活動データ
タイム
02:08
距離
4.3km
のぼり
445m
くだり
445m
活動詳細
すべて見る岩崎彌太郎(1835~1885)は安芸郡井ノ口村(現在の安芸市井ノ口)に地下浪人・岩崎彌次郎の長男として生まれる 岩崎家は甲斐武田の一族と伝えられ、三階菱の家紋も武田菱に由来するといわれる 14歳にして十三代藩主・山内豊熙に漢詩を献じ書を講じて賞される程の秀才であった 安政元年(1854)、江戸遊学前に近くの妙見山の星神社に参拝した彌太郎は神社の扉に「後日 英名ヲ天下ニ轟カサザレバ再ビ帰リテ此ノ山ニ登ラジ」と大書 大志を胸に江戸に上り昌平坂学問所教授・安積艮斎に入門した しかし翌年、酒席の喧嘩がもとで父親が投獄されたことから土佐に帰郷 壁に墨で「官ハ賄賂ヲモッテナリ、獄ハ愛憎ニヨッテ決ス」と大書するなど度を越した免罪の訴えが奉行所の怒りを買い彌太郎自身も投獄されるが、獄中で同房の商人から算術や商法を学んだことが彼の行く末に大きく影響を与える 安芸郡を追放された彌太郎だが、蟄居中であった土佐藩家老・吉田東洋の塾に通って見出されると、東洋暗殺後は同じく東洋門下生である後継の家老・後藤象二郎の下で才覚を発揮 長崎で坂本龍馬から得た示唆により海運業に着眼、海援隊の残務処理を経て九十九商会で経営に当たり明治6年(1873)三菱商会に改称 この頃から土佐藩主山内家の家紋、三ツ柏に岩崎家の三階菱を組み合わせた三菱のコーポレートマーク「スリーダイヤ」が使われ始めた 明治10(1877)年の西南戦争では社船38隻を政府軍の軍事輸送に投入 戦費総額4156万円のうち三菱の御用船運航収入総額299万円、東京市年度予算を超える当期利益は93万円となり、莫大な利益をあげて三菱の海運業は国内トップの地位を築き、諸外国の海運会社との激しい競争を制して「東洋の海上王」と称される 政商となった三菱には寡占企業との批判が集まり、澁澤榮一や三井、大倉財閥などの反三菱財閥勢力が結集して「共同運輸会社」を設立 三菱vs共同運輸の消耗戦で運賃は2年で10分の一に急落したという 後に両社が合併して「日本郵船」となり、三菱グループの源流を担うことになるのは興味深い 彌太郎は海運業以外にも炭坑・鉱山経営、造船業をはじめ銀行業、倉庫業、保険業など幅広く手掛けるが、その経営の最大の特徴は「国あっての三菱」の言葉に表現される、明治初期の時点において個人や会社にとらわれず国家的目的を追求した先進性にあった 明治18年、享年50歳で胃がんにより生涯を閉じるがその大志は弟・彌之助に受け継がれ、日本を代表するコングロマリットとして三菱グループへと発展していくこととなる という訳で、 高知が生んだ偉人の一人、三菱グループの創始者・岩崎彌太郎の生家からほど近い妙見山を歩いてきた どのくらい近いかというと彌太郎生家から登山口まで徒歩で10分もかからない距離である 山上には彌太郎が志を扉に大書した星神社が鎮座する 焼失で建て替えられて当時の社はないが、境内には様々思いが書き付けられた絵馬を掛けるための場所が設けられている 山頂は星神社ではなく南側の盛り上がった場所にあるようだが、藪となっていて確認できなかった 山体は一部崩落しつつあり、ルンゼ状の谷で崖が切れ落ちていたりするが、登山道は至って明瞭でよく歩かれている 個人的な残念ポイントは山頂までクルマで行けてしまうこと 星神社すぐ横に10台以上置ける駐車場まである 僕もそのために今まで足が向かなかったのだが、それだけ地域の人々から愛されている証左だろう 今や高知には三菱の工場もなく寂しい限りだが、世界に名だたる企業グループの創業者を当地が輩出したことは素直に誇らしい 彌太郎が成功を収めた後にこの山に登ったかは定かではないが、若さの至りの書付を実現できる人がどのくらいいるだろうか ささやかでも良いので心のなかに夢は持ち続けたいところ 地元の歴史を知るきっかけにもなり、彼が歩いたであろう登山道を登ってみると自分を振り返って気づきもあった 彼と僕ではスケールが少しだけ違う気もするがw、これはこれでよいものだ
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