03:23
7.3 km
368 m
赤磐市 石上布都魂神社~大目山~妙光寺 剣伝説とパワースポット🙏
鳥ヶ佐古山 (岡山)
2025年03月02日(日) 日帰り
【赤磐市のパワースポット巡り】 この日の岡山県は全域にわたって雨が降る予報でした。 そのため、山行目的のメインを史跡巡りとし、赤磐(あかいわ)市の北西端に位置する石上(いしかみ)地区から小鎌(おがも)地区を訪問することにしました。 八岐大蛇(ヤマタノオロチ)縁の剣伝説が遺る石上布都魂(いそのかみふつみたま)神社を出発点とし、予定外の標高289.7m「石上」峰を経て、赤磐八十八ヵ所霊場のうち第23・24番札所を巡り、小鎌地区にある鴨常普(かもとこなめ)神社と麓に祠のある大目山(おおめやま)、そして最後は報恩大師が建立した備前四十八ヶ寺のひとつといわれる妙光寺を訪れました。 結果的には、小雨の中、わずかにヤブコギ気味の山行で赤磐市でも有数のパワースポット巡りとなりました。 訪問して初めて感じることができる特有のパワーが存在し、至る所で終始パワーをいただきました。不思議な世界に迷い込んだような気分でした。 ご利益はというとこれがビミョーで、paypayでの支払い直後に自動的に行われるくじで3等が当たったくらいです。 傘をなくしたとか(おさらばしたかったので、買い替えのいいきっかけになりましたが)、連れが書類をなくしたと大騒ぎして結局見つかったとか、いいんだか悪いんだか😅 標高289.7m三角点「石上」峰<写真19>に行けた結果、メインの石上布都魂(いそのかみふつみたま)神社でお守りを買いそびれているので、当然の結果かもしれません。 「石上」峰<写真19>に行けたのはよかったのですが、連れはこれを石上布都魂神社に嫌われ、二度と来るなという意味だと思っています。 お前、その性格なんとかならんか😅 【強力パワースポット石上布都魂神社】 石上布都魂(いそのかみふつみたま)神社は、元々は大松山(おおまつざん)山頂にあり、寛文9年(1669年)前には本宮<写真15>の位置に小さな祠があるだけでした。 山頂の旧社地に設置された案内板「寛文九年綱政公創設時之絵図」<写真13>によれば、日本三名園のひとつ後楽園の造営で知られる岡山藩第2代藩主・池田綱政(つなまさ)が復興した際には、本殿、幣殿、拝殿、さらに神楽殿まであったことがわかります。 しかし、明治43年(1910年)の大火により焼失したため、現在の社殿は大正4年(1915年)に大松山の中腹で再建され現在に至ります。 学業成就や農業振興などの御利益が伝えられ、特に癌封じは全国から参拝者が訪れるほど有名だそうです。 拝殿前には「三百五十年記念 池田厚子」という文字が刻まれた石碑<写真07>が建っていました。 元岡山藩主・池田家に嫁がれた昭和天皇第四皇女の厚子さんは、平成24年(2012年)に夫・隆政さんが亡くなった後、岡山市北区の池田動物園の園長をずっと務めておられます。 代々池田家とつながりが深いこの神社の復興三百五十年記念祭に池田家代表として出席されたのかもしれません。 ちなみに、理由は明らかではありませんが、厚子さんは令和5年に日本カバヤ・オハヨーホールディングスでCEOを務める野津基弘氏夫妻と養子縁組みを結ばれ、それに伴い野津氏は池田基煕(もとひろ)と改名されました。 カバヤといえば、昔、ジューCというラムネ菓子をよく食べていました。 CMは見かけませんが今でもあるそうで、今回、行きがけに津山線野々口駅側の工場の前を通過し懐かしく思い出しました。 石上布都魂(いそのかみふつみたま)神社拝殿左の休憩所には、御朱印やお守りの自動販売機があります😱 大・中・小と異なるサイズの御朱印と十数種類のお守りが買えるそうです。 岡山県で一番パワーを授かることができる自販機かもしれません。 ちなみに、この自動販売機の正式名称は「自動授与機」のようです。 この自動授与機と拝殿の間に本宮(奥の院)<写真15>に通じるコンクリート道がありました。 休憩所周辺には氏子らしき方々がおられたので、帰りに寄ることにして先に本宮へ。 参道入口の標識には「約10分」と表記してありますが、途中からは岩盤道もあるので歩き慣れていない人はもっとかかるようです。 下が濡れているときは登山靴のほうがいいでしょう。 意志の坂道<写真10>の階段は全54段でそれぞれの段の高さや奥行きが異なります。 きついという口コミも多いですが、山歩きに慣れている人はすんなり行けるでしょう。 