🏯徳島城趾(城山)

2022.02.23(水) 日帰り

活動データ

タイム

02:30

距離

4.4km

のぼり

80m

くだり

79m

チェックポイント

DAY 1
合計時間
2 時間 30
休憩時間
23
距離
4.4 km
のぼり / くだり
80 / 79 m
12
14
1 40
1

活動詳細

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徳島の朝は徳島城と決めていました。早い朝食後、チェックアウトまでに回ってきます。下調べなしに行ったので西二の丸を行かずじまいにしてしまいましたが、ほかはじっくり見て回りました。三角点も見逃さずGET。開館時刻を待って徳島城博物館にも立ち寄ってきました。併設の「史跡旧徳島城表御殿庭園」もなかなかよかったです。 徳島城主蜂須賀家政は愛知県出身で、秀吉に派遣されたということでした。思わぬところでつながりが! それにしても城というのはどこでも地元の方々が日課のように登っていらっしゃる。 日本100名城 ◬「城山」四等三角点 標高61.6m 徳島県徳島市

眉山 「徳島町城内」という地名です。
「徳島町城内」という地名です。
眉山 助任川。
助任川。
眉山 城山の全景が見えるスポットです。
城山の全景が見えるスポットです。
眉山 漁から帰ってきたのか、漁船が2艘
漁から帰ってきたのか、漁船が2艘
眉山 海鳥らしき鳥たちもぎっしり並んでいます
海鳥らしき鳥たちもぎっしり並んでいます
眉山 右手の広場は西の丸屋敷跡と思われます。
右手の広場は西の丸屋敷跡と思われます。
眉山 ここから城山に上がることにします
ここから城山に上がることにします
眉山 車も通れそうですが・・・こうなると無理です。
車も通れそうですが・・・こうなると無理です。
眉山 本丸下の石垣
本丸下の石垣
眉山 本丸跡です。城山の頂上の広い平地
本丸跡です。城山の頂上の広い平地
眉山 でっかい木
でっかい木
眉山 石垣からオーバーハングです。
石垣からオーバーハングです。
眉山 古い柱がヤバくなったのか、内側に新しい囲い
古い柱がヤバくなったのか、内側に新しい囲い
眉山 向こうの眉山はこの城山よりずっと高いです。
向こうの眉山はこの城山よりずっと高いです。
眉山 海。見えてる半分くらいは埋め立てなのでしょうから、昔の殿様はもっと近い海を見ていたと思います。
海。見えてる半分くらいは埋め立てなのでしょうから、昔の殿様はもっと近い海を見ていたと思います。
眉山 本丸西端の「弓櫓」跡。この先は西二の丸へ続きますが引き返してしまいました。
本丸西端の「弓櫓」跡。この先は西二の丸へ続きますが引き返してしまいました。
眉山 弓櫓跡の4等三角点「城山」。標高61.6m
弓櫓跡の4等三角点「城山」。標高61.6m
眉山 普段しませんがタッチしてみました。
普段しませんがタッチしてみました。
眉山 本丸東端に戻って下山します。ここは石垣の崩落を防ぐために石を組んである?
本丸東端に戻って下山します。ここは石垣の崩落を防ぐために石を組んである?
眉山 一段下ったところに東二の丸跡があり、そこは天守跡ともなっています。天守台のない、三層の天守だったようです。
一段下ったところに東二の丸跡があり、そこは天守跡ともなっています。天守台のない、三層の天守だったようです。
眉山 東二の丸奥の大きなホルトノキ。洞には人が入れます。
東二の丸奥の大きなホルトノキ。洞には人が入れます。
眉山 その端っこ。危なくないですか?
その端っこ。危なくないですか?
眉山 東二の丸の石垣
東二の丸の石垣
眉山 長い階段で下ります
長い階段で下ります
眉山 根元だけにしましたが、相当大きな木
根元だけにしましたが、相当大きな木
眉山 城山の地学的、植物学的解説。
城山の地学的、植物学的解説。
眉山 横に目をやると不自然な洞
横に目をやると不自然な洞
眉山 防空壕でしょうか?
防空壕でしょうか?
眉山 蜂須賀家政公銅像
説明板には「 永禄元年(1558)~寛永15年 (1638)蜂須賀家政公 (藩祖)は、天正13年 (1585) 豊臣秀吉の 四国平定の大功により阿波一国をたまわり、 天正14年 (1586) 一宮城 (徳島市一宮町西丁) から中世に築造され た渭津城を修築して徳島城とし、藩政の中心地とした。 入国 この後は、藍、塩などそれまで阿波になかった産業を取り入れ、 新しく製塩製藍工業を起こし盛んに日本中に売り広めた。 また、 全国でも有名な阿波踊りも家政公時代に始まったと伝えられる。
戦前は、野太刀と長槍を持った甲冑姿の蜂須賀小六正勝公 (家祖)の銅像が立っていたが、戦時中に供出されてしまった。 それが昭和40年(1965) に裃姿の家政公の銅像に生まれ変 わった。
・台石/高さ2m、幅1.8m ・銅像/約2m ・竣工 昭和40年1月1日」とあります。
