ミミリン
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- 活動エリア 栃木,茨城,福島

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日帰り ハイキング的なんですが、山道で四季折々の草花に癒やされ🤍 季節感じながら 登頂\(^-^)/からの 展望🤓見渡して、山☕️軽食が至福の時に (^o^)/県内外問わず、皆さんの投稿レポ📝見ながら 自分の知らない山々🏔️⛰️の春夏秋冬 風景に((o(^∇^)o))ワクワクさせて貰ってます。 旧街道廻りにも、その当時に 思い馳せ 地域の信仰心と、 戦国時代地形からの山城跡 壕と郭 土塁規模 当時の土木建築技術力に魅了されて 探検気分🎵 福井 滋賀県境に柴田勝家が羽柴秀吉との戦いに備えた、1583年玄蕃尾城(戦いに使われる事無く) 山城の形状良好に保たれてます(^^)b 都道府県の山城廻り してみたいp(^^)q
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山には神様仏様がいるから登る⛩️ 「氣」を感じパワーをいただくために登る💪 山には力がある😎自分には力がない😅 これからも頂上目指して修行修行🙏 この世に生まれてきた事に感謝し「ありがとう」の気持ちを忘れずに神様仏様、出会った仲間に「恩返し」🙏 だから登る🧗 わかる力はいつかな・・・・・・・❓ 🌊海を眺めながら登る山は特に好き‼️
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里山・アルプス・縦走・ロングトレイル⛺ 自然や景色を楽しみながら歩いてます☺️ 🌊みちのく潮風トレイル🌊 (6)釜石〜盛 2024/11/2-11/4 (5)鵜住居〜釜石 2024/7/13-7/15 (4)宮古〜鵜住居 2024/4/28-5/4 (3)岩泉小本~宮古 2023/11/3-11/5 (2)久慈~岩泉小本 2023/8/10-8/13 (1)八戸~久慈 2023/5/2-5/4
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健康の為に里山ハイキング始めました。🔰花が好きで茨城近隣で楽しんでいます。
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2024.5登山&YAMMAPデビュー🔰 山登って温泉で一泊、翌日も軽い山登りが基本スタイル 土日に甲信越・東北・関東の⛰️を攻略中、雪山登山開始 皆さんの活動を参考にさせて貰っています、フォロー歓迎
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2023年4月から始めた犬連れ登山初心者🔰 夫婦とたまに娘とゴールデンレトリバー9歳と3歳の2頭で活動中⛰️⛰️ 日本中の山を登ってみたいなーと好山病になってます⛰️
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山頂から観る素晴らしい景色に出会い登山が好きになりました😉まだまだ、山歴は浅いですが、皆様どうぞ宜しくお願いします🙏✨🍀
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山登り初心者🔰 2025.1.2〜 昔、山をなめて(クロックスで登るわ、午後から計画もなしに急に思い立って登り始めて、真っ暗な山道を携帯の灯りで下山💦)えらい目にあった人...😣 山の上で🍙🍱を食べたい❣️ ↑コレ理由に登山を始めることにしました🤭 自由人のため、約束苦手→基本ソロ⛰️🥾 いつかは登りたい最終目標の富士山🗻💪🏻 《⛰️山からの学び》 1日目...普通の軍手ではダメ、滑り止め🧤 2日目...夢中でお互い対人に気づかず...熊🔔必須! 3日目... 登山は早起き必須‼️ 🅿️満車😑 4日目...「すみません」より「ありがとう」のが👍🏻💕 5日目...天気予報は確認せよ☔️☀️😝 6日目...人混みの⛰️ペースに慣れよ💦 7日目...バーナー🔥の使い方 8日目...山によって土質が異なる😳 9日目...コース計画は無理しちゃダメ🙅♀️ 10日目..植物の期限は待ってない🌷🥀💦
