ろん
ユーザーID: 2598862
- 1969年生まれ
- 東京にお住い
- 女性
- 322
注)相当な長文、備忘録レベルの文章です🙇♀️ 1月2日に被災地を離れ帰京しましたが、心を被災地に置いたまま喪に服しているような日々。被災地の情報をニュースで確認する毎に無力感に悶々とする中、経験したことを記録に残しておきたいという気持ちに駆られました。正直一個人の旅行者の体験を発信することに意味があるのか分かりませんが、まずはここに綴らせていただきたいと思います。 *************** 令和6年1月1日。15時過ぎに宿にチェックインし、16時30分頃の日の入りを観に16時頃に海岸へ向かった。いつもならチェックイン後は温泉に浸かるのがパターンだが、夕食を17時半に設定したため、温泉は夕食後ゆっくり入ることにして、海岸へ向かった。 夕食を楽しみにしていたので新幹線内で朝昼兼用の駅弁を食べたのが最後の食事だった。 宿のスタッフからは、海岸には漂流物がかなり流れ着いていることと、通常は周回できる海岸の散策コースがあるのだが、工事個所があるため来た道を戻るよう案内があった。宿を出て、海岸への林道に入るとごみ集積所かと思うくらい漂流物が道の両脇に現れた。海岸は長く広がり見通しは良いのだが波打ち際一面がゴミ(漂流物)で敷き詰められ、ハングルが書かれている漂流物も多く、異様な光景に感じた。 雄大に広がる海なのに波が短い等間隔で横列を作り、低くうねうね波打っていた。夕日は出ているのに空下半分にはグレーがかった雲が張り付いていた。海岸を歩きたい気分には到底なれず、満足し海岸を後にして宿に戻ることにした。 砂浜から林道に入ろうとしたとき、緊急地震速報が鳴った。ふと旅行前のリサーチで能登は地震が多いという情報を目にしていたことを思い出し、一瞬不安が過った。今いる場所は海…。 緊急地震速報はあちらこちらで鳴り響き始めた。 とにかく急いで海から離れなければと思い、来た道を引き返した。宿の駐車場まで辿り着いた時に、想像できないような大きな揺れがきた。地震速報は何度か鳴り響いていたので、その間にも揺れが発生していたかもしれないが、歩いていたため感じなかったのかもしれない。 最初に感じた揺れは大きかったが、東日本大震災で経験していたレベルの揺れだったので震度5くらいの気がした。その揺れでも怖かったのに、続けて極めつけの大揺れ(その時は震度7と言われていたが、後から発表された地域ごとの表示は7とされていなかった)がきた。 宿の前の駐車場は広く、私たちは宿を目前にして佇んだ。駐車場の車が右へ左へと今にも転がる勢いで跳ね上がり、宿の大きな窓はミシミシと音を立て粉塵が落ち始めた。あと数秒続いたら崩壊の危険を感じたが、揺れは一度止まった。立っていられなかったがいつ地割れしても不思議ではない揺れに怖くてしゃがめなかった。 地震速報は数分毎に鳴り続け、その都度大きな揺れ(震度5くらいの感覚)に襲われた。想像を超える状況に、これが私の人生最後のストーリーだったのかと、運命すら感じた。 生還してもしなくても記録に残さなければと思い、スマホを出したが、自分のバランスを取るのが精いっぱいで、スマホなんて構えられなかったし、落としたりして使用できなくなることのほうが心配になり、バッグにしまった。スマホはこの後の命を左右する命綱だと思った。揺れは収まらず、だんだん「帰りたい、帰りたい」と呟いていた。「帰りたい」は「生還したい」という思いの言葉だったのだと思う。 同時に極度の恐怖感からか、繰り返しえずきが出た。最初は私たちだけだった駐車場に、宿から宿泊客がパラパラ外に出てきた。館内放送でも建物を出て外へ避難するよう伝えられた。入浴中のお客さんもいて、浴衣一枚にバスタオルをかけて出てくる人もかなりいた。 集合し点呼を取った後、津波の危険があるため避難所へ移動することになった。宿からは、夕食の準備時間帯だったこともあり調理関係の道具やら一部壁の破損等が確認されたたため、この後の営業は休止し宿泊料は取らないと告げられた。