標高230mからは岩盤の上を歩くようになり、水が流れそうな箇所もあります。小雨でよかったです。 天女の腰掛の側の石像<写真11>辺りで3人とすれ違いました。 この近くに「命様の磐」(みことさまのいわ)があったようですが、完全にスルー😅 最後は「迫龍の段段」(はくりゅうのだんだん)と名付けられた階段<写真12>を上り、山頂にある本宮<写真15>に辿り着きました。 この階段を上り切ってから振り返ると竜の胴体のようにうねって見えるらしいので、下りるときに撮ろうと思っていたら、下りる機会を逸して撮り損ねました😅 本宮は小規模でしたが、その背後に巨大な磐座(いわくら)<写真16,18>がありました。 磐座のたまり水は、古くから「いぼ取り水」として伝えられ、そこから癌封じの御利益が広まったといわれています。 ここではすがすがしさや心地よさなどを感じる人が多いようです。 しかし、連れは震え出し殺されるかもと思ったそうで、動けなくなってしまいました。 落ち着くまでに10分以上かかりましたが、幸い、どなたも来られませんでした。 真剣に参拝せず、史跡という感覚で見ていたのが悪かったのかもと本人は反省。 バチが当たったと落ち込んだわりには、その後は普通に過ごし、再び磐座をチェック。 一帯は禁足地になっており、赤い針金のようなもので囲まれています。 中には入れませんが、囲い沿いに西側にまわり込んでみました。 地形図を拡大してみるとわかりますが、さらに北に建物を示す赤い四角があり(建物はありません)、その辺りが磐座の北西端のようでした。 磐座の北側は植物が茂ってよく見えませんが崖のようで、危険なので周回禁止との立札がありました。 人により受ける印象は異なるのかもしれませんが、今回のコース上で石上布都魂神社の拝殿・本殿から本宮に至るコースが最大のパワースポットだったのは確かです。 【三角点「石上」峰と大目山】 石上布都魂(いそのかみふつみたま)神社の本宮<写真15>から引き返す予定だったのですが、磐座(いわくら)の北西端(地形図の破線の道の北、建物を示す赤い四角)から細道が延びていました。 ここから北北西の標高289.7m三角点「石上」峰<写真19>に行けるのではと、傘を片手に歩いてみることに。 そのうちに道といえるほど明瞭ではなくなりましたがヤブはなく、標高280m辺りはシダがまばらに生えていますが普通に歩けました。 ササがまばらな箇所もありましたがすぐに終わり、すんなり頂上<写真19>に辿り着きました。 展望は効きませんが、一帯は思っていたより広くフラットな地形でまるで山城跡のようでした。 ここから北に進路を取り、しばらく赤磐市と岡山市の境付近を歩きました。 やはりヤブはなく、木が茂っているので傘をたたんでも雨には当たりません。 「石上」峰<写真19>の北の峰からは北西の市境沿い、北北東尾根のどちらも歩けそうでした。 市境沿いのほうが地籍調査が入っている可能性があり歩きやすいかとも思いましたが、一か八かで北北東尾根へ。 標高275~260m辺りはシダが脚に当たりますが足元は見え、その先しばらくは低木が脚に当たりますが、やはり足元は見えました。 標高210m辺りでとうとう木が密に茂ってきました。 なるべく歩きやすい所を選び、たまにひとかき分けするくらいですみましたが、木の枝に当たると上から雨粒が落ちてきます😅 標高200mを過ぎると木はなくなり、地形図の実線の道を目指して東へ。 コンクリートの溝の中に下りましたが、幸い、水は表面を覆うくらいしかなく、すぐに溝の向こうに這い上がりました。 枯草で見えにくい足元に段差がありましたが、気を付けて無事通過、すぐにあぜ道(地形図の実線の道)に出合いました。 赤磐八十八ヵ所霊場第二十三番札所<写真20>の少し西で舗装道路に出合い、ほっと一息。 小鎌地区に向かって北上し、赤磐八十八ヵ所霊場や鴨常普(かもとこなめ)神社<写真23~26>などに参拝しました。 この神社には天照大神(あまてらすおおみかみ)など十二神が祀られているようです。 岡山県神社庁以外にはほとんどネット情報がなく謎のパワースポットでした。 鴨常普(かもとこなめ)神社<写真23~26>を過ぎると、程なく大目山(おおめやま)南西麓に小さな祠<写真29,30>がありました。 石灯篭や手水鉢が残っており、以前は立派な社殿があったのでしょう。 今回は寺社など信仰の対象地をたくさん巡りましたが、連れはここが最も心地よく感じたそうです。 