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2023年5月突然の不整脈。 同年の活動は停止かと思いきや…。 同年10月から活動再開。 自称、道草大王。 道草食いすぎて、コースタイムを大幅オーバー。 山が好き、犬が好き、チョコレートが好き、酒はちょびっと。
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2020年4月からYAMAP始めました。毛皮の相棒あずき🐶ラブラドール♂6才と登山を楽しんでいます。 相棒🐶とテント泊が夢⛺️
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栃木県在住で登山歴3年(令和3.9.4〜)の 初心者です。安全に楽しくがモットーです。なので身の丈に合った登山を目指します。 沢山の方とYAMAPで交流してご教示頂きたいです。そして山友になって下さい🙇 みんなで繋ごう山友の和🙆 山友千人(仙人)になるぞ💪
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初心者です 登山に惹かれました。 楽しいです。
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活動休止のお知らせ このたび、足の負傷により、当分の間活動を休止させていただくこととなりました。 これまで数多くのご支援を賜り、大変お世話になりありがとうございました。 心より感謝申し上げます。 Gerbera 🌸 2025/3/14 ~<Profile>~ 2024年10月1日から登山を始めました⛰️ 登山初心者🔰ですが 楽しみながら少しずつ挑戦中です 大分県の くじゅう連山や低山を中心に ゆっくり景色を楽しむ登山をしています☝️ 現在 次の低山コースや山野草観察コースを検討中 おすすめがあれば教えてください🤗 お気軽にメッセージいただけると嬉しいです📨 Gerbera 🌸 ピンクのガーベラの花言葉には 主に「感謝」「崇高な愛」「思いやり」があります これらの花言葉は優しさや温かい気持ちを伝えるために使われ 感謝の気持ちや親愛の表現にぴったりです また ピンクは一般的に愛情や幸福を象徴する色でもあるため 贈り物としても人気です このため 特に感謝の気持ちを伝えたい相手や 大切な人への贈り物としてピンクのガーベラはよく使われます🌈
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「人生の扉」竹内まりやさんの詩が 心に響く歳になりました。 日本の美しい景色を楽しみながら ゆるりゆるりと 自分探しの旅へ
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YAMAP🔰2024.10月開始 ❄️🍁🌲🪻🏔️のんびり登山⛰️🪻🌲🍁❄️ 体力をつける為に山歩きを始めた所…体調に変化が♪ 日々、皆さんの活動日記、参考に📝楽しく拝見させて頂いてます🙏 時々、🐕🦺(トイプーブラウン♂9㌔)と山歩き♪ 出逢いに感謝🫶ありがとうございます🙏✨
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犬と登山始めます マナーを守って楽しく安全に登山 Instagram♡ ғᴏʟʟᴏᴡ ᴍᴇ https://www.instagram.com/bibiniya1/profilecard/?igsh=NXFuOHNqYXVmOG8x