また、揺れの危険はあるが荷物を取りに行きたい人は短時間で入室するようにと補足があった。 外から宿の揺れを目の当たりにし、倒壊の恐怖を感じていた私たちは建物内に入ることが出来ず、そのまま避難所へ移動することにした。 宿から車移動した人もいたようだが、避難所周辺は車で集まってきた人たちの渋滞で動けなくなってしまったと聞いた。 避難所の高校は元旦ということもあり、誰もおらず、開錠されるまで校庭と校舎の境で留まった。 日没間近で日が沈みかけていた。空には海から鳥が隊を作って何羽も飛び去って行った。同時に空から3つの閃光が均等間隔に縦に並んでゆっくり落ちていくのを目撃した。夕日に照らされてオレンジ色に輝いていた。一瞬飛行機雲にも見えるが、上から斜め下へ落下していた。実は地震の前にも目撃していた。その時の閃光は白く一つだけだった。 そうしているうちに学校が開錠され、体育館への入室を案内されたが、余震は絶え間なく続いており、設立60年代の校舎に再度震度7クラスの地震が発生した際の耐震が信用できず躊躇していた。 住民も次々に避難場所に集まり始めた。車椅子を往復させ、地域の高齢者を順番に避難所へ避難させていたので車椅子を降りてから体育館までのサポートを手伝っていると、宿の宿泊客は体育館へ集まるようアナウンスが入った。体育館では前方へ集まるよう指示されたため出入り口から遠くなることに不安感を覚えた。 既に体育館には災害用毛布やお茶、水が運び込まれていた。前方の長テーブルに指揮を執っている男性2名が座っており、災害用ラジオで情報を流していた。 この時には大津波警報の第一波は到着済みであったが、身内からは満潮を迎える19時以降に津波が発生した場合、かなりの高さになるとの情報が入っていた。また防災放送でも大津波警報発令により国道より海側にいないようにと繰り返し注意が流れていたが、避難所は国道より海側だった。 指揮者に確認すると、学校は避難所に指定されており、標高が18メートルだから絶対大丈夫だと繰り返した。満潮の心配を伝えると、その時は最上階に上がればいいと言った。少々お酒の臭いをさせながら立ち回っている姿に、改めて今日は元旦であり、ほとんどの家庭が朝からお正月料理で新年のお祝いをしている最中の被災であったことに思いを馳せ、やりきれない気持ちになった。 体育館の中でも何度も地震速報が鳴り響き繰り返し揺れがきた。そのたびに天井に格納されているバスケット吊り下げゴールが落下してこないか恐怖で天井を見上げていた。 暫くすると宿のスタッフが点呼を取り、宿泊客を校舎2階へ誘導した。そのうちの一教室には唯一テレビが設置されNHKが放送されていたので状況を見守った。 停電は発生しておらず、エアコンを30度にまで上げて部屋を暖めていたが、換気や避難経路確保のため教室の引き戸と外へ繋がる廊下のドアが開放されており、足元がとても寒かった。 避難者は高齢の方が多く、寒いという声が上がっていたが、災害用毛布は行き届いていなかった。宿のスタッフに何度か高齢の方へ毛布の提供ができないか提案したが「公平性が保たれないから」という理由で現時点では見送っているという回答だった。いろいろ事情があるということは察知したが、理解は難しかった。 そうしていると今度は宿のスタッフがルームキーの回収に来た。部屋は開錠すること、荷物を取りに来たい人は入室可能であること、車で来ている人は自己判断で帰宅の選択があることを伝えられ、それ以降、宿のスタッフの姿は避難所で見られなくなった。 その後、非常用クラッカー缶→マスク→紙コップ→非常用の水が配られた。 断水は早くから始まり、トイレが流せなく、一時は便器から溢れるほどになった。職員室へ使用済みトイレットペーパーはゴミ袋を別に設置しそちらへ入れてもらうようにしたらどうかと提案。それがあったかないかは分からないけど、暫くするとトイレの個室に黒いごみ袋が設置され、使用済みトイレットペーパーが捨てられるようになっていた。 加えて学校敷地内の池からバケツで水を汲んでトイレを流すようにもなった。各教室にはウエットティッシュが配布され、手指等の衛生管理はそれで対応した。