた。 黙考してルートファインディングを行なう。岩の上を少し進んで、右側に足場を見つける。 途中から岩の側面に沿って、これも何とか通過することが出来た。
岩稜の尾根は、いよいよ細くなり、地形図の表現に間違いは無かった。そして、円盤が縦に突き刺さったような岩の突起が出現する。 切れ味の鋭さに見惚れてしまう、文字通りのナイフリッジであった。 見た途端に愕然となり、そして粛然となった。諦めて退くしか無いだろうが、どうやって戻るべきだろうか。 徒労感が、全身に染み渡るような気がした。
岩稜の尾根は、いよいよ細くなり、地形図の表現に間違いは無かった。そして、円盤が縦に突き刺さったような岩の突起が出現する。 切れ味の鋭さに見惚れてしまう、文字通りのナイフリッジであった。 見た途端に愕然となり、そして粛然となった。諦めて退くしか無いだろうが、どうやって戻るべきだろうか。 徒労感が、全身に染み渡るような気がした。
岩稜から少し引き返した処で黙考し、岩尾根の北斜面に、トラバース出来そうな踏路を探す。 砂礫の斜面は歩き難そうだが、手掛かりとなりそうな潅木も有る。来た道を戻る撤退と云う事態は、なんとか回避できそうであった。 ナイフリッジの下方を、ずるずると砂礫に足を取られながら、トラバースを行なう。やっとの思いで登り返すと、岩稜の先に出た。 最難関箇所を通過した瞬間であり、思わず声が出た。 そして、そろそろ下山の算段を考えなければならないなと、思い始めた。先ほどから、隣の尾根を掘削する、重機の音が聞こえている。 気は進まないが、地形図表記の車道が通じている採石場に、降りるしか無いかな、と思うのだった。
岩稜から少し引き返した処で黙考し、岩尾根の北斜面に、トラバース出来そうな踏路を探す。 砂礫の斜面は歩き難そうだが、手掛かりとなりそうな潅木も有る。来た道を戻る撤退と云う事態は、なんとか回避できそうであった。 ナイフリッジの下方を、ずるずると砂礫に足を取られながら、トラバースを行なう。やっとの思いで登り返すと、岩稜の先に出た。 最難関箇所を通過した瞬間であり、思わず声が出た。 そして、そろそろ下山の算段を考えなければならないなと、思い始めた。先ほどから、隣の尾根を掘削する、重機の音が聞こえている。 気は進まないが、地形図表記の車道が通じている採石場に、降りるしか無いかな、と思うのだった。
唐沢山に向けて、最後の登攀に掛かる。露岩の犇く尾根上は、回避せざるを得ない。 東側に延びる尾根との狭間で、相変わらずのトラバースをしながら、尾根復帰を計る。 巨岩の先で尾根上に乗ると、そこは断崖の上であった。榛名の山々を遠望して、眼下には歩いてきた尾根が、大きく迂回して巡っている。 登頂したばかりの岩井堂山が、尾根の末端に屹立している。それを俯瞰して眺めている。
唐沢山に向けて、最後の登攀に掛かる。露岩の犇く尾根上は、回避せざるを得ない。 東側に延びる尾根との狭間で、相変わらずのトラバースをしながら、尾根復帰を計る。 巨岩の先で尾根上に乗ると、そこは断崖の上であった。榛名の山々を遠望して、眼下には歩いてきた尾根が、大きく迂回して巡っている。 登頂したばかりの岩井堂山が、尾根の末端に屹立している。それを俯瞰して眺めている。