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弥彦神社奥宮に参拝がてら行きます 新潟平野弥彦近辺の低山散歩を楽しみます 近隣で 挨拶交わす方々皆々様から energy(命)パワー戴いて居ます🙇♂️💐 ありがとうございます🙏❣️ 弥彦神社の伊夜比古さま とは? …で 調べてみました https://n-story.jp/topic/137/ https://n-story.jp/topic/137-2/ https://ryoukan.anjintei.jp/r-1534210-1011.html 弥彦神社 やひこじんじや [現]弥彦村弥彦 弥彦山の東麓に鎮座する越後一宮。正式には「いやひこ」とよばれ、伊弥彦・伊夜比古などとも記される。旧国幣中社。祭神は現在は天香語山命だが、「万葉集」巻一六の歌などから本来は弥彦山を神体とする伊夜比古神であろうか。明神・弥彦明神と記す例もある。 最も早くに成立したとされる弥彦神社縁起断簡(高橋文書)によれば、和銅二年(七〇九)八月上旬明神が降臨したとある。文明三年(一四七一)の弥彦神社古縁起写(同文書)では、和銅二年に明神が「米水ノ浦」に七日間浮んだのち「太子之浦」に上陸、霊地をたずねて鎮座したという。天平勝宝年中(七四九―七五七)金智大徳の時弥彦明神の本地阿弥陀如来が垂迹したと伝える。元禄元年(一六八八)橘三喜写の奥書のある伊夜比古神社記(弥彦神社叢書)以降の縁起類は、祭神を天香語山命、別名高倉下命とし、紀伊熊野から天鳥舟で米水よねみず浦(現寺泊町野積)に上陸、民に製塩と手繰網の漁法を教えたことから手繰彦命の名を受けたとする。 文献上の初見は「続日本後紀」天長一〇年(八三三)七月三日条で、前年来の疫病と干害による餓死から人々を救うため、神験のある「越後国蒲原郡伊夜比古神」を名神としたと記される。承和九年(八四二)一〇月二日には無位から従五位下に(同書)、貞観三年(八六一)八月三日には「弥彦神」が従五位上から従四位下に叙せられた(三代実録)。「延喜式」神名帳には名神社二八五座のうちに「伊夜比古神社一座越後国」とみえ、越後国五六座のうちに唯一の名神大社として「伊夜比古イヤヒコノ神社名神大」とある。平安期に居多こた神社(現上越市)とともに一宮になったと伝える。弥彦神社縁起断簡には天喜三年(一〇五五)の造営の頃、源義家が安倍貞任攻撃の戦勝祈願をしたと記され、いつの頃からか武神として崇敬されるようになったらしい。「義経記」巻七には大風で寺泊てらどまり(現三島郡寺泊町)に上陸した義経一行が国上くがみ(現分水町)を経て弥彦明神に参拝したとする。嘉暦元年(一三二六)九月五日には奥山おくやま庄中条なかじよう(現北蒲原郡中条町)の住人相次郎孝基が鉄仏餉鉢(国指定重要文化財)、応永二二年(一四一五)一二月には古志こし郡夏戸なつど城(現寺泊町)城主源(志駄)定重が大太刀付革鐔(国指定重要文化財)を奉納した。また当社蔵鏡鞍付壺鐙(県指定文化財)は八幡太郎義家奉納と伝えられている。宝徳三年(一四五一)守護上杉房定は三月一五日府中ふちゆう(現上越市)を出発し、一七日に当社に参拝する予定であった(同年三月一二日「平子政重書状」三浦和田黒川氏文書)。永禄七年(一五六四)六月二四日上杉輝虎は願文(弥彦神社文書、県指定文化財)を社前に捧げ、上杉憲政より関東管領職を譲り受けてさらに関東静謐に力を尽し北条氏康を討つこと、信州川中島以来の宿敵武田晴信を討つことなど祈り、さらに同時に晴信の悪行を訴えている(「上杉輝虎願文」堀田文書)。御館の乱の最中の上杉景勝も黒滝くろたき城の山岸秀能らの要望を入れて、国内平定ののち遷宮を挙行することを約束した(天正八年五月三日「上杉景勝安堵状写」安部氏所蔵文書)。 〔社領〕 縁起断簡によれば元明天皇の勅願で「東限信濃河、南限大河津・七石曾利榎渋田橋加津毛河、西限塩海、北限赤塚・角田・佐鴻尻」を神領として寄進された。そのほか「伊豆井村」「松森」の散在社領、寺泊津、「蒲原郡内湊」よりの上分料があった。造営の材木は佐渡で調達されたという。本地供養法田・心経会田など計一二三町三段小のほか神宮寺免田が記される。元暦元年(一一八四)一一月二三日の後白河院庁下文写(国上寺文書)には弥彦社と国上こくじよう寺(現分水町)の本領として「庄内七箇条」があげられ、うち中条半分、矢作やはぎ条、船越ふなこし条(現岩室村)、下条が大明神供領とされている。神領は現西蒲原郡域に広がっていた弥彦庄内に含まれていたらしい。