ここから緩やかな南西尾根を登りましたが、最初は明瞭な道、そのうち不明瞭になりますがヤブはなく、北東に逸れる踏み跡との分岐から北上しました。 こちらのほうが不明瞭ですが、やはりヤブなしで難なく大目山(おおめやま)頂上<写真31>に辿り着きました。 ここも展望は効きませんが広々としており、山城跡があってもおかしくないような地形でした。 また、頂上までの尾根上に石がたくさん転がっており、まるでパワーストーンのようでした。 昔は頂上に神社があり、参道の名残なのかもしれません。 引き返すか北尾根を下りるか少し悩みましたが、時折小雨がパラつくので、今回はさっさと引き返すことにしました。 しばらく東寄りに下ってしまいましたが、ギリギリかき分けずに歩け、祠<写真29,30>の右(北)側を通って再び舗装道路へ。 ここから妙光寺<写真34~38>へとひたすら舗装道路を歩きました。 妙光寺の北に石段の西端と東端に延びる2本の道の分岐がありますが、東のほうは舗装道路、西は砂利道でした。 砂利道に入って南下、最後のパワースポット妙光寺はひっそりとして静かなたたずまいでした。 砂利道はさらに石上布都魂(いそのかみふつみたま)神社に向かって南下していましたが、神社の参道では合流してくる道が見当たらなかったので、石段を下りて出発点に戻りました。 【八岐大蛇と剣の伝説が遺る石上布都魂神社】 石上布都魂(いそのかみふつみたま)神社に参拝しようと思ったきっかけは、2021年6月13日にこの南の岡山市北区御津を散策中にお会いした方に、ここにまつわる八岐大蛇(ヤマタノオロチ)伝説について教えていただいたことでした。 『日本書紀』には、素盞嗚尊(スサノオノミコト)が出雲国で八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の尾を切ろうとした際に、使用した剣の一部が欠けて尾にあった草薙剣(くさなぎのつるぎ)を発見した話が記されています。 この時に使用した剣を祀ったのがこの神社の始まりとのことです。 剣の名は当初は「布都御魂」(ふつのみたま)とされていましたが、明治3年(1870年)には『古事記』にならい「十握剣」(とつかのつるぎ)と変更されています。 ご祭神がこの剣から素盞嗚尊に変更にされたのは明治6年(1873年)のことで、剣をご祭神とすることがタブー視されたためといわれています。 実は、この剣は崇神(すじん)天皇、あるいは仁徳天皇の御代に奈良県天理市の石上神宮に奉納されたと伝承されており、このことから石上布都魂(いそのかみふつみたま)神社は石上神宮の元宮だともいわれています。 ちなみに、石上神宮のHPでは、石上布都魂神社についてはふれられていません。 また、ご祭神の説明では、主祭神は国譲りの神話に登場される武甕雷神(たけみかづちのかみ)がお持ちになられていた韴霊(ふつのみたま)という剣に宿られる御霊威である布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)、饒速日命(にぎはやひのみこと)が天津神(あまつかみ)から授けられた十種の神宝である天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみづのたから)に宿られる御霊威の布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)、素盞嗚尊(スサノオノミコト)が出雲国で八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治されるのに用いられた天十握剣(あめのとつかのつるぎ)に宿られる御霊威である布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)となっています。 ご神体の名前もご祭神の名前も似ていてややこしいです。 石上布都魂(いそのかみふつみたま)神社のご神体だった「十握剣」(とつかのつるぎ)の元の名は「布都御魂」(ふつのみたま)でしたが、石上神宮では別の剣である韴霊(ふつのみたま)が存在することになっており、ややこしさ倍増😅 また、ご神体の2つについては、宮中からここに遷してお祀りしたとありますが、十握剣については書かれていません。 さらに、明治7年に禁足地が発掘された事実(詳細は後述)については述べられていますが、何が出土したのかは明記されていません。 