soranotori
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- 神奈川, 山梨, 東京で活動
- 男性
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先日、「PERFECT DAYS(パーフェクトデイズ)」を観てきた。この映画は12月下旬に公開されていたので、2カ月経ってようやく・・という感じであった。最も映画館に足を運ぶのも何年かぶりであったので、よっぽど観たかったのかと我ながら思う。 平山(役所広司)の日常の繰り返し・・と言えば、そんな映画である。現代の東京であるのだけれど、平山の生活は70年、80年代のままで、徹底してアナログなのである。もちろん、スマホもパソコンもテレビもない。唯一、ガラケーはあったが、仕事の連絡用である。持ち物はフィルムカメラ、カセット、ラジカセ、電気スタンド、電気シェーバ、布団、植木鉢、それと文庫本。こんな程度である。カーテンすら無いのだ。 日常は早朝に近所の竹箒の音で目覚めるところから始まる。布団をたたみ、歯を磨き、自販機で缶コーヒーを買い、軽自動車でカセットテープの音楽を流し、公衆トイレを清掃して回る。神社の境内でサンドウイッチの昼食をとり、銭湯に行き、駅地下の酒場に寄り、文庫本を読み、寝る・・・と、いうルーティンを繰り返す。でも、平山の生活は充足しているように見える。また、平山の所作が小気味いいのだ。何年も繰り返してきたルーティンは教えてくれるのかもしれない。最低限の必要な物と生活は本当の豊かさなのだ・・・と、そんな風に思えてしまう。 想像の種は散らばめられているが、平山の経緯や過去の説明はない。また、起承転結もないと言えばそうかもしれない。結論も、主張もない・・と言えるかもしれない。この映画を誰にでもお薦めしようとは思わないけれど、僕は平山とその生活が好きだし、この映画も好きである。 終幕では、いつものように早朝、カセットテープの音楽とともに車を走らせる。ニーナ・シモン「feeling good」が流れる。平山の顔にカメラが寄る。このときの表情が平山を語っているようだった。とってもいいのだ。この終幕を観るだけでも、もう一度観たいと思う映画であった。
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タモリ倶楽部が今月末で最終回になるという。本当かな・・と思ってテレ朝のHPで番組表を見たら3月31日のタモリ倶楽部には「終」マークが付いていた。ちょっと驚きだった。この番組が終了するとは思ったこともなかったからだ。 同番組は1982年の10月にスタートした。40年を超える番組になるのだ。よく続いたものだ。金曜日の深夜番組ということもあって見れないことは度々あったけれど、終了となると淋しい。 そもそも、タモリ倶楽部はタモリさんの趣味と好みを反映した番組だ。その趣味がなかなかいいのである。深夜の番組ということもあって、視聴率には頓着なく、興味あることを企画してゆるゆるとやっている雰囲気が実によかった。 内容は、鉄道、船舶、地形、料理、酒呑、雑談、ニッチ・・・などなどであった。なかには縁台で酒を呑みながらの雑談とか、タモリさんの行きつけラーメン屋で食事するだけなんていうのもあって、こんな企画でも番組になるんだ・・と思ったりもした。でも、このばかばかしさがよかったし、笑えた。 鉄道関連はよく企画していた。さらに「タモリ電車クラブ」なる会も発足していた。これも面白かった。旧東急・渋谷駅のかまぼこ屋根を歩いたり、各社の乗車体験をしたりもした。最近はドクターイエローにも乗車していたのである。僕は鉄ちゃんではないのだけど、彼らがワクワクして話したり体験しているのを見るとこっちまで楽しくなったものだ。とくに会員NO.2の原田芳雄氏(2011年故)は無類の鉄道好きだった。まるで子供のようだった。懐かしい。 ほかにも思い出すことがいろいろある・・・例えば、船の接岸とか、荒川大模型とか、灯台とか、地図とか、それと何と言っても「空耳アワー」があった。 そんな思い出深い番組が、終了するのは残念だ。タモリさんも77歳になる。それも一因なのかもしれない。でも、タモリ倶楽部は受け狙いをせず、頑張りもせず、シツコさもなく、サラっとしていた番組だったので、なんとなく終わっていくのがいいのかもしれない。淋しいけれど・・・