文明三年(一四七一)二月二二日の日付をもつ伊弥彦神条式写(高橋文書)には庄内神田一九七町六段小・内神田六八町五段・庄内散在田五町八段・御神田一二三町三段小とあり、ほかに神宮司免田一八町五段、国中散在祈祷田が「曾智」「吉井保」「荒井保」「桑橋保」「粟生田」に計六〇町六〇歩、祈祷田が「金王丸」「庄社」「守清」「寺村」「太田上条」「長橋新保」などに九町七段があると記される。 明応五年(一四九六)四月一二日の越後守護代長尾能景遵行状写(高橋文書)によれば、守護上杉氏は社人の過失の連帯責任により差押えられたり勝手に売却した神領は返却することを決め、船宮ふなみや名(現岩室村)・平野ひらの名など一六ヵ所を返付したとある。永正一〇年(一五一三)二月二七日にも先の決定をうけ、永代・年季売を問わず一〇〇年前後知行していた所領の返還をも命じている(「上杉氏(定実)老臣連署奉書写」同文書)。そのほか元亨二年(一三二二)の惣神官知行名職帳写、正応三年(一二九〇)の社領并社人知行覚、永正一五年(一五一八)・天文三年(一五三四)・永禄八年(一五六五)の社領注文写および大永七年(一五二七)の検地日記(いずれも高橋文書)などが残るが、社領の全貌を記すものではない。天正九年(一五八一)五月二二日上杉景勝は神領と弥彦町に対して印判を所持しない者への伝馬・宿の提供を禁じ、さらに神領への郡司不入を認めている(「上杉景勝印判状」上杉家譜)。同二〇年とも推定される辰六月の弥彦神領注文(弥彦神社叢書)には弥彦村・矢作村・黒滝麓くろたきふもと村から三島さんとう郡・苅羽かりわ郡内に及ぶ一九村、計二千一九三石九斗余が記され、うち一千八九石三斗余は社人七五人の抱分とある。慶長二〇年(一六一五)松平忠輝より社領五〇〇石を寄進するという黒印状を受け、慶安元年(一六四八)には将軍徳川家光の朱印状を受けた。社領は弥彦村内にあり、幕末まで変化はない。 〔社殿の造営〕 縁起断簡によれば、元明天皇の勅願で社殿の造営は養老三年(七一九)から行われたのが始まりで、以後三一年に一度遷宮が行われたという。嘉元四年(一三〇六)・観応二年(一三五一)・明徳三年(一三九二)には火災にみまわれており、応永一四年(一四〇七)五月七日には正殿(不開宮)・中門・舞殿など造営費用などを書上げた造営并遷宮目録(高橋文書)が守護上杉氏に提出されたらしい。室町時代の作といわれる境内絵図(当社蔵)では、玉垣に囲まれた境内に北から南へと社殿が並ぶ様子が描かれている。造営について確実にわかるのは江戸中期からである。寛文八年(一六六八)以降神主左近光頼は造営願を何度も幕府あてに提出、元禄一三年に与板藩を通じて幕府検使派遣が伝えられ、同一五年には造営工事着手、翌一六年九月完成したという。しかし社殿のいたみが早く享保一七年(一七三二)にはすでに修復願(高橋文書)が出され、宝暦三年(一七五三)には拝殿のみ再建された。文政八年(一八二五)から天保二年(一八三一)には造営費用捻出のため信心講による富興行が開かれたという(文政七年「冨興行願書」同文書)。嘉永三年(一八五〇)に至りようやく本殿のみの造営が実現している。明治四五年(一九一二)三月一一日夜、約二町ほど離れた民家から出火し、北から南へ吹く強風にあおられて町並の南正面に位置する境内にも延焼し、本殿・拝殿・社務所などほとんどが焼失した。その後の再建では、本殿の位置を町並正面から西へずらし、弥彦山を背に東面させて建てることとして、境内を拡張、宝光ほうこう院や民家などを移転させた。また社殿の周囲に杉を植えた。現在の本殿は大正五年(一九一六)完成のものである。また同八年境内に弥彦陸上競技場(現弥彦競輪場)が建設された。 〔末社と神宮寺〕 境内の末社十柱じゆうはしら神社はかつては五所ごしよ宮とよばれた。初めは大己貴命を祀る小社であったが、元禄七年長岡藩主牧野忠辰の願により同氏に関係する四神を合祀、五所宮と改められたという。翌八年鴻巣こうのす村(現吉田町)内の開発地一〇石が寄進された(「牧野氏寄進状」高橋文書)。明治八年大河津おおこうづ分水工事が中止されたのち、渡部わたべ(現分水町)の十柱神社のうち九柱を合祀して牧野家四神を除き、十柱神社と改めたという。