因幡国探訪!鳥取藩主池田家墓所~因幡国一宮 宇倍神社~因幡三山~因幡国庁・国分寺跡
久松山・本陣山・摩尼山
(鳥取)
2026年03月11日(水)
日帰り
【因幡国ゆかりの場所をレンタサイクルで探訪】
この日は晴れで、一昨日降った雪も積もっていませんでしたので、「因幡国(いなばのくに)探訪」をテーマに活動することにしました。
因幡国とは、現在の鳥取県の東半分を指す昔の国名のことです。
令制国としての因幡国は7世紀に成立しました。地元の稲葉神社が国名の出所と伝えられていますが、具体的な由来については詳細は不明です。
政務を執る施設(国庁)<写真53>は現在の鳥取市国府町(こくふちょう)に置かれ、天平13年(741年)に聖武天皇の詔によって因幡国分寺(現最勝山国分寺<写真57~60>周辺)が建立されました。
また、因幡国の一宮として宇倍(うべ)神社<写真25~35>が創建されました。
戦国時代には、因幡国は織田氏と毛利氏の争いの場となり、最終的に羽柴秀吉により鳥取城が陥落した後は、織田氏の支配下に置かれました。
江戸時代初期には、因幡国は複数の大名に分割され、明治維新まで鳥取藩の池田家によって支配されました。
さて、鳥取の歴史が多く詰まっている因幡国(鳥取市国府町)を探訪する移動手段として、鳥取駅からレンタサイクルを利用することにしました。
今回想定したコースでは、坂がいくつかありそうでしたので、初めて電動アシスト自転車を借りました。
3段変速、3段パワー調整ができ足腰の負担があまりなく、小回りも効き駐車場の心配もないので、今回のコースにおける移動手段としては、ベストの選択でした。
舗装道路はすべて自転車なので、コースタイムはあまり参考にならないかもしれません。
これでも時間が足りず、因幡三山を最優先にして他の見どころをかなりスルーしました。
【鳥取32万石を領した初代藩主とその一族が眠る鳥取藩主池田家墓所】
鳥取駅を出発し、まずは樗谿(おうちだに)公園<写真05~10>で梅<写真05~07>を観賞しました。
満開から散り始めくらいで十分見頃でしたが、梅の名所のわりには意外にも人が少なくのんびりできました。
次に、鳥取藩主池田家墓所<写真12~24>を訪問しました。
鳥取藩池田家は、尾張国(おわりのくに)に生まれた池田恒興(つねおき)をルーツとします。
恒興の子・輝政(てるまさ)は織田家に仕え、豊臣秀吉に従軍し九州遠征の後、羽柴姓を与えられました。
さらに、秀吉の命により徳川家康の娘・督姫と結婚し、やがて播磨52万石を賜わり、姫路城主となりました。輝政死後は長男の利隆(としたか)が播磨姫路藩を継いでいます。
一方、輝政の弟・長吉のほうは因幡国鳥取城に入り、6万石を治めました。
利隆の長男である光政(みつまさ)は、元和2年(1616年)に幕府より家督相続を許され、42万石の播磨姫路藩主となりましたが、元和3年(1617年)、幼少を理由に因幡鳥取藩に減転封となりました。
一方、備前岡山藩主・池田忠雄(利隆の弟)の長男として岡山藩江戸藩邸で生まれた光仲は、寛永9年(1632年)に父忠雄の死去に伴いわずか3歳で家督を継ぐこととなりました。
幼少のため山陽道の要所である備前岡山は治め難いだろうということで、光仲は因幡・伯耆を有する鳥取藩32万石に、従兄で鳥取藩主となっていた光政が備前岡山藩31万5,000石へ国替えとなりました。
光仲は徳川家康の外曽孫ということもあり改易(土地の没収)とはならず、国替えの措置が取られたようです。
寛永15年(1638年)、光仲は3代将軍徳川家光の前で元服しました。
将軍の前で元服の式を行える大名を殿上元服(てんじょうげんぷく)之家といい、御三家の他、加賀の前田家、薩摩の島津家、長州の毛利家など15家があり、その中に鳥取の池田家も含まれています。
光仲は慶安元年(1648年)3月に鳥取へ初入国すると、同年12月には、幕府に東照宮を鳥取に勧請(かんじょう)することを願い出ました。これが鳥取東照宮、旧名樗谿(おうちだに)神社です。
光仲は幼くして藩主となったため、初期の藩政は家老を中心とする家老政治でしたが、承応元年(1652年)には、当時権力を握っていた首席家老・荒尾但馬守成利(あらおたじまのかみなりとし)を罷免、以後、藩主の親政が徹底しました。
今回訪問した鳥取藩主池田家墓所は、昭和56年(1981年)10月13日に国指定史跡となりました。
池田光仲を初代藩主とする歴代藩主十一代をはじめ、本家から分かれ独立した支藩東館(鹿野藩)と西館(若狭藩)の当主なども合わせて78基の墓碑が立ち並び、周囲には260基を超える灯篭が家臣等により供えられています。
さすがにすべてじっくりと見てまわるのは無理なので、歴代藩主の墓碑だけにしました。
実は、この日の1週間前に岡山市中区の護国山曹源寺を訪れ、同じく国指定史跡の岡山藩主池田家墓所をお参りしました。
この日は池田家を通じて、岡山(備前国)と鳥取(因幡国)が一本の線でつながったような気がしました。
【因幡三山と三山に囲まれた法美平野にある因幡国庁跡や因幡国分寺跡】
池田家墓所を出た後は、因幡国の中心部だった国府町(こくふちょう)の中心部を訪問しました。
因幡国府は、因幡三山といわれる甑(こしき)山<写真39,40>、今木(いまき)山<写真50~52>、面影(おもかげ)山<写真68,69>に囲まれた法美(ほうみ)平野の中央に置かれました。
国府の範囲はおよそ660m四方と考えられ、古代山陰道を基準線として国分寺や国分尼寺も計画的に配置されました。
因幡の政治や文化の中心をなす古代都市として繁栄していた様子がうかがえます。
国府内の北側に置かれていた国庁跡<写真53>には国司(国庁に勤める役人)が政務や儀式を行っていた正殿、国守(国司の長官)が日常業務を行っていた後殿、および東西23m、南北12mという規模の南門の3つの建物跡が確認されています。
発掘調査で見つかったのは平安時代から鎌倉時代のものですが、大伴家持が国司として活躍した奈良時代の国庁も下層に眠っているとみられています。
なんと、現在も「国府町庁」という地名が残っており、歴史の深さが感じられます。
因幡国庁跡の南には黄檗(おうばく)宗の最勝山国分寺<写真57~60>があり、その周辺は因幡国国分寺の跡です。
天平13年(741年)、聖武天皇の勅願で諸国に建立された官寺の国分寺のひとつで、ここで当時の国家公務員である僧侶が鎮護国家を祈願していました。
現在の国分寺は広い寺域の南西に位置し、細男(さおと)神社<写真54~56>辺りに金堂があったと推測されています。
どちらも他に参拝客はなく、ただ静かに昔の栄華に思いをはせました。
今回訪問した鳥取市国府町には、鳥取藩主池田家墓所、宇倍神社、鷺山(さぎやま)古墳、甑(こしき)山・今木山・面影山(国府町の隣)の因幡三山、因幡国庁跡、因幡国分寺跡など、鳥取の歴史を知る上で重要な史跡がたくさんありました。
これ以外にもまだたくさんの史跡があります。鳥取県は宣伝下手のようで、訪問して初めてそのすごさに気づかされることが多いです。
いつも留守番の連れがうらやましがるので、機会を改めて再訪しようと思います。