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先日、山梨県大月市の花咲山を訪ねた。まず、名前に惹かれる。「花の咲く山」・・「花咲山」・・いい名前だなぁと思う。 そして、思い出すのが「花さき山」という絵本のことだ。娘たちが小さい頃に読んだのを思い出す。記憶が乏しいので、読み返してみた。内容はこうだ。花さき山はいちめんの花が咲いている。その花はやさしいことをひとつすると、ひとつ咲くというのだ。人のためにしんぼうしても咲くというのである。いちめんの花は、みんなこうして咲いたのだという。主人公の少女が再び、花さき山に行く。でも、花さき山を見つけることができなかった。けれども、少女はそのあと、ときどき「いま、花さき山でオラの花が咲いている」って思うことがあった・・・と、終わる。 童話の話と言えば、そうだけど、優しさとか、しんぼうとかがないと花は咲かないのだと思う。高尾でも八方でも同じで、「花さき山」のようになりたいと願うことが大切なことではないだろうか。 ちなみに大月の花咲山は、名前ほどには花はみられない。秋に爪蓮華が咲くのは楽しみではあるけれど、それ以外では取り立てて花が多いということはないようだ。花に関して過度の期待を持たなければ、いい山だと思う。
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腕時計というものは以前からあまりつけない。腕にまといつくような感じが嫌と云えば嫌なのだ。「気になるなあ」と思うとなおさら気になるので、外してしまう。でも、山に行くとつける。特に泊りの場合は必要になる。夜、ふと目が覚めた時にはまず時計なのだ。 その唯一、腕につける時計が「PRO_TREK」である。購入してから10年、もしくはそれ以上になる。グレードはピンキリのキリのほうではあったが、それ以前は一万円以上の時計を買うことはなかったのだから、我ながら奮発したものだと思う。この時計では電波時計が画期的だった。もちろん、この当時から出回ってはいたけれど、僕には初めてのことだったのでこれはうれしかった。そして、いまさら言うことでもないけれど、高度計と方位計と温度計の機能があった。方位計と温度計はあまり使うことはことはなかったが、高度計はよく使った。山頂までの位置を把握するのには都合がよかった。でも、スマホの地図を視るようになってからはその高度計も使わなくなってしまった。いまは、現在位置の高度設定もできそうもない。 「腕時計は馴染めない」とか、言いつつも10年、この「PRO_TREK」と一緒に山を歩いて来たのである。同志という感じもする。さすがに外観は疲れている。特に廻りの金属部分は傷が多い。でも、文字盤のガラスには傷がない・・のは立派だと思う。ただ、バンド部分にヒビが入っているのでどれくらい持つかなあ・・・と思う。(おちついてくれよと願いつつ)来年の夏には「PRO_TREK」をつけて白馬に行きたいと思うのである。もちろん、泊まりで。
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娘たちが小学生の頃、国語の宿題で教科書の音読があった。その宿題は家族の誰かに聞いてもらうものだった。その聞役はほとんどがKさんであった。あるとき、Kさんが次女の読む音読で泣いてしまったと言った。確か、次女が小三の頃だった思う。それは「ちいちゃんのかげおくり」というはなしである。拙い次女の音読ではあったが、その内容に引き込まれたとのことだ。後半は涙があふれてきたという。それで、ぼくも次女の教科書で「ちいちゃんのかげおくり」を読んでみた。「これは、ツラいなあ・・」と思ったものだった。なにがツラいかというと、ちいちゃんと同じ年頃の子がこの話を音読しているのをじーっと、聞いているのは、ツラいと思うのだった。 話しの内容は太平洋戦争末期のころで、ちいちゃんは、父・母・兄と暮らす4人家族。あるとき、かげおくりという遊びを父親から教わる。影を見つめておいて、瞬時に空を見ると4人の影が空に浮かぶというものだった。やがて、父親は出征する。残された家族の街に空襲があり、ちいちゃんは母、兄ともはぐれる。ちいちゃんは一人でいくつもの夜を迎える。やがて、「夏のはじめのある朝、こうして、小さな女の子の命が、空にきえました。」という最後になる。 もちろん、ぼくは戦争体験はないけれど、「夏の空」「音読」「ちいちゃん」というキーワードを聴くと「ちいちゃんのかげおくり」を思い出す。そして、次女がこれを音読して、Kさんがその前で涙している光景が目に浮かぶのであった。