標高677mの、唐沢山に登頂した。岩井堂から見上げた山に登り詰めて、充足感に満たされるが、岩稜の連続で、神経が磨り減るような気分でもある。 手製山名標が、木に括られている。潅木に囲まれて、眺望の利かない山頂であった。そして、下山に就いての思索に掛かる。 標高650m圏の山頂域を、西端迄歩き、尾根の様相を確認してみるが、予想通りの急勾配であった。 嘆息しつつ地形図の等高線を辿り、ラウンドトリップの可否を検討してみることにした。 岩井堂方面に南下すると、二分する尾根のどちらを選んでも、岩崖に突き当たるか、訳の判らない谷筋の箇所に下りていくことになりそうである。 市城方面の西尾根を降下して行けば支尾根の派生も無いので、明快に進捗出来そうだが、国道に降り立つ直前に崖印が付いている。 下市城地区の集落が近いので、なんとか下山できそうだが、小野上温泉に至る、長い国道歩きが嫌である。 山頂に戻って北北東の尾根を下り、採石場の車道を歩くのが無難であることを、再認識した結論であった。
標高677mの、唐沢山に登頂した。岩井堂から見上げた山に登り詰めて、充足感に満たされるが、岩稜の連続で、神経が磨り減るような気分でもある。 手製山名標が、木に括られている。潅木に囲まれて、眺望の利かない山頂であった。そして、下山に就いての思索に掛かる。 標高650m圏の山頂域を、西端迄歩き、尾根の様相を確認してみるが、予想通りの急勾配であった。 嘆息しつつ地形図の等高線を辿り、ラウンドトリップの可否を検討してみることにした。 岩井堂方面に南下すると、二分する尾根のどちらを選んでも、岩崖に突き当たるか、訳の判らない谷筋の箇所に下りていくことになりそうである。 市城方面の西尾根を降下して行けば支尾根の派生も無いので、明快に進捗出来そうだが、国道に降り立つ直前に崖印が付いている。 下市城地区の集落が近いので、なんとか下山できそうだが、小野上温泉に至る、長い国道歩きが嫌である。 山頂に戻って北北東の尾根を下り、採石場の車道を歩くのが無難であることを、再認識した結論であった。
標高677m点から、北東方面を窺う。明快な尾根分岐と云う印象では無いが、木立ちの向こうに採石場を見て、下り始めた。 喧しい重機の音が響き渡る尾根を、複雑な気持ちで歩き続ける。 戦乱の世に要衝として聳えた岩井堂砦の峰から、険しい尾根を辿ってきたのだが、そんな感慨も消し飛んでしまいそうな、情緒の無さであった。
標高677m点から、北東方面を窺う。明快な尾根分岐と云う印象では無いが、木立ちの向こうに採石場を見て、下り始めた。 喧しい重機の音が響き渡る尾根を、複雑な気持ちで歩き続ける。 戦乱の世に要衝として聳えた岩井堂砦の峰から、険しい尾根を辿ってきたのだが、そんな感慨も消し飛んでしまいそうな、情緒の無さであった。
樹林越しに窺えた小野子三山も姿を消して、標高は徐々に下がっていく。自然林の明るい鞍部は、採石場の雑音が無ければ、さぞかし穏やかな風情だろうなと思う処であった。
樹林越しに窺えた小野子三山も姿を消して、標高は徐々に下がっていく。自然林の明るい鞍部は、採石場の雑音が無ければ、さぞかし穏やかな風情だろうなと思う処であった。
茫洋として広がる鞍部からの谷筋を辿ると、踏跡が左岸に沿って続いている。採石場の車道に併行するかのような軌跡を、GPSが示している。 この儘いにしえの岨道が続くのであれば好都合だが、やがて猛烈な薮に覆われて遮断されてしまった。 止むを得ず、泥状になった砕石が入り混じる斜面を、攀じ登ることになった。難渋して未舗装の車道に達するが、周囲は薮に覆われている。使用されなくなった作業道の薮は苛烈で、荊棘が腕に纏わり付いて身動きが取れない。 そうは云っても、動かない儘ではどうにもならず、もがき苦しんでイバラの網を突破すると、採石場に分岐する舗道の終点に達した。土煙が蔓延して、視界が霞む作業現場である。 山上にも響き渡っていた重機の稼動音は、ぴたりと止んでいる。時刻は正午を過ぎたばかりで、休憩時間に入っているようであった。不幸中の幸いである。