社殿は国指定重要文化財。そのほか弥彦明神六王子のうち船山ふなやま神社を除く五王子の摂社、二十二所にじゆうにしよ神社、八所はつしよ神社がある。また末社のうち火宮ひのみや神社・住吉神社・上・下諏訪神社・祓戸はらいど神社・湯くすり神社(石薬師大明神)が境外にある。 本地阿弥陀如来を本尊とする神宮寺は明治初年までは境内鹿苑北側にあった。創建年代は不明だが、弥彦神社縁起断簡に「神宮寺免田」の記載があることなどから、鎌倉期にはすでに存在していたらしい。神宮寺を弥彦神のお告げにより僧禅朝が建てたとされる龍池りゆうち寺に比定する説もあるが、同寺は多宝たほう山麓に寺跡が残る、別の寺である。末寺宝光院・真言しんごん院があった。延宝六年(一六七八)吉田神道の学者橘三喜が当社を訪れた。当社神主高橋光頼は三喜に傾倒して廃仏策をとり、縁起の改訂、神宮寺の廃止と霊璽殿奉祀、社家を旦那寺から絶縁させ神祇宗と改めること、真言院内の護摩堂撤去などを行った。また国上寺による勤行なども同九年には停止されたとされる。間瀬西蓮まぜさいれん寺(現岩室村)旧蔵の明応四年(一四九五)一〇月一五日銘梵鐘もこの時神宮寺から西蓮寺へ移されたものという。元禄九年宝光院住職快詠は幕府寺社奉行に光頼の不法を訴え出、光頼は縁起類の改訂、神葬式の採用、仏像仏具の売却などをとがめられ、翌一〇年越後・江戸追放に処せられた。光頼の後を継いだ神主光隆は神宮寺の復旧など仏教色の復活を誓う請書(弥彦神社叢書)を提出している。しかしその後弥彦神社と神宮寺のかかわりは希薄になったらしい。明治初年の神仏分離により神宮寺は取払われて吉田よしだ(現吉田町)観音堂へ移され、本尊の弥彦神の本地仏阿弥陀如来はのち国上寺、さらに石瀬いしぜ(現岩室村)青竜しようりゆう寺へ移されたのち、明治二九年宝光院脇に阿弥陀堂を新築し安置された。また真言院本尊大日如来は宝光院、護摩堂本尊は上和納かみわのう(現同上)楞厳りようごん寺に納められた。 〔社家〕 弥彦神社縁起断簡には大宮司について「昔大国ニノ大明神ノ御舅をや也、仍弥彦氏うちト申ス」と記す。古縁起写は明神の御供に三姓があったとする。元禄の神仏分離以降はこの三姓を尾張連を祖とする弥彦・新保・長橋の三氏とし、長橋氏はのち高橋氏と改めたと伝えるようになる(「尾張連家譜」高橋文書など)。元亨二年二月一一日付の伊夜彦惣神官知行名職帳写(同文書)では左座分として大宮司高橋膳正大夫以下、殿内司四名・神官一〇名・祠官九名と八乙二名・大工・宮仕が、右座分として妻戸司三郎左衛門以下、殿内司四名・神官一〇名・祠官七名と土師・宮仕・八乙四名・官使を列挙する。近世には神主・老官・祠官・中老官・下官・八乙の家格に分けられ、世襲制で、神勤席順も決められていた。社家の数は二四家で変動はなかった。神主を勤めた高橋家所蔵の中世から近世の弥彦神社関係を中心とする文書一千二〇〇点余は、弥彦神社文書として県文化財に指定されている。 〔祭礼・神事と周辺の旧跡〕 文明三年二月二二日の日付をもつ伊弥彦神条式写には正月三十ヶ日御供神事から春秋二季の御長祭、節分祭、一〇月の臨時祭、一二月晦日の御祭などが記され、五月五日の神事の役者は庄内七ヵ条地頭が勤めるとある。しかし祭礼・神事などについては近世に記録の改変などが行われたこともあり、はっきりしない。当社に伝わる特殊神事として一月一―三日の夜宴神事、一月七日の弓始神事、一月一一日・一〇月一一日の日神祭(御日待)、一月一一日の斧始式、一月一五―一六日の粥占炭置神事、二月一―四日の神幸神事、三月二七日―四月六日と一〇月二七日―一一月六日の鎮魂祭(御長祭)、四月一八日(旧三月一八日)の妃神妻戸大神例祭、七月二五日(旧六月一四―一五日)の灯籠神事・神輿渡御祭がある。鎮魂祭は前月二七日に神職が野積のづみ浜(現寺泊町)で海水で禊を行って海藻をとり、麓の桜井ふもとのさくらい神社に参拝したのち本社へ戻るもので「浜出」「御玉祭」ともよばれた。灯籠神事は七月一八日に神輿が社殿内に移され、二五日夜に灯籠多数を持つ行列を従えた神輿が町内の末社などを巡るもので、国指定無形民俗文化財となっている(弥彦神社特殊神事)。