笠戸島 寺崎の歴史アレコレ😚💕 - 下松市笠戸島・寺崎-2024-04-13
笠戸島・尻高山
(山口)
2024.04.13(土)
日帰り
本日は、笠戸島の『寺崎(てらさき)』を訪ね、その後、『スカイ一号』から『玲岩山(まんがんやま)』、『奥畑山』、『家族旅行村』を経由し⛰️🐖💨、『笠戸島ハイツ跡地』を見学するなど、主に笠戸島の北側をグルリと周るルートで、ランニング&トレランを楽しんできました🥰💕‼️
さて、今回の歴史解説は、今回訪れた笠戸島・寺崎にまつわるアレコレの歴史をご紹介したいと思います🤓📖。以下、いつもの長文にてそれらの歴史について解説を行っております。ご興味&お時間のある方のみで構いませんので、一読頂けると幸いです😊🙏💖。
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以前、笠戸島本浦の『本浦海浜公園』内にある『笠かけの松』をご紹介したことがありますが、、、。
その時の記事はコチラから
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佐々木小次郎も『ほっ❗』と一息😙💕 - 笠戸島・笠かけの松-2021-01-30
わhttps://yamap.com/activities/9595682 #YAMAP #山歩しよう
実は、元の『笠かけの松』は、今回訪れた『寺崎(てらさき)』にあったそうです。
平成20年(2008年)頃までは、寺崎にも『佐々木小次郎・笠かけの松跡の碑』と共に『説明板』が設置されていたそうですが、その後の護岸拡張工事に伴い、撤去されてしまったようです。
ちなみに、この『笠かけの松』の謂われについてご説明しますと、、、。関門海峡の『巌流島』で『宮本武蔵』との死闘を繰り広げたことで有名な『佐々木小次郎』が、宮本武蔵を追って九州に下る途中、ここ笠戸島に立ち寄ったそうです。
そして、この『笠かけの松』は、佐々木小次郎が休憩した際、佐々木小次郎が付けていた笠を松の枝に掛けたと言い伝わっています。なお、現在の『本浦海浜公園』内にある松の木は、寺崎から移植された『笠かけの松』の子孫にあたるそうです。
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さて、現在、笠戸島本浦地区の東側に位置し、北に向かって伸びる岬を『寺崎(てらさき)』と呼んでいますが、かつて江戸時代の頃は、寺崎の岬を構成する全体の山のことを『金毘羅山(こんぴらやま)』と呼んでいたそうです。
おそらく、『讃州・那珂郡(さんしゅう・なかのごおり)』(現在の香川県多度津那珂郡(たどつなかぐん))の『象頭山(ぞうずさん)』に祀られている『金刀比羅神社(ことひらじんじゃ)』(かつての金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん))が、この山に勧請され、祀られていたからだと私は推測しています。ちなみに、『金刀比羅神社』(かつての金毘羅大権現)の主祭神は、海の安全を司る『大物主命(おおものぬしのみこと)』が祀れています。
かつて、この深浦の港は、笠戸島の『瀬戸岬(せとみさき)』と本土の『洲鼻(すばな)』の海峡を航行する船の潮待ち・風待ちの港町でした。現在でもこの海峡は潮の流れが速く、航行が困難な海峡です。そのため、かつての潮待ち・風待ちで深浦の港で停泊した人々が、この『金毘羅山』の『金刀比羅宮』にて海上の安全を祈ったのだと推測しています。
以前、笠戸島の瀬戸岬(せとみさき)を目指して、プチトレランをしたことがあるよ!!