そのくせ、出土した剣(一部が欠けるなど十握剣に特徴が一致)について問い合わせがあった際には、韴霊(ふつのみたま)のほうだと断定されています。 うーん・・・。 さて、石上神宮では明治7年に禁足地が発掘され、『石上神宮旧記』の記述通り、剣が発見されました。 きっかけは、歴史家でもあった菅政友氏が石上神宮の大宮司になられたことでした。 氏は教部省の許可を得て、すでに韴霊(ふつのみたま)という剣と天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみづのたから)とが納められた神籬(ひもろぎ)2か所の東に位置する禁足地の発掘を開始、まずは敷き詰められた瓦、さらに下に勾玉などの他、剣が一振だけ出土しました。 剣の長さは2尺8寸6分(90cm足らず)、ぼろぼろに錆びてはいましたが折れてはおらず、古代の剣の特徴である刃のほうに反った内反りの形状で、柄頭(つかがしら)に装飾のない円形の環がついた素環頭と呼ばれるデザイン、そして、刃の一部が欠けていました。 八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治に使用された「十握剣」(とつかのつるぎ)は、尾を切りつけた際に尾の中にあった草薙剣(くさなぎのつるぎ)に当たって一部が欠けています。 発掘者の菅氏の報告書によれば、この他には剣がなかったので、これこそ伝説の剣であるととりあえず神庫に安置したとのことです。 十握剣がホンマに出てきたー😱いや、喜ぶのはまだ早い。どの剣なのか明記されていないようなのです。 この報告書を現代風に直した文章には、「韴霊」(ふつのみたま)とはっきり書かれているものがあり、石上神宮の見解もそうなのでしょう。 しかし、妙なことがあります。『石上神宮旧記』の記述では、先に韴霊(ふつのみたま)と天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみづのたから)とが納められた神籬(ひもろぎ)2か所があり、後に布都斯御魂神(ふつしみたまのかみ)、つまり十握剣をそれらの東にお祀りしたとなっています。 発掘された禁足地はまさにその位置です。 しかも、伝説の剣であるとした根拠がこれしか剣がなかったことなのです。 菅氏が禁足地を発掘した目的は、行方不明の剣を発見することだったのではないでしょうか。 石上神宮のHPでは、ご神体の韴霊(ふつのみたま)と天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみづのたから)は宮中からここに遷してお祀りしたと書かれていますが、十握剣(とつかのつるぎ)には出所も所在も書かれていないのです。 行方不明の十握剣を探そうと思い立ち、『石上神宮旧記』の記述をもとに禁足地を発掘、予想通り剣は一振りだけ出土し、しかも刃の一部が欠けるという十握剣の特徴と一致。 明治天皇にご報告後、記念に初代月山貞一氏によりレプリカが公式には二振り作られ、石上神宮と皇室に収められたということではないでしょうか。 ちなみに、石上布都魂(いそのかみふつみたま)神社では、これが八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治に使用された剣で、大正年間にレプリカが月山氏により三振り制作されそのうちの一振りが石上布都魂神社に奉納されたと説明されています。 奉納時期はなぜか昭和になってからだったそうで、予備が後に奉納されたのかもしれませんが、少なくとも奉納者は石上布都魂神社にゆかりのある剣、つまり、十握剣だとの認識をお持ちだったのでしょう。 石上布都魂神社が元宮だという説を完全に否定したい石上神宮から抗議がこなくてよかったです😊 【複数ある剣伝説の神社とそこから見えてくる権力闘争】 八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治に使用された十握剣(とつかのつるぎ)は、石上布都魂(いそのかみふつみたま)神社から石上神宮に奉納されたというのは、比較的知られた話らしいのですが、実は、うちにあったという神社が複数存在します。 石上布都魂神社の北東、赤磐(あかいわ)市戸津野にある素盞嗚(すさのお)神社には、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治後に血洗の滝で剣を洗った後、ほぼ南に位置するここに奉納されたという伝承があるのです。 