また神幸神事には小神楽、妃神妻戸大神例祭には大々神楽、灯籠神事には神楽歌・天犬舞が奉納される。この四種は弥彦神社舞楽と総称され、国指定無形民俗文化財。小神楽は「おかぐら」ともよばれる巫女舞で六―一〇歳の幼女により奉納される。神楽歌は旧社家の、天犬舞はかつては旧神領農家から、現在は氏子中からの九歳前後の男児により奉納される。大々神楽は延宝八年まで国上寺の稚児が奏していたと伝え、現在は神職・旧社家・地元氏子の子弟の小学生男子により奉納される。当社蔵の文化財はすでに挙げたもののほか、県指定文化財の砧青磁袴腰大香炉一口・天保一四年作大太刀(拵とも)一振がある。 周辺には弥彦神社にかかわる旧跡が多い。弥彦明神六王子のうち、第一王子の武呉たけくれの神廟が境内の三笠みかさ山とよばれる丘の頂、第二王子船山の神廟と船山神社が現巻まき町福井ふくい、第三王子草薙くさなぎ・第五王子勝すぐるの神廟が外苑弥彦公園内の御殿ごてん山、第四王子今山いまやまの神廟が現岩室村樋曾ひそ、第六王子乙子おとごの神廟が旧社殿地の神木椎の大樹脇にある。弥彦明神の神廟は弥彦山頂にある。矢作の赤崎あかさき神社は当社の灯籠神事とかかわりがあり、麓の桜井神社は弥彦神の旧跡と伝える。国上寺は当社の別当寺で、当社までは通称稚児ちご道で結ばれる。弥彦・角田かくだ山塊の西側には弥彦神の上陸地野積、弥彦神の旧地を称する大宮おおみや神社、弥彦神の妃を祀る妻戸つまど神社、女釜めがま・男釜おがまの洞窟などが点在する。また石瀬には、弥彦神がウドで片目を刺したので以後弥彦山にはウドが生えないという片目神の伝承があり、弥彦神と鍛冶集団とのかかわりをうかがわせる。 以上(引用 長っ!💦🙏💐) 中学生の頃には苗場山も登った事がありました 毎年今年こそ!と再登山願っています。 頂上がなだらかで 超古代には飛行場だった話も…😍 皆神山は車で参拝に行った事があります あちこち登りたいですね💕 全然関係無いですが 田中英道さんの講演会の内容です 群馬県伊勢崎市にて↓(日本の古代史) https://youtu.be/DS63t4muMHY?feature=shared
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- ID: 1725791
見にきてくださってありがとうございます😊 ゆみっちと申します。 2025年1月にプロフィールの名前を【山と太鼓時々猫】から【ゆみっち】に変更しました。 何卒よろしくお願い致します。 月に2回ぐらいのペースで山歩きを楽しんでいます⛰️ 2024年5月、腰椎すべり症と椎間板ヘルニアを併発してしまい、普通に歩くこともままならない状態からは復活したものの、今までのような山行はなかなか難しい現状😣 ですが、大好きな山を諦めることは出来ないので、無理なく自分のペースで、行ける時に行ける山に、ゆっくりのんびり山を楽しむことにしました☺️ いつもみなさんの活動日記を参考にさせていただいています🙇♀️ありがとうございます😊 お気軽にフォロー、コメントしていただいて大丈夫です🙆♀️ 無言DOMO無言フォローすみません🙇♀️ DOMOくださった方はフォローさせていただいております。 YouTubeもやってます❗️ https://www.youtube.com/@yumicchi-yurusanpo チャンネル登録、高評価、コメント、していただけたら嬉しいです🙇♀️ 山で見かけたらお声掛けくださいね😊
- ID: 3517107
登山初心者です。 毎日ダイエットしてます!
- ID: 2669205
- ID: 2641457
親しい友人が日本百名山達成者ですが、今から20年以上前、高尾から藤野へのロングトレイルに連れていってくれました。その時は日常生活に追われていたせいか登山の良さには気付きませんでした。3年前位から、古墳、社寺仏閣回りをはじめましたが、山深い山寺などをたびたび訪問する度に、山にも興味を持ち散策がてら山に入るようになって、山登りに興味を持ちました。 最近は多少スリリングな岩場登山が増えてきました。
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