茫洋として広がる鞍部からの谷筋を辿ると、踏跡が左岸に沿って続いている。採石場の車道に併行するかのような軌跡を、GPSが示している。 この儘いにしえの岨道が続くのであれば好都合だが、やがて猛烈な薮に覆われて遮断されてしまった。 止むを得ず、泥状になった砕石が入り混じる斜面を、攀じ登ることになった。難渋して未舗装の車道に達するが、周囲は薮に覆われている。使用されなくなった作業道の薮は苛烈で、荊棘が腕に纏わり付いて身動きが取れない。 そうは云っても、動かない儘ではどうにもならず、もがき苦しんでイバラの網を突破すると、採石場に分岐する舗道の終点に達した。土煙が蔓延して、視界が霞む作業現場である。 山上にも響き渡っていた重機の稼動音は、ぴたりと止んでいる。時刻は正午を過ぎたばかりで、休憩時間に入っているようであった。不幸中の幸いである。
掘削して造成された尾根の舗道を下っていくと、歩いてきたナイフリッジの尾根が、対岸に聳えているのを見る。 なかなかの眺望なのだけれど、粉塵の余韻漂う空気で居心地は良くない。早く採石場の敷地を、脱出しなければならない。
掘削して造成された尾根の舗道を下っていくと、歩いてきたナイフリッジの尾根が、対岸に聳えているのを見る。 なかなかの眺望なのだけれど、粉塵の余韻漂う空気で居心地は良くない。早く採石場の敷地を、脱出しなければならない。
開いていたゲートを抜けると、村上採石場の看板が掲げられていた。関係者以外立入禁止、そして「登山道まで行けません」の但し書きも付帯している。 今回は止むを得ない下山路として使用したが、御説御尤もである。
開いていたゲートを抜けると、村上採石場の看板が掲げられていた。関係者以外立入禁止、そして「登山道まで行けません」の但し書きも付帯している。 今回は止むを得ない下山路として使用したが、御説御尤もである。
十二ヶ岳登山口から続いている車道を、延々と歩いていく。古城台の散策は、次の機会に譲ることにして、小野上温泉に戻ろうと思う。岩崖の淵を眺めながらの、作間沢川に沿う舗道歩きとなった。 下っているから呑気に歩いているものの、これを十二ヶ岳迄歩くのは、少し苦痛かもしれないなと思う。いつかは小野子三山を登らねばならないが、どうしようかな、などと考えながら歩くのであった。
十二ヶ岳登山口から続いている車道を、延々と歩いていく。古城台の散策は、次の機会に譲ることにして、小野上温泉に戻ろうと思う。岩崖の淵を眺めながらの、作間沢川に沿う舗道歩きとなった。 下っているから呑気に歩いているものの、これを十二ヶ岳迄歩くのは、少し苦痛かもしれないなと思う。いつかは小野子三山を登らねばならないが、どうしようかな、などと考えながら歩くのであった。
交差点を右折して集落に入ると、双体道祖神がひっそりと佇んでいる。作間神社に、なんとか無事戻ってきた。 御礼の参拝を済ませて、参道の石段を下っていく。
交差点を右折して集落に入ると、双体道祖神がひっそりと佇んでいる。作間神社に、なんとか無事戻ってきた。 御礼の参拝を済ませて、参道の石段を下っていく。