その時の記事はコチラから
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疲労抜きチョコットトレラン🐖💨❗ - 笠戸島・瀬戸岬-2020-12-27
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ちなみに、この寺崎の『金毘羅山』ですが、別名を『地下山(ちげざん)』とも呼ばれていたようです。
これも私の推測になりますが、この名前の由来は、江戸時代中期に編纂された『地下上申(ちげじょうしん)』から来たのでは?と考えています。『地下上申』とは、享保12年(1727年)から宝暦3年(1753年)までの防長両国諸郡の各村落の庄屋が村の地勢概要や歴史などを萩藩府へ報告した内容をまとめた資料です。
もしかしたら、江戸中期頃はまだ深浦には『金刀比羅神社』が勧請されておらず、この『地下上申』の報告の際に当時の深浦の庄屋が適当に名前を付けたのかも知れない、、、と私は勝手に推測しています。
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さらに、かつて江戸時代の頃の『寺崎』には、長州藩の行政施設・『小番所(こばんしょ)』が設置されていました。
『小番所(こばんしょ)』とは、長州藩により通行人や船舶の取締り、徴税などを行うための行政施設・『番所(ばんしょ)』の出張所に当たる施設です。
この地域の総括は、『都濃宰判(つのさいばん)』の『花岡勘場(はなおかかんば)』でしたので、そこから役人が派遣され、本浦の港に出入りする船荷や旅人に対して『停船料』や『口銭(こうせん)』(人にかかる税金)を徴収したようです。
以前、下松市花岡の『花岡勘場跡』を訪ねたことがあるよ!!
その時の記事はコチラから
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歴史ロマンを感じる😘💕宿場町 花岡🌼ラン - 下松市 花岡-2020-08-18
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ちなみに、『宰判(さいばん)』とは、長州藩が藩内統治のために設置した行政区分のことで、周防国で10区【小郡宰判、山口宰判、徳地宰判、三田尻宰判、熊毛宰判、都濃宰判、大島宰判、前山代宰判、奥山代宰判、上関宰判】、長門国で8区【先大津宰判、前大津宰判、吉田宰判、舟木宰判、浜崎宰判、美祢宰判、当島宰判、奥阿武宰判】の合計18の行政区に分かれていました。そして、それぞれの宰判に『勘場(かんば)』(代官所)を設置し、役人が派遣され政務に当たりました。
また、この寺崎には『小番所』と共に『御船蔵(おふなくら)』が設置されていました。『船蔵』とは一般的には船を入れる蔵の事を指しますが、この場合の意味は、『御船手(おふなて)』と呼ばれる毛利藩の海軍の出張所になります。
天和3年(1683年)徳山藩は『御船手』(海軍)を創設し、元々は下松にあった『御船蔵』を現在の周南市遠石町(長浜)に移転しました。また、防府市の三田尻(みたじり)には、『御船蔵本締役(おふなくらもとじめやく)』が置かれ、藩内すべての『御船蔵』が管理されていました。
以前、周南市遠石町(長浜)の『舊藩舟方跡(もとはんふなかたあと)』を訪ねたことがあるよ!
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徳山藩ゆかりの地巡り🏯😉❗ - 周南市文化会館・徳山藩陣屋跡 etc.-2021-05-22
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さて、寺崎の『御船蔵』の跡は、かつて昭和中期・高度経済成長の折に活躍した『橋本正之(はしもとまさゆき)』知事【大正元年(1912年)生~昭和51年(1976年)没】の生家の屋敷跡でもありました。
『橋本正之』知事は、道路整備や離島の架橋に取り組み『道の知事』、『橋の知事』として知られる知事で、昭和45年(1970年)11月、本土と笠戸島を結ぶ赤いアーチが可愛らしい『笠戸大橋』が開通したのも、この『橋本正之』知事の時代【在任期間:昭和35年(1960年)9月25日~ 昭和51年(1976年)6月30日】でした。
ちなみに、『笠戸大橋』が開通した前年の昭和44年(1969年)6月には、室津(むろつ)と上関(かみのせき)を結ぶ『上関大橋(かみのせきおおはし)』が開通しています。
以前、室津、上関を訪れて、史跡巡りランニングをしたことがあるよ!!
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上関でコラボ史跡巡りラン🏃🏻🏃🏻🐖💨‼️- 熊毛郡上関・上盛山-2023-08-20
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その他にも、『橋本正之』知事の時代に手掛けられた橋としては、長門市の『青海大橋(おおみおおはし)』【昭和40年(1965年)10月開通】。柳井市と周防大島町を結ぶ『大島大橋(おおしまおおはし)』【昭和46年(1971年)着工、昭和51年(1976年)7月開通】などがあります。
また、『橋本正之』知事の在任期間中の昭和38年(1963年)には、山口県内において『第18回国民体育大会』(山口国体)が開催されました。そして、その開催に当たって山口県で何か特色のある『おもてなし』を、、、と考える中で、県道のガードレールを県特産の『夏みかん』の色(黄色)にすることにしたそうです。
つまり、現在の山口県内のガードレール全てが黄色いのも、『橋本正之』知事の時代からなのですね!
