鷹取山から白鷹を取る。歴史と浪漫の白鷹丘陵周回(64-66/山百)
白鷹丘陵トレイル(白鷹山・富神山・東黒森山)
(山形)
2024.04.19(金)
日帰り
為せば成る 為さねば成らぬ
何事も成らぬは人の為さぬなりけり
上杉鷹山
二年前、春藪の時季、富神山から鷹取山を歩いた。
仁田沢へ下りようとして尾根を間違い、上山の内山集落(廃村)へと下りてしまい
狸森から富神山まで歩いて戻る羽目になった。そんなことがあった
そのとき、思ったよりも薄藪で踏み跡もあり、これなら頑張れば白鷹山まで繋げるんじゃない?とか浪漫を膨らませたっけ。いつか挑戦したいと思ったまま時が流れ…
そしてなかなか挑戦できぬまま、気づくと昨年あたり?に白鷹丘陵トレイルの取組が盛んになり、登山道の整備とか五山制覇の証明書発行とかが進められていく
じゃあ、せっかくだから「鷹取山から白鷹を取った」帰りはこれに乗っかってみようかな。天気も良くなく、暖かくなり雪山もひと段落なので、今がチャンスと白鷹丘陵での冒険に行ってきました
景気も悪く、閉塞感のある現代において、再評価されている上杉鷹山公
そもそもJFKに尊敬する政治家として名前を挙げられた方だが、その鷹山の名は白鷹山から取ったものという
様々な財政的な施政は当初うまく行かず、それでもやり続けて、自ら取り組んで結果が出るまでやり遂げたこと
その姿勢はやはり立派だなと感じるものがある
白鷹丘陵はその上杉と、地元の雄、最上、伊達の覇権争いにおいてとても重要な土地である
なんと言っても慶長出羽合戦。
もとより上杉3万に対して最上は7000の寡兵である
孤城、畑谷城を枕に討ち死にした江口光清の手勢500名の奮闘を打ち破り
菅沼山に陣をはり、富神山から山形城を眺めた直江兼続
十日見ても霞んで見えなかったことから、十日見山(富神山)とか、霞ヶ城の名に繋がったと言う逸話も残る
また上山城で上杉の別働隊を足止めした里見民部率いる兵500あまりの善戦。あまり知られてないが、彼の存在が長谷堂城での攻防戦に与えた影響は大きかったとも言う
それから伊達政宗からの援軍3000人の後詰めもあり
「関ヶ原」での東軍の勝利が伝わったこともあって
かくして長谷堂城主、志村光安麾下の1000名の兵は上杉の大軍約2万を退け、北の関ヶ原「慶長出羽合戦」は東軍側の勝利で幕を閉じることになった
前半は鷹取山から藪尾根を辿って白鷹を取り、後半は歴史を思いながら富神山まで歩いた周回
思ったことは我々の先祖が、ふるさとを、名誉を、愛する者を守るために多勢を相手に生命を賭し
打ち破れ、あるいは退け、立派に戦い抜いたこと
後世で思ってしまうようなただの勝ち負けの話ではない
人にとって生命をかけても守りたいものが確かにあること
それを考えさせられた歴史と浪漫の白鷹丘陵周回でした
今日も無事、下山できてありがとうございました😊