「吉野三山」銀峯山・栃原岳

2023.09.08(金) 日帰り

今日は「吉野三山」の銀峯山と栃原岳を登って旧西吉野村を周回した 吉野三山とは、銀峯山、栃原岳、櫃ヶ岳を指す。古来、吉野と呼ばれた地域にある3つの神奈備山を指す 神奈備山とは「神が宿る山」という意味で、いずれも山頂に神社があり、吉野地域が古来より山岳信仰の地であったことを今に伝えている 「栃原岳、銀峯山、櫃ヶ岳」は、「金岳、銀岳、銅岳」とも呼ばれる。この付近がかつて黄鉄鋼や銅の鉱山であったことによる 銀峯山(白銀岳、白金岳、銀岳とも呼ぶ)山頂に波宝神社がある 栃原岳(金峰山、黄金岳、金岳とも呼ぶ)山頂に波比売神社がある 櫃ヶ岳(銅岳とも呼ぶ)山頂に櫃ヶ岳八幡神社がある  https://yamap.com/activities/26714282

西吉野コミュニテイセンター
駐車場を使わせて頂きました

西吉野コミュニテイセンター 駐車場を使わせて頂きました

西吉野コミュニテイセンター 駐車場を使わせて頂きました

小櫻神社

小櫻神社

小櫻神社

朝方、雨が降ってたがようやく止んできた

朝方、雨が降ってたがようやく止んできた

朝方、雨が降ってたがようやく止んできた

西田家住宅
17世紀中頃(1615年~1660年)に建てられた。元は「西の坊」という寺院だったと言われている
西田家住宅は表側が土間を半分近く占め、出の間・客殿の二部屋、背面側がおいえ・中納戸・奥納戸の三部屋になっている。出の間と中納戸の間の仕切りに片引き戸の帳台構えが残されている。柱は釿仕上げで、溝を刻み、板戸で部屋を仕切った痕跡があり、古い建築様式を残している。住宅は内側が黒い壁が多く、内部が暗いのが特徴。また外側は引戸・板戸が多く閉鎖的になっている
ちなみに屋根は茅葺屋根だが、火災防止の為に鉄板仮葺になっている
西田家住宅は内部が比較的よく保存され、この地方の江戸時代の民家としての特徴を良く残している

西田家住宅 17世紀中頃(1615年~1660年)に建てられた。元は「西の坊」という寺院だったと言われている 西田家住宅は表側が土間を半分近く占め、出の間・客殿の二部屋、背面側がおいえ・中納戸・奥納戸の三部屋になっている。出の間と中納戸の間の仕切りに片引き戸の帳台構えが残されている。柱は釿仕上げで、溝を刻み、板戸で部屋を仕切った痕跡があり、古い建築様式を残している。住宅は内側が黒い壁が多く、内部が暗いのが特徴。また外側は引戸・板戸が多く閉鎖的になっている ちなみに屋根は茅葺屋根だが、火災防止の為に鉄板仮葺になっている 西田家住宅は内部が比較的よく保存され、この地方の江戸時代の民家としての特徴を良く残している

西田家住宅 17世紀中頃(1615年~1660年)に建てられた。元は「西の坊」という寺院だったと言われている 西田家住宅は表側が土間を半分近く占め、出の間・客殿の二部屋、背面側がおいえ・中納戸・奥納戸の三部屋になっている。出の間と中納戸の間の仕切りに片引き戸の帳台構えが残されている。柱は釿仕上げで、溝を刻み、板戸で部屋を仕切った痕跡があり、古い建築様式を残している。住宅は内側が黒い壁が多く、内部が暗いのが特徴。また外側は引戸・板戸が多く閉鎖的になっている ちなみに屋根は茅葺屋根だが、火災防止の為に鉄板仮葺になっている 西田家住宅は内部が比較的よく保存され、この地方の江戸時代の民家としての特徴を良く残している