二年ぶりの小野上温泉。温泉施設の名称は「ハタの湯」に変わっている。昨年リニューアルされたと云うことだが、何が新しくなったのかは判然としない。 浴後休憩用のお座敷宴会場を見ると、半分が椅子席になり、なんだか大仰なマッサージチェアが、窓際に設置されていた。 特にどうと云うことの無い、日帰り温泉施設だが、なんとなく気分が落ち着いてしまう小野上温泉であった。 露天風呂は、ほどよいぬる湯であり、効能を「美肌」と称する、柔らかい湯ざわりと云うのが実感できる。 惜しむらくは、一昨年はそんなことは無かったのに、缶ビールの自販機が販売休止中と云うことであった。 来月も再訪しようと思っているが、湯上がりのビール無しだと、ちょっと考えてしまうところである。「まん延防止等重点措置」の再延長は、どうやら無さそうな風向きである。期待したい。 湯上がりの心地好い気分の儘、吾妻線の小野上温泉駅に歩いていく。駅舎に入ると、観光案内所のシャッターは閉じた儘で、誰も居ない。 窓口委託業務も、廃止されてしまったのだろうか。案内所女史に、岩井堂山のことを伝えたかったなと思うが、誰も居ないので止むを得ない。 ところで、上り電車の到着時刻を過ぎたが、全然音沙汰が無い。暫らくして、無人駅のスピーカーから、列車遅延のアナウンスが流れる。 宮原と上尾駅の間で線路内に自転車が放置され、電車が衝突すると云う事故があり、午前中の高崎線は運転再開迄、かなりの時間を要したようであった。 その影響だろうが、数少ない吾妻線の電車も、なかなかやってこない。こんなことなら、ハタの湯の大広間で、昼寝でもしていたかったなと思うが、どうしようもない。 約三十分の遅れで、新前橋行きがやってきた。通常ダイヤであれば、効率よく乗り換えの便が接続しているのだが、新前橋と高崎で待たされた挙句、湘南新宿ラインには乗車出来なかった。 高崎駅構内で、お預けを喰っていた缶ビールに有り付く。少し空腹感も覚えるが、朝と同じかき揚げ蕎麦を食すのも、間抜けのような気がする。 目的の山に登り、温泉も堪能したと云うのに、なんだか、当てが外れたような気分で、帰京の途に就いたのであった。
二年ぶりの小野上温泉。温泉施設の名称は「ハタの湯」に変わっている。昨年リニューアルされたと云うことだが、何が新しくなったのかは判然としない。 浴後休憩用のお座敷宴会場を見ると、半分が椅子席になり、なんだか大仰なマッサージチェアが、窓際に設置されていた。 特にどうと云うことの無い、日帰り温泉施設だが、なんとなく気分が落ち着いてしまう小野上温泉であった。 露天風呂は、ほどよいぬる湯であり、効能を「美肌」と称する、柔らかい湯ざわりと云うのが実感できる。 惜しむらくは、一昨年はそんなことは無かったのに、缶ビールの自販機が販売休止中と云うことであった。 来月も再訪しようと思っているが、湯上がりのビール無しだと、ちょっと考えてしまうところである。「まん延防止等重点措置」の再延長は、どうやら無さそうな風向きである。期待したい。 湯上がりの心地好い気分の儘、吾妻線の小野上温泉駅に歩いていく。駅舎に入ると、観光案内所のシャッターは閉じた儘で、誰も居ない。 窓口委託業務も、廃止されてしまったのだろうか。案内所女史に、岩井堂山のことを伝えたかったなと思うが、誰も居ないので止むを得ない。 ところで、上り電車の到着時刻を過ぎたが、全然音沙汰が無い。暫らくして、無人駅のスピーカーから、列車遅延のアナウンスが流れる。 宮原と上尾駅の間で線路内に自転車が放置され、電車が衝突すると云う事故があり、午前中の高崎線は運転再開迄、かなりの時間を要したようであった。 その影響だろうが、数少ない吾妻線の電車も、なかなかやってこない。こんなことなら、ハタの湯の大広間で、昼寝でもしていたかったなと思うが、どうしようもない。 約三十分の遅れで、新前橋行きがやってきた。通常ダイヤであれば、効率よく乗り換えの便が接続しているのだが、新前橋と高崎で待たされた挙句、湘南新宿ラインには乗車出来なかった。 高崎駅構内で、お預けを喰っていた缶ビールに有り付く。少し空腹感も覚えるが、朝と同じかき揚げ蕎麦を食すのも、間抜けのような気がする。 目的の山に登り、温泉も堪能したと云うのに、なんだか、当てが外れたような気分で、帰京の途に就いたのであった。