蜂須賀家政公銅像 説明板には「 永禄元年(1558)~寛永15年 (1638)蜂須賀家政公 (藩祖)は、天正13年 (1585) 豊臣秀吉の 四国平定の大功により阿波一国をたまわり、 天正14年 (1586) 一宮城 (徳島市一宮町西丁) から中世に築造され た渭津城を修築して徳島城とし、藩政の中心地とした。 入国 この後は、藍、塩などそれまで阿波になかった産業を取り入れ、 新しく製塩製藍工業を起こし盛んに日本中に売り広めた。 また、 全国でも有名な阿波踊りも家政公時代に始まったと伝えられる。 戦前は、野太刀と長槍を持った甲冑姿の蜂須賀小六正勝公 (家祖)の銅像が立っていたが、戦時中に供出されてしまった。 それが昭和40年(1965) に裃姿の家政公の銅像に生まれ変 わった。 ・台石/高さ2m、幅1.8m ・銅像/約2m ・竣工 昭和40年1月1日」とあります。
眉山 堀と堀に沿って線路。ジーゼルカーの排気が臭います。
堀と堀に沿って線路。ジーゼルカーの排気が臭います。
眉山 月見櫓跡
月見櫓跡
眉山 月見櫓跡から堀をはさんで鷲の門を望む
月見櫓跡から堀をはさんで鷲の門を望む
眉山 ここには鏡石みたいな大きな石も
ここには鏡石みたいな大きな石も
眉山 太鼓櫓跡
太鼓櫓跡
眉山 太鼓櫓跡。上部にはNHKラジオ棟と駆逐艦追風のマストがあります。
太鼓櫓跡。上部にはNHKラジオ棟と駆逐艦追風のマストがあります。
眉山 下乗(げじょう)橋(小見付橋)。渡った先は枡形虎口。
下乗(げじょう)橋(小見付橋)。渡った先は枡形虎口。
眉山 全体像
全体像
眉山 鷲の門(復元)
鷲の門(復元)
眉山 城趾碑
城趾碑
眉山 屏風櫓跡
屏風櫓跡
眉山 旗櫓跡。この下に凶事の時のみ使用する数寄屋門がありました。
旗櫓跡。この下に凶事の時のみ使用する数寄屋門がありました。
眉山 数寄屋橋。太鼓橋です。
数寄屋橋。太鼓橋です。
眉山 隅櫓跡へ
隅櫓跡へ
眉山 隅櫓跡
隅櫓跡
眉山 城山の貝塚
城山の貝塚
眉山 貝塚の説明
貝塚の説明
眉山 博物館がそろそろ開くかしら・・・
博物館がそろそろ開くかしら・・・
眉山 その前に表御殿庭園へ。
その前に表御殿庭園へ。
眉山 梅が迎えてくれます。
梅が迎えてくれます。
眉山 買い戻した鯱瓦。こういうものは廃藩置県時に民間に売られちまったのです。
買い戻した鯱瓦。こういうものは廃藩置県時に民間に売られちまったのです。
眉山 御影石をくりぬいた井戸。
御影石をくりぬいた井戸。
眉山 なかなかスリリングな石の橋です。この池は内堀と連結していて潮の干満で水位が変わったといいます。
なかなかスリリングな石の橋です。この池は内堀と連結していて潮の干満で水位が変わったといいます。
眉山 観音堂跡から庭の全体を眺めます
観音堂跡から庭の全体を眺めます
眉山 枯山水。御影石の切石橋。
枯山水。御影石の切石橋。
眉山 でっかい石の橋がいくつか。ソテツも多用されているのは暖かい土地ならでは?
でっかい石の橋がいくつか。ソテツも多用されているのは暖かい土地ならでは?
眉山 博物館を見学します。石垣の中の平らな土地には御殿が建っていたのでした。
博物館を見学します。石垣の中の平らな土地には御殿が建っていたのでした。
眉山 「舌石」案内板には次のように書かれています。
眼下の水路(旧寺島川)沿いの石垣面から突き出ている石は、 屏風折塀の支柱石で 「舌石」と呼ばれています。 屏風折塀は、 塀の一部を屏風のように折り曲げて堀川の方向に突き出させた もので、この折塀に鉄砲や矢を撃つための穴を設けることに よって正面のみならず側面方向への攻撃が可能となり、城の防御性を高めていました。 徳島城跡の旧寺島川沿いには約32 メートル間隔で6個の舌石が残っており、 全国的にも類例の少ない貴重なものです。
「舌石」案内板には次のように書かれています。 眼下の水路(旧寺島川)沿いの石垣面から突き出ている石は、 屏風折塀の支柱石で 「舌石」と呼ばれています。 屏風折塀は、 塀の一部を屏風のように折り曲げて堀川の方向に突き出させた もので、この折塀に鉄砲や矢を撃つための穴を設けることに よって正面のみならず側面方向への攻撃が可能となり、城の防御性を高めていました。 徳島城跡の旧寺島川沿いには約32 メートル間隔で6個の舌石が残っており、 全国的にも類例の少ない貴重なものです。
眉山 城址は意外に線路とセットですね。
城址は意外に線路とセットですね。

活動の装備

  • マーモット(Marmot)
    ヤマタビ15
  • ファイントラック(finetrack)
    コアノパンツ
  • その他(Other)
    TORQUE G05

メンバー

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