ルートはこの谷沿い
取り付きはもう少し進んだ所にある

ルートはこの谷沿い 取り付きはもう少し進んだ所にある

ルートはこの谷沿い 取り付きはもう少し進んだ所にある

尾根に昇れば道は明確になる

尾根に昇れば道は明確になる

尾根に昇れば道は明確になる

竜王山 山頂

竜王山 山頂

竜王山 山頂

竜王山 三角点

等級種別	二等三角点
基準点名	夜中
北緯	34°18′12″.3674
東経	135°44′57″.5566
標高(m)	618.89

竜王山 三角点 等級種別 二等三角点 基準点名 夜中 北緯 34°18′12″.3674 東経 135°44′57″.5566 標高(m) 618.89

竜王山 三角点 等級種別 二等三角点 基準点名 夜中 北緯 34°18′12″.3674 東経 135°44′57″.5566 標高(m) 618.89

夜中の地蔵堂
夜中の地名は、神功皇后がこの地で休んだ際に、日蝕により白昼であるにも関わらず夜中のように暗くなった故事から付けられた

夜中の地蔵堂 夜中の地名は、神功皇后がこの地で休んだ際に、日蝕により白昼であるにも関わらず夜中のように暗くなった故事から付けられた

夜中の地蔵堂 夜中の地名は、神功皇后がこの地で休んだ際に、日蝕により白昼であるにも関わらず夜中のように暗くなった故事から付けられた

多くの地蔵さんがいました

多くの地蔵さんがいました

多くの地蔵さんがいました

波宝神社

波宝神社

波宝神社

拝殿は本瓦葺・平入入母屋造で向拝の付いた割拝殿

拝殿は本瓦葺・平入入母屋造で向拝の付いた割拝殿

拝殿は本瓦葺・平入入母屋造で向拝の付いた割拝殿

毎年9月の第2日曜日に行われる「岳祭り」においてこれが掲げられる「扇御幣」

毎年9月の第2日曜日に行われる「岳祭り」においてこれが掲げられる「扇御幣」

毎年9月の第2日曜日に行われる「岳祭り」においてこれが掲げられる「扇御幣」

銀峯山 山頂
寛文12(1672)年に建立された奈良県指定有形文化財の本殿には二棟の本殿を連結する板壁に大きな日輪に月輪が重なる日蝕の様子が描かれている
神社の伝承では神功皇后が三韓征伐からの帰還の際、紀伊へ赴く途中にこの山で休み、その際に白昼であるにも関わらず夜中のように暗くなり、神に祈ると再び日が照りだし明るくなったと伝わり、この日蝕の様子を描いたのではないかと思われる
右側の社殿に住吉三神、左側の社殿に神功皇后を祀っている

銀峯山 山頂 寛文12(1672)年に建立された奈良県指定有形文化財の本殿には二棟の本殿を連結する板壁に大きな日輪に月輪が重なる日蝕の様子が描かれている 神社の伝承では神功皇后が三韓征伐からの帰還の際、紀伊へ赴く途中にこの山で休み、その際に白昼であるにも関わらず夜中のように暗くなり、神に祈ると再び日が照りだし明るくなったと伝わり、この日蝕の様子を描いたのではないかと思われる 右側の社殿に住吉三神、左側の社殿に神功皇后を祀っている

銀峯山 山頂 寛文12(1672)年に建立された奈良県指定有形文化財の本殿には二棟の本殿を連結する板壁に大きな日輪に月輪が重なる日蝕の様子が描かれている 神社の伝承では神功皇后が三韓征伐からの帰還の際、紀伊へ赴く途中にこの山で休み、その際に白昼であるにも関わらず夜中のように暗くなり、神に祈ると再び日が照りだし明るくなったと伝わり、この日蝕の様子を描いたのではないかと思われる 右側の社殿に住吉三神、左側の社殿に神功皇后を祀っている

