滝子山・大谷ヶ丸・笹子雁ヶ腹摺山(山梨)
2026年10月17日 (土)日帰り
山梨県・大菩薩嶺の南に鎮座する大蔵高丸と大谷ガ丸に登ってきました。
誰にも会わない静かな山旅ができました。😃
山の詩人として知られる尾崎喜八。
尾崎喜八の著書『山の絵本』の中で、「大蔵高丸・大谷ガ丸」という章があります。
喜八は、1934年(昭和9年)5月に大蔵沢を溯行して大蔵高丸に登りました。
その喜八の歩いた道を辿ってみました。
大蔵沢を溯行して大蔵高丸に至るコースは、バリエーションルート。
大蔵高丸から曲リ沢峠までの稜線は、踏跡薄く、迷いやすい道でした。
曲リ沢峠を通過してすぐの尾根道を日川目指して下山。
喜八と同様、黄昏せまる中を下山しました。
初鹿野(現在のJR甲斐大和駅)に着いた時には日が暮れていました。
山行:2026.10.17
記入:2026.10.26
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忘備録:
ネットで見つけた大蔵沢のレポ(ヤマップとヤマレコにはレポみつからず)
2022 11.19 https://ameblo.jp/6464tsuyu/entry-12780772405.html
2008.05.04 https://ribble.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/1_d7c8.html
尾崎喜八著「大蔵高丸・大谷ガ丸」の抜粋
午前三時半●初鹿野で下車。笹子トンネルの饐すえたような蒸れくさい匂いがこもっている仄暗い車内の、真夜中じみたいくつかの無表情な顔に見送られながら。
日川へくだる水野田あたり、或いはランターン、或いは懐中電燈が、路に散りしいた●八重桜の花びらを照らし出す。
●坂をくだって大石の磊々としたところで日川を左岸へわたる。昼間ならば、この美しい谷のなかでの唯一の浅薄な、平凡な箇所である。下流に出来た水力発電所のために水が痩せ、谷床が露出したのだ。しかし未明の暗さは一様にあたりをこめて、わずかに白く砂や石をそれと見せるばかりである。
われわれは●景徳院の下を進む。すでに大谷ガ丸の空には蒼白い黎明の色がある。
●曲リ沢の下流を知らぬ間に橋でわたると、ようやく路幅が狭くなる。それにつれて両側の植物が一層われわれに親しくなる。一人消し二人消して、むしろ夜明けの涼しい仄暗さを楽しみながら進む下の方には、●田野鉱泉が二つ三つ電燈をともして眠っている。朝のこんな時刻に近くで見る旅館という物の、何とない哀れさ。一度爪先上りになった路は再びゆるい降りとなって、昼間の新緑の透きとおった美しさをさこそと想わせる下蔭を行く。やがて土屋惣蔵片手斫かたてぎりの遺跡。しかし路は立派に改修されて、精忠と憤怒の刃を片手でふるった昔の岨道の俤は今は無い。われわれは●焼山・瑳峨塩さがしおへの路を左に分って、右へ大蔵沢へ入った。
一体この沢を溯行して大蔵高丸へ出ようといい出したのは、今日のリイダー河田楨君である。それで若しもいつもと同様に、この行でもまた彼に成算があるとすれば、私は唯々諾々としてその驥尾に附けばいいのである。
沢を右岸へ渡って●一宇の祠の立っている小さい山足を乗越すと、水辺の少し開けたところへ出た。そこは●流れの曲り角で、淙々と響きを上げて走って来た水が急に深みへのめり込み、岩に激しては真白な水煙を噴き、淵に吸われてはエメラルドの陰影を持つ逞ましい束をうねらせ、ぐるんぐるんと強い渦を巻きながらリズムを変えて落ちて行く。われわれはそこにある岩に注意した。水蝕のために糜爛して見事な葱状構造をあらわした、円い大きな石英閃緑岩のかたまりが幾つか、水の舌に舐められたり涼しい波紋に巻かれたりしているのである。
午前五時。ここからは山に遮られて見えないが、太陽はもう日出後三十分の高さにいる時刻だ。あたりはすっかり明るくなった。小高いところへ立って往手の狭間はざまを見とおすと、左右から幾重にもなだれ込んで来る枝尾根の奥のおもわぬ空の中程に、枯木立の毛を植えた嶺線が見える。たぶん破魔射場はまいばから大蔵高丸へと続くそれだろう。
われわれ一行にとっての大蔵沢は、しかしちっともそれでは無かった。●閃緑岩質の谷は明るく白く、水もほそく、両岸は楽しい若菜、輝く芽立、燃える躑躅。おまけに快晴の空はいつも頭上を青々と帯のように流れて、しかもほとんど黒木を鎧わない山々は、朝日を浴びたその平和な藤色の地肌のために、五月の空の眼に見えぬひろがりをさえ絶えずわれわれに思い出させていた。
やがて米背負こめしょいの鞍部から落ちて来るひっそりした沢を右手に見送って、しばらく山路らしいところを進むと、もうほとんど水無しになった大蔵沢はからりと開けて、正面には目ざす大蔵高丸の西方へ張り出した尾根が屏風のように立ちふさがる。
いよいよあれだ。もうあれだけだ。漸く変化を欲しはじめた心が今までの安易を捨てて、「もうあれだけ」という限られた前途の前でいくらかの努力を誓う。
最後のところで●沢は二つに分れていた。左斜めに奥の方へ曲り込んでいるのが真の源頭らしく思われたが、見たところ上下一面の薮で、踏跡もなければ魅力もなかった。それでわれわれはむしろ真直ぐに本流の形をとっているもう一方のを選んだ。
行き当った沢の詰はまっしろな崩壊面を立て掛けていた。ほかに足掛りの便も無いのでこれを攀じのぼることになった。欠けた茶碗の内部のような堅いつるつるの急斜面に、一皮薄く砂が掛っているのだから、危険は無いが登りづらい。二歩登っては一歩すべる。爪を立てても爪の利かない、謂わば隔靴掻痒の感である。しかしそれも難無く過ぎて鞍部の高みへ這上ったが、この急坂の中途から振返って眺めた富士、大蔵沢両岸の新緑を額縁にして、薄むらさきの霞の上、八町巣鷹を踏まえて立った富士の画面は、もっとも印象的なものであった。
さて鞍部の樹林に別れると、かなり急な茅戸の登りを私はゆっくりと一行の後につづいた。
冬枯のままの茅戸は乾きに乾いて、ところどころに巨岩の露頭を見せながら白茫々、踏めばピシピシと音があった。汗は淋漓と頤を伝うが、高処の春の風の冷めたさ、帽子を手に先へ進む友の髪が横ざまに靡いて、スカイラインから抜け出したその半身は、まことに山頂の寂寞にふさわしかった。
われわれは大蔵高丸の頂きを得た。
●やがて私たちは美しい曲リ沢の峠にいた。そこには友が八年前にも腰をおろしたという同じ角材が一本、昔のままに残っていた。
二人は豊麗な夕日を今日の最後の幸福として浴びながら、シデザクラやハクウンボクの白、ヤマツツジの燃える赤に彩られた●新緑の尾根道を、ようやく黄昏せまる日川さして降りて行った。