山手線の始発に乗車して、赤羽で高崎線に乗り換えた。コロナ禍が慢性化して、「まん延防止等重点措置」適用期間が延長しているにも係わらず、未明の街に人が多くて戸惑う。勿論私も、その中のひとりなのだけれど。 高崎駅でかき揚げ蕎麦を食し、万全の状態で吾妻線直通電車に乗り込む。新前橋を過ぎて、赤城山が近づいてくるが、靄靄として輪郭が判然としない車窓風景であった。 久しぶりに訪れた小野上温泉駅。朝の早い時刻の所為か、観光案内所はシャッターが閉じて、誰も居ない。 身支度を整えて駅前に出ると、珍しいものを見るかのように一瞥されて、農作業に向かう軽トラックが通り過ぎた。 農道を歩いて踏切に向かうと、岩井堂山の姿が現われる。近いようで遠い、道のりである。
踏切を渡り、国道353号に出ると、作間神社の参道入口を示す鳥居が立っている。
蛇行する石段を登り、推定樹齢三百年以上と云う大欅が、厳かに並立する作間神社に到着。 参拝して道中の無事を祈り、裏手に続く舗道に足を踏み入れた。道は最奥の民家で途切れるが、作間沢川に下ると橋が架かっている。 対岸に渡ると、杣道が辿っていた。
踏路は墓地で消失したが、その儘谷筋を辿っていく。倒木が顕著となり、鬱蒼とした雰囲気になったので、早々に尾根上を辿る方が得策のように思えた。
ターンバックの恰好で急勾配を攀じ登り、陽当たりの良い尾根上に出る。そして、倒木と藪状の枯枝を掻い潜り、黙々と登り続けた。
順調に尾根登りが進捗して、標高400mに達する。右手に古城台の天狗岩、そして左手には、目指す岩井堂山の頂点と思しき、巨岩の塊を見るようになった。
作間神社から、およそ三十分が経過して、岩井堂山の東側に延びる尾根に合流した。 登る前は戦々恐々の思いだったが、目的の尾根に乗ってしまうと、臆面も無く、随分呆気無い感じで到達したな、と云う気分になる。 北面の山なみを枯木越しに見て、鞍部に降りていく。そして、岩井堂山の全容を見上げた。 急斜面が、北面に突き出た岩峰に向かっている。山頂域に至る細尾根には、南側をトラバースしていく踏跡も窺えたが、折角なので岩峰に直登してみることにした。
地形図の崖印が示す通りで、登り詰めた岩峰の北面は、断崖の淵であった。 巨岩の陰から吾妻川の流れを、恐る恐る垣間見る。岩の要塞に張り付いているのだな、と云う実感が湧いてくる眺めであった。
断崖の南側を慎重にトラバースして、巨岩の反対側に出ると、遮るもののない絶景が広がった。 彼方に聳える、草津白根の銀嶺に目を奪われる。そして前衛の山々の、更に手前の左手に見えるのが、岩櫃山である。 渋川の白井城、そして前橋迄睥睨したと云う岩井堂砦。岩櫃城に烽火のサインを送る、絶好の立地であることが、明確に理解できる眺望であった。
岩稜の山頂域を辿り、頂点の岩塊が見えてくる。いよいよだな、と思う。
標高458.9mの三角点。岩井堂山に登頂した。板片に手書きの、稚拙な手製山名標には、何故か454mと記されている。 山頂は潅木の枯木に囲まれて、全方位を明瞭に見渡すことは出来ないが、今は戦乱の世では無いので、その必要も無い。
小休止の後、砦に下降出来そうな道筋を探そうと思い、尖塔のような巨岩を廻り込んで辿ってみる。しかし、それも程無く諦めることになった。 岩井堂山の山頂直下は、何れも峻険な断崖で構成されていた。改めて、岩の要塞なんだなと、首肯できる光景なのであった。