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さらに、笠戸島出身の『橋本正之』知事は、かつて笠戸島内にあった『深浦中学校』、『笠戸小学校』、『江の浦小学校』、『深浦小学校』の各学校の校歌の歌詞をそれぞれ作詞しています。
以下に、それぞれの学校の歴史について、簡単ではありますが解説します。
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★深浦中学校
・明治9年(1876年)、深浦小学校深浦巡回授業所として始まる。
・昭和22年(1947年)、下松市内に5つの新しい中学校(下松一中、二中、三中、四中、五中)ができる。ちなみに、下松五中が後の深浦中学校。
・昭和30年(1955年)、一中から五中の中学校が4つとなり学校名が決まる。下松中(元の一中)、久保中(元の二中)、末武中(元の三中と四中が統合)、深浦中(元の五中)。
・平成14年(2002年)、生徒数減少に伴い休校となる。
・平成25年(2013年)、廃校。137年の長い歴史が幕を閉じる。
・現在も海辺に佇む校舎などが現存しています。
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★笠戸小学校
・明治10年(1877年)、平田小学校笠戸分教場として始まる。
・明治20年(1887年)、笠戸簡易小学校として独立する。
・平成26年(2014年)、廃校。137年の長い歴史が幕を閉じる。
・現在の笠戸小学校跡地には、令和2年(2020年)、笠戸小学校のグラウンドだった場所に新しい笠戸公民館が新設されました。かつての笠戸公民館は、昭和43年(1968年)以降、笠戸小学校の講堂が笠戸公民館として併用されていたそうです。そして、この新しい笠戸公民館の新設に伴い、残されていた旧校舎、講堂等は撤去されました。
ちなみに、江の浦には笠戸島公民館がありますが、この本浦の笠戸公民館とよく間違われやすいです。江の浦の笠戸島公民館は、平成24年(2012年)に旧江の浦公民館が建て替えられたもので、もともと市の出張所機能もあり、島全体を管轄する意味から笠戸島公民館に改称されたそうです。
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★江の浦小学校
・昭和8年(1933年)、深浦小学校江の浦分校として始まる。
・昭和27年(1952年)、江の浦小学校として独立する。
・平成26年(2014年)、廃校。81年の長い歴史が幕を閉じる。
・平成28年(2016年)、江の浦小学校の校舎が利用され、笠戸島をはじめ下松市の歴史を紹介する下松市郷土資料展示収蔵施設・『島の学び舎』が開設され現在に至ります。
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★深浦小学校
・明治9年(1876年)、平田小学校深浦巡回授業所として始まる。
・平成19年(2007年)、生徒数減少に伴い休校となる。
・平成26年(2014年)、廃校。138年の長い歴史が幕を閉じる。
・現在の深浦小学校の校舎は、そのまま深浦公民館として利用されています。
また、笠戸島をメインロケ地として撮影され、令和4年(2022年)に公開された映画『凪の島』では、主人公『凪(なぎ)』(新津ちせ)が通う小学校として、深浦公民館が利用され撮影が行われました。
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平成25年(2013年)に深浦中学校が、平成26年(2014年)に笠戸小学校、江の浦小学校、深浦小学校がそれぞれ閉校し、笠戸島内すべての小中学校が消滅しました。
余談ですが、昭和57年(1982年)7月まで笠戸小学校には『プール』が無かったそうで、それより以前は、笠戸小の生徒たちは江の浦小学校のプールを借りて、水泳の授業を行っていたそうです。
以前、映画『凪の島』のロケ地を訪ね、聖地巡礼したことがあるよ!