また、吉備津神社では現在もあるという話が😮 『日本書紀』には素盞嗚尊(スサノオノミコト)が蛇を斬られた剣は、いま吉備の神部(かんとも)のところにあると書かれています。 また、『石上神宮旧記』でも、吉備の神部のもとにあったのをここに移したとなっています。 「吉備の神部」が単なる神主のことなら石上布都魂神社でもいいのですが、数少ない神祇官の役職だとすると、吉備津神社の可能性が大なのです。 吉備津神社の南南西に位置する岡山市北区中撫川の須佐之男神社には、十握剣を納めた神社が火事になった際にここが剣の一時保管場所となった縁で、奉遷後にここに須佐之男命(スサノオノミコト)をお祭りしたとの由緒があります。 この十握剣を納めた神社というのが位置的にも吉備津神社だろうというのです。 また、吉備津神社の文書の中に、十握剣はご神体の左脇にあり三重箱に入っているとの記述があります。 実際、平成16年から開始された本殿の屋根葺き替え工事の際にご神体の左脇に三重ではないものの箱が見つかったそうです。 中身については信仰上の問題から明らかにされていないため、これが十握剣(とつかのつるぎ)だったかどうかはわかりません。 このように、十握剣があったという神社は複数存在しますが、これはどういうことなのでしょうか。 まずは、剣が複数あった可能性についてです。 十握剣は、元々は十握りの長さの剣という意味で、固有名詞ではありません。 そのため、『古事記』や『日本書紀』では様々な話に登場しますが、どれも同一の剣とは限らないのです。 各神社にあったという十握剣も、同じものではないかもしれません。 また、同一の剣の所在地がコロコロ変わった可能性もあります。 八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治に使用された伝説の剣となれば、権力の象徴として扱われても不思議ではありません。 大和国がライバルの出雲国を八岐大蛇(ヤマタノオロチ)と呼び、出雲国に勝利するたびに記念に戦場に祀った結果、十握剣の所在地は頻繁に変わったとも考えられます。 出雲国が吉備国に攻め込んで勢力を拡大していたことがあるのは事実です。 岡山市北区建部町田地子(たじこ)にある多自枯鴨(たじこかも)神社の南西に鉾立池という池があります。 この近くに、大国主命が攻め込んで来て(別の説では猛獣や妖怪を退治しにやってきて)鉾を立てて腰を下ろしたという鉾立岩があるそうです。 また、石上布都魂(いそのかみふつみたま)神社の北西にある志呂神社は、元々美作一宮中山神社(津山市)に社地があり、大和から来られた神に譲って遷座した際、先にここで出雲大社のご祭神である大国主命を祀っていた者が反抗したものの、結局は屈して鹿を献上するようになったという伝承があります。 吉備国に攻め込んだ出雲国が支配者となっていたところに大和国が押しかけ、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)、つまり出雲国に勝利したのが岡山県内における八岐大蛇伝説なのではないでしょうか。 勝利記念にあっちこっちで祀られた十握剣(とつかのつるぎ)は大和国が出雲国に完全に勝利した後、大和国に持ち帰られ石上神宮に祀られることになりましたが、ご神体とされていたため手放したくなかった神社がレプリカを差し出したかもしれませんし、あったという事実だけを伝承し現在はないことは秘密にしているのかもしれません。 十握剣は、現在の岡山県の統治者が吉備国から出雲国、最終的には大和国へと変わったという事実の象徴で、信仰や権力と結びつき伝説を次々に生み出し、所在地が明確ではなくなっているのではないでしょうか。 ご神体であるため、これ以上謎に踏み込もうとすると信仰心を傷つけることにもなりかねません。 吉備津神社が十握剣が納められているかもしれない箱の中身について信仰上の問題から明らかにしなかったというのは、正しい判断だったと思います。 結局、ますますよくわからなくなったという情けないオチですが、素人なりに歴史のロマンを堪能でき、楽しかったです。 なお、十握剣(とつかのつるぎ)については、日本古代史ネットワークの特別保存論文より石合六郎氏の「吉備の古代史シリーズ」 第7回および8回の資料などをかなり参考にさせていただきました。 氏は石上神宮の禁足地で発掘された剣を十握剣とは断定されておらず、私の自由な考察とは無関係ですが、とても興味深い論文でした。御礼申し上げます。