壁には2017年9月10日(日)、約40年ぶりに復活開催された「岳祭り」みこし渡御の写真が掲げられていた

壁には2017年9月10日(日)、約40年ぶりに復活開催された「岳祭り」みこし渡御の写真が掲げられていた

壁には2017年9月10日(日)、約40年ぶりに復活開催された「岳祭り」みこし渡御の写真が掲げられていた

立派な石段の参道

立派な石段の参道

立派な石段の参道

上って行くと小さな祠

上って行くと小さな祠

上って行くと小さな祠

等級種別	四等三角点
基準点名	唐戸
北緯	34°19′35″.2277
東経	135°46′18″.1392
標高(m)	487.56

等級種別 四等三角点 基準点名 唐戸 北緯 34°19′35″.2277 東経 135°46′18″.1392 標高(m) 487.56

等級種別 四等三角点 基準点名 唐戸 北緯 34°19′35″.2277 東経 135°46′18″.1392 標高(m) 487.56

熊野神社

熊野神社

熊野神社

波比売神社 正面参道には巨大な杉の木が聳え石灯籠が並ぶ

波比売神社 正面参道には巨大な杉の木が聳え石灯籠が並ぶ

波比売神社 正面参道には巨大な杉の木が聳え石灯籠が並ぶ

波比売神社 拝殿

波比売神社 拝殿

波比売神社 拝殿

栃原岳 山頂は、この社殿の裏

栃原岳 山頂は、この社殿の裏

栃原岳 山頂は、この社殿の裏

波比売神社 鳥居

波比売神社 鳥居

波比売神社 鳥居

小さい秋見つけた

小さい秋見つけた

小さい秋見つけた

高岳 山頂

高岳 山頂

高岳 山頂

相撲で谷に投げ飛ばされて亡くなった谷口清次の墓
石堂谷の領有をめぐって奥郷と口郷との間に争いが絶えなかったが、ある年、石堂谷の入会を決めるのにもめ抜いた挙句、代表選手を出して相撲をとらせ、勝った方の所有にしようじゃないかということになり、丹生側から長谷村の谷口清次という身の丈六尺五寸もある力自慢が、下市側から梨子堂村の村上文左衛門が選ばれた。文左衛門は下市へ相撲をとりに行った時、矢来の青竹をしごいてふんどし代わりにしたので青竹文左衛門と異名を取った程の豪力無双の所有者だった
双方の物凄い声援怒号のうちに石堂谷の所有権をかけた大相撲が始まり、双方頑張ってなかなか勝負がつかなかったが、清次は文左衛門に体を高々と差し上げられ谷座へ投げ飛ばされて、清次は亡くなった。今もこの谷を清次の谷と言われている

相撲で谷に投げ飛ばされて亡くなった谷口清次の墓 石堂谷の領有をめぐって奥郷と口郷との間に争いが絶えなかったが、ある年、石堂谷の入会を決めるのにもめ抜いた挙句、代表選手を出して相撲をとらせ、勝った方の所有にしようじゃないかということになり、丹生側から長谷村の谷口清次という身の丈六尺五寸もある力自慢が、下市側から梨子堂村の村上文左衛門が選ばれた。文左衛門は下市へ相撲をとりに行った時、矢来の青竹をしごいてふんどし代わりにしたので青竹文左衛門と異名を取った程の豪力無双の所有者だった 双方の物凄い声援怒号のうちに石堂谷の所有権をかけた大相撲が始まり、双方頑張ってなかなか勝負がつかなかったが、清次は文左衛門に体を高々と差し上げられ谷座へ投げ飛ばされて、清次は亡くなった。今もこの谷を清次の谷と言われている

相撲で谷に投げ飛ばされて亡くなった谷口清次の墓 石堂谷の領有をめぐって奥郷と口郷との間に争いが絶えなかったが、ある年、石堂谷の入会を決めるのにもめ抜いた挙句、代表選手を出して相撲をとらせ、勝った方の所有にしようじゃないかということになり、丹生側から長谷村の谷口清次という身の丈六尺五寸もある力自慢が、下市側から梨子堂村の村上文左衛門が選ばれた。文左衛門は下市へ相撲をとりに行った時、矢来の青竹をしごいてふんどし代わりにしたので青竹文左衛門と異名を取った程の豪力無双の所有者だった 双方の物凄い声援怒号のうちに石堂谷の所有権をかけた大相撲が始まり、双方頑張ってなかなか勝負がつかなかったが、清次は文左衛門に体を高々と差し上げられ谷座へ投げ飛ばされて、清次は亡くなった。今もこの谷を清次の谷と言われている