主目的の岩井堂山登頂を果たして、時刻は未だ午前九時半である。余った時間は古城台の散策で、お茶を濁そうかなどと考えていたが、北面に見る対岸の尾根のピーク、標高点677mの唐沢山に登ってみたくなった。 岩井堂と市城(いちしろ)を分ける谷を挟んで対峙する山を巡り、南西の尾根を下れば、ラウンドトリップの尾根歩きを完遂出来そうである。 そうは云っても、未踏の尾根がどうなっているのかは、判らない。岩井堂山から続く尾根を歩いて困難極まれば、何処かでエスケープしよう。そんな心積もりで、出発することにした。 岩井堂山からの復路は、斜面トラバースで鞍部に戻った。登り返して、作間神社から登ってきた支尾根を見送ると、早速巨岩に行手を遮られる。 やはり、簡単な行程では無いようだな。そんな独り言を呟きながら、南面に迂回して露岩をパスしていった。
トラバースを余儀なくされる露岩が、更に一箇所在り、標高440m圏の瘤を通過すると、尾根は徐々に東北東に角度を変えていく。 緩やかな踏路が尽きて断崖の淵に達すると、対岸の正面に、古城台の天狗岩が佇立していた。
断崖絶壁の地点から、尾根は転進するようにして、北東に下っていく。樹林帯が尽きると、明るい鞍部に出た。 陽当たりの良い鞍部の先は、蔦が絡まるようにして薮状に覆われている。 尾根巡りを諦めて、古城台方面にエスケープする場合は、この鞍部が最有力候補地点であった。しかし、尾根から逃げようにも、苛烈な薮が広がっている。そして、尾根を離れたとしても、作間沢川を渡渉しなければならず、谷筋を簡単に下ることが出来るとは限らない。 何れにしても、この薮を突破しなければ、何も始まらない。意を決して、猛烈な薮を掻き分け、尾根を登り返すことにした。 荊棘の入り混じった薮の勾配を、声にならない声を上げながら登っていった。漸くそれも落ち着いて、振り返る。 岩崖の尾根分岐点から下降する経路は、枯芒のような色彩で覆われていた。薮状の尾根道を俯瞰して、立ち尽くす。そして、困憊の溜息を吐いた。
薮道から開放されて、今度は砂礫と枯葉の急登になる。標高差およそ30mを、間断無く急勾配が続き、標高460m附近で、漸く平坦地に乗り上げる。 薮状の鞍部から此処迄、僅か十数分しか経過していない。それが、なんだか信じ難いような気分であった。
北上する尾根は、徐々に方角を西向きに変えながら、標高を上げていく。等高線の閉じる、標高480m圏の瘤山がふたつ並んでいる。岩井堂山と唐沢山の中間に差し掛かろうと云う地点であった。 渋川、中之条の市町境界線が尾根に近づくと、緩やかな踏路は終わりを告げる。 右手に小野子山を仰ぎ、左手には剥き出しになった岩崖の山肌が眼を惹く。 斜面を実直に登り続けて、露岩のスケールも大きくなり、唐沢山の手前に在る、標高600m圏峰が近づいてきた。
東側の尾根が収斂して、標高600m圏のピークに到達した。狭い山頂で岩に座り、束の間の休息となる。 唐沢山南面の断崖。その向こうに、浅間山が遠望出来る。実際の標高以上に、高い処に居るような感覚になる眺望だった。
標高600m圏峰の尾根を、唐沢山に向かって辿る。崖に囲まれ、極端に細長い尾根である。 渡り廊下のような尾根筋を登るほどに、地形図の等高線は、くびれるように細くなって表現されている。 果たしてピークを下り始めて間も無く、岩稜の踏路となっていった。
最初の岩場は、なんとか渡り切るが、続いて現われたナイフリッジには虚を突かれた。 黙考してルートファインディングを行なう。岩の上を少し進んで、右側に足場を見つける。 途中から岩の側面に沿って、これも何とか通過することが出来た。