その時の記事はコチラから
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映画『凪の島』聖地巡礼😑🙏パート2 ✌️- 下松市・笠戸島-2022-08-27
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以上のように数々の業績を修めた『橋本正之』知事ですが、昭和51年(1976年)9月9日に63歳の若さで亡くなりました。
その後、橋本正之知事の功績を後世に伝えようと、昭和53年(1978年)11月、かつて笠戸島の『はなぐり岬』にあった宿泊施設・『笠戸島ハイツ』の中庭に『橋本正之知事の胸像』が建立されました。
ちなみに、この胸像の題字は、当時の下松市市長『藤田徳一』【在任期間:昭和51年(1976年)~昭和59年(1984年)】による揮毫だそうです。
現在、『笠戸島ハイツ』は閉館し、その建物は取り壊されて更地となっています。以下、その『笠戸島ハイツ』の歴史について解説したいと思います。
先に述べましたように、昭和45年(1970年)11月、本土と笠戸島を結ぶ『笠戸大橋』が『橋本正之』知事の時代に開通し、それに伴い笠戸島の観光地化が進みました。
その観光地化の追い風を受けて、昭和50年(1975年)4月、笠戸島の『はなぐり岬』に山口県労働総合福祉センター『笠戸島ハイツ』がオープンし、先の昭和46年(1971年)7月にオープンしていた国民宿舎『大城』と共に、笠戸島の宿泊客の受け入れを担いました。
ちなみに、この『笠戸ハイツ』の建屋の設計を手掛けた人は、日本を代表する建築家『黒川紀章(くろかわきしょう)』【昭和9年(1934年)生~平成19年(2007年)没】でした。
建築家『黒川紀章』氏の事を簡単に解説しますと、、、。建築の分野において、新陳代謝(メタボリズム)、循環(リサイクル)、フラクタル(非線形)、生態系(エコロジー)などなど、さまざまなコンセプトを提言し続けた哲学的な建築家です。
また、平成19年(2007年)、当時現職だった『石原慎太郎(いしはらしんたろう)』都知事の再選を阻止しようと、東京都知事選にも出馬したことがある方です。結果的に、この都知事選では、黒川紀章氏は得票率が3%にも満たず惨敗を喫し、現職の石原慎太郎都知事が三選を果たしました。
さて、長年、観光拠点として笠戸島を支えてきた『笠戸島ハイツ』でしたが、平成31年(2019年)3月、経営悪化と建物の老朽化に伴い閉館を余儀なくされ、44年の歴史に幕を閉じました。
その後、暫くは建屋が残ってたのですが、令和4年(2022年)12月から建屋の解体工事が始まりました。その際、中庭に設置されていた『橋本正之知事の胸像』がどうなったのか?と一部のマニアの間で話題になっていましたが、、、。
その後、約一年間の解体工事が終わった令和5年(2023年)12月以降から現在に至るまで、更地になった『笠戸島ハイツ跡地』にポツンと取り残された様に『橋本正之知事の胸像』が建っています。
◇ ◇ ◇
現在、この様な歴史を辿り、『橋本正之知事の胸像』がポツンと取り残され、更地になった『笠戸島ハイツ跡地』ですが、、、。
昨年の令和5年(2023年)12月、笠戸島ハイツ跡地を活用する事業者の公募が行われ、下松市平田に本社がある『高山石油ガス株式会社』が選定されました。
そして、『高山石油ガス』は、この『笠戸島ハイツ跡地』を利用し、瀬戸内の眺望を生かしたリゾートホテルやショップ、カフェなどの商業施設の整備することを発表しました。
計画では、眺望を生かした全室オーシャンビューで個室露天風呂付きなどの客室30室や、レストラン、エステ、夕日を一望できる展望台を有する木造平屋建てのリゾートホテルを整備するとのことです。
また、併設する商業エリアでは、カフェやフラワーショップなどを建設し、マルシェなど定期的なイベントが開催できる交流スペースや、島内周遊の促進を図るため観光案内の『コンシェルジュデスク機能』(レジャーやショッピング、宿泊等の案内や情報を発信をする機能)を有する施設などを配置する予定だそうです。
そして、これらの施設について、2年後の令和8年(2026年)のグランドオープンを目指し、近々建設工事が始まるそうです。なので、現在の『笠戸島ハイツ跡地』が更地の状態も間もなく終わると言うことで、急いで『橋本正之知事の胸像』に会いに、本日、笠戸島へランニング&トレランをしに行ったのでした。
こうして、『笠戸島ハイツ跡地』に新たなリゾート施設が建設されることは喜ばしい事ですが、また『橋本正之知事の胸像』の行方(ゆくへ)が気になる日々が始まりそうですね~。
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以上、笠戸島・寺崎にまつわるアレコレの歴史をご紹介しました😚💞。
最後に、私の長文・駄文にお付き合い頂き、ありがとうございました😊🙏💝。