城山 三角点

等級種別	三等三角点
基準点名	西山
北緯	34°18′18″.4578
東経	135°47′03″.2527
標高(m)	617.67

城山 三角点 等級種別 三等三角点 基準点名 西山 北緯 34°18′18″.4578 東経 135°47′03″.2527 標高(m) 617.67

城山 三角点 等級種別 三等三角点 基準点名 西山 北緯 34°18′18″.4578 東経 135°47′03″.2527 標高(m) 617.67

向こう正面に銀峯山

向こう正面に銀峯山

向こう正面に銀峯山

西吉野コミュニテイセンター 駐車場を使わせて頂きました

小櫻神社

朝方、雨が降ってたがようやく止んできた

西田家住宅 17世紀中頃(1615年~1660年)に建てられた。元は「西の坊」という寺院だったと言われている 西田家住宅は表側が土間を半分近く占め、出の間・客殿の二部屋、背面側がおいえ・中納戸・奥納戸の三部屋になっている。出の間と中納戸の間の仕切りに片引き戸の帳台構えが残されている。柱は釿仕上げで、溝を刻み、板戸で部屋を仕切った痕跡があり、古い建築様式を残している。住宅は内側が黒い壁が多く、内部が暗いのが特徴。また外側は引戸・板戸が多く閉鎖的になっている ちなみに屋根は茅葺屋根だが、火災防止の為に鉄板仮葺になっている 西田家住宅は内部が比較的よく保存され、この地方の江戸時代の民家としての特徴を良く残している

ルートはこの谷沿い 取り付きはもう少し進んだ所にある

尾根に昇れば道は明確になる

竜王山 山頂

竜王山 三角点 等級種別 二等三角点 基準点名 夜中 北緯 34°18′12″.3674 東経 135°44′57″.5566 標高(m) 618.89

夜中の地蔵堂 夜中の地名は、神功皇后がこの地で休んだ際に、日蝕により白昼であるにも関わらず夜中のように暗くなった故事から付けられた

多くの地蔵さんがいました

波宝神社

拝殿は本瓦葺・平入入母屋造で向拝の付いた割拝殿

毎年9月の第2日曜日に行われる「岳祭り」においてこれが掲げられる「扇御幣」

銀峯山 山頂 寛文12(1672)年に建立された奈良県指定有形文化財の本殿には二棟の本殿を連結する板壁に大きな日輪に月輪が重なる日蝕の様子が描かれている 神社の伝承では神功皇后が三韓征伐からの帰還の際、紀伊へ赴く途中にこの山で休み、その際に白昼であるにも関わらず夜中のように暗くなり、神に祈ると再び日が照りだし明るくなったと伝わり、この日蝕の様子を描いたのではないかと思われる 右側の社殿に住吉三神、左側の社殿に神功皇后を祀っている

壁には2017年9月10日(日)、約40年ぶりに復活開催された「岳祭り」みこし渡御の写真が掲げられていた

立派な石段の参道

上って行くと小さな祠

等級種別 四等三角点 基準点名 唐戸 北緯 34°19′35″.2277 東経 135°46′18″.1392 標高(m) 487.56

熊野神社

波比売神社 正面参道には巨大な杉の木が聳え石灯籠が並ぶ

波比売神社 拝殿

栃原岳 山頂は、この社殿の裏

波比売神社 鳥居

小さい秋見つけた

高岳 山頂

相撲で谷に投げ飛ばされて亡くなった谷口清次の墓 石堂谷の領有をめぐって奥郷と口郷との間に争いが絶えなかったが、ある年、石堂谷の入会を決めるのにもめ抜いた挙句、代表選手を出して相撲をとらせ、勝った方の所有にしようじゃないかということになり、丹生側から長谷村の谷口清次という身の丈六尺五寸もある力自慢が、下市側から梨子堂村の村上文左衛門が選ばれた。文左衛門は下市へ相撲をとりに行った時、矢来の青竹をしごいてふんどし代わりにしたので青竹文左衛門と異名を取った程の豪力無双の所有者だった 双方の物凄い声援怒号のうちに石堂谷の所有権をかけた大相撲が始まり、双方頑張ってなかなか勝負がつかなかったが、清次は文左衛門に体を高々と差し上げられ谷座へ投げ飛ばされて、清次は亡くなった。今もこの谷を清次の谷と言われている

城山 三角点 等級種別 三等三角点 基準点名 西山 北緯 34°18′18″.4578 東経 135°47′03″.2527 標高(m) 617.67

向こう正面に銀峯山