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先週は母の日であった。 離れている娘二人からKさんに花が送られてきた。それは毎年のことである。今年は長女はピンクのカーネションの鉢物で、次女がフラワーアレンジメントだった。毎年のことではあるけれど、Kさんは嬉しそうだ。 そして・・・毎年この日、僕は後ろめたくなるのである。と、いうのも母親に母の日だからといって、花どころか、感謝の言葉すらしたことがなかった。小学生の頃には何か渡したような気がするけれど、その程度だ。その母親は30年前に亡くなった。心不全だった。取り付く間もなく・・という感じだった。 僕が物心ついた頃には母は仕事を持っていた。家の誰よりも早く起きて朝食の準備をした。中学に上がる頃には息子二人の弁当を用意した。送り出してからは家事をこなして仕事に向かった。帰宅は夕方の6時頃だったと思う。それから、あれよという間に夕飯が食卓に並べられた。なにしろ育ちざかりの息子が二人いたのだから、まずは食事だったのだろう。それから片づけをして・・という日々だった。いま、思うと大変だったなあと思う。その頃はありがたいとも思わず、当然のようにしていたのだから、情けない。それでも、小学生の頃は食事のあとに肩を叩いたり揉んだりをしてあげた。すごく喜んだ。母は肩こりだった。喜ぶ顔が見たくてよくそれをやったものだった。でも、中学になると殆どそれは無くなった。たまに辛そうにしていると、肩揉みをしてあげた。「ありがとうね」と言って目を細めていたのを思い出す。なにかしてあげると、すごく喜ぶ母親であった。それは分かっていた。母の日に花をプレゼントしたら、相当喜んだに違いない。 毎年、Kさんの喜ぶ顔を見ると後ろめたく思うのである。
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次女が12月に結婚式を挙げた。もともとは今年の6月に予定していた式であった。でも、その頃はコロナ禍の第一波の頃だった。式は難しいということで取り止めた経緯がある。そこで8月に状況を見ながらということで12月に式場を再予約したのである。しかし、今回も第三波のビッグウェーブとなってしまった。二人で考えて、式の内容は徐々に省いていった。披露宴はお披露目のみとして飲食はなし。親戚関係はお互いの両親と兄弟、姉妹のみ。招待者は仕事関係はなし、友達は親しい人だけにした。本当に・・というのも変だけど、気心の知った人たちだけが集まった式であった。残念なのは花嫁の祖母が出席できなかったことだ。高齢であることもあったし、認知も少々あって本人も移動を怖がった。次女もこの一年、祖母には会ってはいない。次女は小さい頃から祖母が大好きで会いたがっていたのを思うと気持ちは複雑だ。 披露宴と言うのもなんだけど、広いホールにはテーブルも椅子も置かず、コップ一杯の水さえない披露宴だった。でも、二人が入場したときは優しさに溢れた拍手がホールに響いた。目頭が熱くなってしまった。「せめて式だけでも」という思いの拍手であった。拍手しながら、次女の小さい頃のことがいくつも蘇ってきた。我慢強い子だったことや、運動会のことや、旅行に行ったことや、一輪車を黙々練習していたことや・・・などなど。僕の目の奥に脈略もなくフラッシュバックのように流れていった。 華やかさもなく、演出もなく、触れ合うこともないウェディングであったが、よい式であったと思う。君たちは何年も、何十年も経って、この12月のウェディング思い出すだろう。「コップ一杯の水も出ない披露宴だったね」と、ふたりで笑い。「でも、いい式だった」と微笑む・・そんな、おじいちゃん、おばあちゃんになってたらいいな、と思うのである。
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