棚倉逍遙⛩️⛰️🐶(都都古和氣神社[馬場都々古別神社]・流廃寺跡・武鉾山)
八溝山・池ノ平
(福島, 茨城, 栃木)
2025年02月03日(月)
日帰り
週半ばから体調を崩し、週末に予定していた企画や山も全て参加見合わせ。
月曜になりほぼ回復したので出掛ける。転勤中行けずにいた神社へ参拝する等、はるを道連れに古代浪漫溢れる地を短時間で巡る。今回も宮司さんにお会いできた。転勤前の挨拶の際に頂いた宿題、出雲大社にある都都古和氣神社の名がある石碑を見る、がそれを探せず果たせなかった事等を報告。大麻と御守、そして久し振りに御朱印も頂く。いつものように小一時間、棚倉周辺の古代からの歴史と、今回は町の企画(今年は棚倉城築城400年)等をお話し頂く。帰路流廃寺跡に寄る事をお伝えすると、登り口情報始め興味深いお話しも。
流廃寺跡と武鉾山は、はるも連れて散策。
【都都古和氣神社[馬場都々古別神社]】
福島県東白川郡棚倉町棚倉にある神社。式内社(名神大社)論社、陸奥国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
主祭神:味耜高彦根命 - 創祀時の主祭神。
相殿神:日本武尊 - 大同2年(807年)の合祀とされる。
社記(文禄3年(1549年)の社蔵縁起)によると、第12代景行天皇の時に皇子の日本武尊が奥羽に至り、都々古山(福島県白河市表郷三森の建鉾山)に鉾を立てて味耜高彦根命を地主神として祀ったのが創祀とする。その後、大同2年(807年)に坂上田村麻呂が現在の棚倉城跡の地に社殿を造営し、日本武尊を相殿に配祀した。そして現在地に遷座したのは寛永2年(1625年)になるという。
創祀地とされる建鉾山は5世紀代の東北有数の祭祀遺跡として知られる。一方、前述のように弘仁2年(811年)頃の陸奥・常陸間の新道設定に伴う創建と推測する説もある。
『続日本後紀』承和8年(841年)条の「都々古和気神」、ならびに延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳の名神大社「都都古和気神社」の論社とされる。
中世からは山岳信仰が入って修験化し、別当の高松家が管掌した。別当寺は不動院。高松家の系譜によれば、建武年間(1334年-1338年)からこの高松家が高野郡北郷一帯の宗教・政治・軍事面を掌握し、同じく南郷を掌握した八槻都々古別神社別当の八槻家と並立したとされる。
近世には代々の領主から社領寄進・社殿造営を受けた。寛永2年(1625年)には、棚倉藩主の丹羽長重が棚倉城を築城するに際して棚倉城跡から現在地に移築・遷座されている。社領は近世初期で363石であったが、慶長8年(1603年)に150石となった。
明治維新後、明治6年(1873年)に近代社格制度において国幣中社に列した。明治8年(1875年)から3年間は、会津藩家老を務めた西郷頼母(保科近悳)が馬場都々古別神社宮司を務めたことが知られる。戦後は神社本庁の別表神社に列している。
Wikipediaより抜粋
【流廃寺跡】
平安時代(9世紀後半~10世紀前半)に建立された寺院跡です。棚倉町流地区の小高い山々には、かつて人工的に作られた平場がいくつも連なり、お堂が立ち並んでいました。
棚倉町教育委員会では、平成15年(2003)から約10年にわたり詳細な発掘調査を実施しました。その結果、ほぼ1本の尾根筋に沿って並列する13ヶ所の平場と9棟の建物跡が極めて良好な状態で見つかりました。発見された建物跡には、伽藍(寺院の建物構成・配置)の中心と考えられる大規模な礎石建物跡(本堂跡)やいくつもの小規模な建物跡がみられ、尾根に沿ってお堂が連なっていた姿がわかりました。また、それぞれの平場を結ぶ通路や階段も発見されており、伽藍内の導線を復元することができました。(国指定史跡)
流廃寺跡は、伽藍の残り具合状況が非常に良く、平安時代における仏教を考える上で全国的に貴重な遺跡であることや、東北地方に仏教が広がっていく様子を知る上で重要な遺跡であることが明らかになりました。
棚倉町HPより抜粋
13号平場からは国内唯一無二の『金銀象嵌鉄剣』が出土。そこの平場までは下調べ不足や藪で見学できず。
【武鉾山】
福島県白河市にある山。標高423メートル。別称や古称に建鉾山、高野峯山、尊登山などがある。
山の北側の緩斜面にある遺跡名は「建鉾山祭祀遺跡」となっている。また山の東方400~500メートルには古墳時代の三森遺跡がある。両遺跡の調査時に、建鉾山祭祀遺跡は「高木地区」、三森遺跡は「三森地区」と呼称された。
南麓は、棚倉町との境界が近くゴルフ場があり、北麓には、国道289号が東西に走り、社川が西から東へ流れる。麓には都々古山神社、都々古和気神社がある。
山頂には建鉾石とよばれる岩があり、遺跡は北側の緩斜面にある。建鉾山祭祀遺跡及び三森遺跡では1937年(昭和12年)の首藤保之助による遺物採集の記録が残る。
5世紀前半には石製模造品を使用する祭祀が始まり、5世紀中葉から後半になると阿武隈川流域から栃木県中央部における中核的な位置付けとなったと考えられている。
Wikipediaより抜粋