活動データ
タイム
06:42
距離
34.1km
のぼり
120m
くだり
137m
チェックポイント
活動詳細
すべて見る(※ ログはメチャクチャです) 先週は、5/18(土) 実施予定の「与一右衛門杯・往路編《旧山陽道》Part 1」として「神村(松永) → 矢掛」を下見・調査した。今回は、その続きの往路編《旧山陽道》Part 2 「矢掛 → 箭田(真備) → 清音(総社) → 倉敷」 ちなみに箭田(やた)・清音(きよね)と読む。 今回はカミさんと一緒だった。カミさんとは度々 遠足をしている。以前は 生口島一周。最近はもっぱら大三島往復。約 20 ~ 25km を 5.3 km/hを維持して歩いている。今回は、下見・調査を兼ねてエリアを変更した。 道中は、本陣に 1回・コンビニに 2回・スーパーに 1回寄り、食事は歩きながら「おにぎり🍙1個・コロッケ1個・パン1個・お菓子」を食べた。常夜灯と石碑は簡単に見つかるが一里塚跡を探すのに P-Go が役に立った。 6:35 起床、7:08 出発。セブンに寄り、 8:55 矢掛駅着。予定通り 9:00 スタート。 【藤井与一右衛門】…前回の続き 与一右衛門が部長になり、部独自の気風と慣行がより鮮明になってきた。それは次の3点。1点目は、リーダーの責任性と義務・権限が明確にされたこと。リーダーは参加者を掌握し、身体状況・心理状況をも察知し、適切に誘導し事故のないように万全の配慮を払う。参加者はリーダーを信頼し、指示に従い身勝手な行動をしない。現在も守り続けられている掟「リーダーより前を歩いてはならない」の原点はここにある。2点目は、「質実剛健の精神の作興」「登山道徳の実践」「安全登山の励行」「自然愛護」が不文律とされていたこと。これは今日では常に留意していることである。3点目は、登山に精進する会員相互に、人も羨む 暖かい人間関係が醸成されていたこと。 年間登山回数も40~50回を数えるようになり、遠征もするようになった。1941(昭和16)年12月、太平洋戦争が勃発すると戦時体制が強化されていった。軍国主義の国策はますます浸透し、山岳会の活躍も国策に沿うということで、強行軍という耐久訓練に変貌していった。 半日に10里(40km)~25里(100km)を歩くことが盛んに行われた。与一右衛門はすでに55歳であったが、体力と精神力の限界を探ることと記録会を兼ねて、 1942(昭和17)年5月10日、30里6丁(約120km)を踏破する目標を立てて挑戦した。そして、午前1時に出発し、19時間で見事に踏破した。この時代の福山山岳会はよくまとまり、新しい世界を築き上げようとする気概に満ち、積極的に登山活動を続け会史上でも隆盛と言える一時期であった。ちなみに「福山体育会山岳部」の名称を「福山山岳会」と改めたのは 1957(昭和32)年4月20日、初代会長に大村徳一が選ばれた。
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