岩稜の尾根は、いよいよ細くなり、地形図の表現に間違いは無かった。そして、円盤が縦に突き刺さったような岩の突起が出現する。 切れ味の鋭さに見惚れてしまう、文字通りのナイフリッジであった。 見た途端に愕然となり、そして粛然となった。諦めて退くしか無いだろうが、どうやって戻るべきだろうか。 徒労感が、全身に染み渡るような気がした。
岩稜から少し引き返した処で黙考し、岩尾根の北斜面に、トラバース出来そうな踏路を探す。 砂礫の斜面は歩き難そうだが、手掛かりとなりそうな潅木も有る。来た道を戻る撤退と云う事態は、なんとか回避できそうであった。 ナイフリッジの下方を、ずるずると砂礫に足を取られながら、トラバースを行なう。やっとの思いで登り返すと、岩稜の先に出た。 最難関箇所を通過した瞬間であり、思わず声が出た。 そして、そろそろ下山の算段を考えなければならないなと、思い始めた。先ほどから、隣の尾根を掘削する、重機の音が聞こえている。 気は進まないが、地形図表記の車道が通じている採石場に、降りるしか無いかな、と思うのだった。
唐沢山に向けて、最後の登攀に掛かる。露岩の犇く尾根上は、回避せざるを得ない。 東側に延びる尾根との狭間で、相変わらずのトラバースをしながら、尾根復帰を計る。 巨岩の先で尾根上に乗ると、そこは断崖の上であった。榛名の山々を遠望して、眼下には歩いてきた尾根が、大きく迂回して巡っている。 登頂したばかりの岩井堂山が、尾根の末端に屹立している。それを俯瞰して眺めている。
標高677mの、唐沢山に登頂した。岩井堂から見上げた山に登り詰めて、充足感に満たされるが、岩稜の連続で、神経が磨り減るような気分でもある。 手製山名標が、木に括られている。潅木に囲まれて、眺望の利かない山頂であった。そして、下山に就いての思索に掛かる。 標高650m圏の山頂域を、西端迄歩き、尾根の様相を確認してみるが、予想通りの急勾配であった。 嘆息しつつ地形図の等高線を辿り、ラウンドトリップの可否を検討してみることにした。 岩井堂方面に南下すると、二分する尾根のどちらを選んでも、岩崖に突き当たるか、訳の判らない谷筋の箇所に下りていくことになりそうである。 市城方面の西尾根を降下して行けば支尾根の派生も無いので、明快に進捗出来そうだが、国道に降り立つ直前に崖印が付いている。 下市城地区の集落が近いので、なんとか下山できそうだが、小野上温泉に至る、長い国道歩きが嫌である。 山頂に戻って北北東の尾根を下り、採石場の車道を歩くのが無難であることを、再認識した結論であった。
標高677m点から、北東方面を窺う。明快な尾根分岐と云う印象では無いが、木立ちの向こうに採石場を見て、下り始めた。 喧しい重機の音が響き渡る尾根を、複雑な気持ちで歩き続ける。 戦乱の世に要衝として聳えた岩井堂砦の峰から、険しい尾根を辿ってきたのだが、そんな感慨も消し飛んでしまいそうな、情緒の無さであった。
樹林越しに窺えた小野子三山も姿を消して、標高は徐々に下がっていく。自然林の明るい鞍部は、採石場の雑音が無ければ、さぞかし穏やかな風情だろうなと思う処であった。
茫洋として広がる鞍部からの谷筋を辿ると、踏跡が左岸に沿って続いている。採石場の車道に併行するかのような軌跡を、GPSが示している。 この儘いにしえの岨道が続くのであれば好都合だが、やがて猛烈な薮に覆われて遮断されてしまった。 止むを得ず、泥状になった砕石が入り混じる斜面を、攀じ登ることになった。難渋して未舗装の車道に達するが、周囲は薮に覆われている。使用されなくなった作業道の薮は苛烈で、荊棘が腕に纏わり付いて身動きが取れない。 そうは云っても、動かない儘ではどうにもならず、もがき苦しんでイバラの網を突破すると、採石場に分岐する舗道の終点に達した。土煙が蔓延して、視界が霞む作業現場である。 山上にも響き渡っていた重機の稼動音は、ぴたりと止んでいる。時刻は正午を過ぎたばかりで、休憩時間に入っているようであった。不幸中の幸いである。
掘削して造成された尾根の舗道を下っていくと、歩いてきたナイフリッジの尾根が、対岸に聳えているのを見る。 なかなかの眺望なのだけれど、粉塵の余韻漂う空気で居心地は良くない。早く採石場の敷地を、脱出しなければならない。
開いていたゲートを抜けると、村上採石場の看板が掲げられていた。関係者以外立入禁止、そして「登山道まで行けません」の但し書きも付帯している。 今回は止むを得ない下山路として使用したが、御説御尤もである。
十二ヶ岳登山口から続いている車道を、延々と歩いていく。古城台の散策は、次の機会に譲ることにして、小野上温泉に戻ろうと思う。岩崖の淵を眺めながらの、作間沢川に沿う舗道歩きとなった。 下っているから呑気に歩いているものの、これを十二ヶ岳迄歩くのは、少し苦痛かもしれないなと思う。いつかは小野子三山を登らねばならないが、どうしようかな、などと考えながら歩くのであった。
交差点を右折して集落に入ると、双体道祖神がひっそりと佇んでいる。作間神社に、なんとか無事戻ってきた。 御礼の参拝を済ませて、参道の石段を下っていく。
二年ぶりの小野上温泉。温泉施設の名称は「ハタの湯」に変わっている。昨年リニューアルされたと云うことだが、何が新しくなったのかは判然としない。 浴後休憩用のお座敷宴会場を見ると、半分が椅子席になり、なんだか大仰なマッサージチェアが、窓際に設置されていた。 特にどうと云うことの無い、日帰り温泉施設だが、なんとなく気分が落ち着いてしまう小野上温泉であった。 露天風呂は、ほどよいぬる湯であり、効能を「美肌」と称する、柔らかい湯ざわりと云うのが実感できる。 惜しむらくは、一昨年はそんなことは無かったのに、缶ビールの自販機が販売休止中と云うことであった。 来月も再訪しようと思っているが、湯上がりのビール無しだと、ちょっと考えてしまうところである。「まん延防止等重点措置」の再延長は、どうやら無さそうな風向きである。期待したい。 湯上がりの心地好い気分の儘、吾妻線の小野上温泉駅に歩いていく。駅舎に入ると、観光案内所のシャッターは閉じた儘で、誰も居ない。 窓口委託業務も、廃止されてしまったのだろうか。案内所女史に、岩井堂山のことを伝えたかったなと思うが、誰も居ないので止むを得ない。 ところで、上り電車の到着時刻を過ぎたが、全然音沙汰が無い。暫らくして、無人駅のスピーカーから、列車遅延のアナウンスが流れる。 宮原と上尾駅の間で線路内に自転車が放置され、電車が衝突すると云う事故があり、午前中の高崎線は運転再開迄、かなりの時間を要したようであった。 その影響だろうが、数少ない吾妻線の電車も、なかなかやってこない。こんなことなら、ハタの湯の大広間で、昼寝でもしていたかったなと思うが、どうしようもない。 約三十分の遅れで、新前橋行きがやってきた。通常ダイヤであれば、効率よく乗り換えの便が接続しているのだが、新前橋と高崎で待たされた挙句、湘南新宿ラインには乗車出来なかった。 高崎駅構内で、お預けを喰っていた缶ビールに有り付く。少し空腹感も覚えるが、朝と同じかき揚げ蕎麦を食すのも、間抜けのような気がする。 目的の山に登り、温泉も堪能したと云うのに、なんだか、当てが外れたような気分で、帰京の途に就いたのであった。