私の教室には3つ用意されていた。 物資の配布や水汲み等、生徒や卒業生がボランティアで集まり対応してくれていた。また貯水槽の水が無くなる前に容器がある人は浄水器から飲料水を確保できるとアナウンスもあった。 暫くすると体育館の灯油が切れてしまい、暖房が機能しなくなったため、高齢者が2階へ、それ以外の人は3階に移動するようアナウンスが入った。 移動した3階は住民の避難者が多く、津波警報に下がった頃から、自宅からタッパーに詰めた料理や、近くのコンビニから買い出してきた袋いっぱいの食料を持ち込んで食べ始める光景が各所で見られた。 宿の宿泊客は車の人が多く、帰宅に向かったのか、大半の人がいなくなった気がした。宿の管理もなくなり宿泊客は住民の中に埋もれてしまい誰が宿泊客かもわからなくなり同じ立場同士、情報交換することもできなかった。 私たちはチェックインして間もなく震災に遭い、土地勘もなく住民の方から営業しているコンビニ情報をもらっても、余震が続く中、真っ暗な夜道を徒歩20分以上の場所まで歩く決断ができず、身動きの取れない不安感も積もった。 長い夜が始まった。時折ひそひそ声が聞こえる以外は、誰もが黙って過ごしていた。情報はテレビのNHKとスマホのみ。数分毎の揺れは収まることは無く、揺れがくる度に皆机の下に入ったりして警戒した。収まらない余震の恐怖で気持ちが張り詰めていた。 幾度が校内放送でエコノミー症候群について校長先生からの注意喚起が流れた。その後職員(先生?)が朝まで待機しているから何かあれば職員室に来るようにと声をかけて各教室を周られていた。 帰宅した人もいるせいか各教室空間が見られるようになったので、継続的にテレビの情報が得られる2階へ移動した。教室には4.5人単位の住民の方が4組ほどいた。体育館の畳が各教室2~4枚ほど持ち込まれ、高齢者や子供が横になって休めるようになるとすぐに消灯したが、他の教室は一晩中照明がついたままだった。 高齢者が集められた視聴覚室はテレビの情報を見に来る人の出入りもあり密度が高かった。大半の高齢者は椅子に座ったまま長机に伏して朝まで過ごされており、冷える入り口付近の方には声をかけたが、ここで大丈夫と仰っていた。 夜も更け、揺れの頻度や大きさはだんだん落ち着いてきたものの、消防車のサイレンの音が繰り返し聞こえていた。古い校舎のため、教室の扉の開閉はガラガラ大きい音が鳴り、廊下側の窓は木枠で鍵もねじ式のため開閉の度に振動しその都度びくっとした。 飲食料は非常用クラッカー1缶と最終的には水とお茶、計3本のペットボトルが確保できていたが、先が見えない中、長期戦の想定とトイレの不安でクラッカー缶は1/5ほど、ペットボトルは一口ずつちびちび飲んで1/2くらいしか口を付けられなかった。 充電器がある人たちはスマホの充電をしていた。私は常時、持ち歩き用ミニポーチにポータブル充電器を一つ入れていたため明日まではもつだろうと思ったが、こちらも長期戦に備え、充電器の持ち主を見つけ、使用していない時だけ貸してもらえないかとお願いした。持ち主は10代後半くらいの女の子で快く承諾してくれた。 スマホの電池が少し安心できたこともあり、端的に情報をくれそうな友人を選んで連絡した。被災地外で得ている情報は意外と役に立ったし、冷静さを取り戻させてくれた。ある友人は必ず発生している性被害について注意喚起してくれた。それにより自分だけではなく特に周りの若い女性にも気を配ることができた。 午前3時ごろ、津波が注意報になり、住民の方々は徐々に帰宅されていき、朝日も昇った。 視聴覚室には最初、宿泊客が集められた時に情報交換をした埼玉から来た年配の女性と息子さんも残っており、金沢からレンタカーでここまで来たと話していた。 在来線の見通しは皆無。北陸新幹線も見通しは立っていないが復旧に向けて進めている情報が入っていた。震度7(?)を体験し、余震の度にまたあの揺れが来るかもしれない恐怖から、とにかく少しでも内陸に入りたい気持ちが強く精神的にも辛さが増していた。 金沢までは徒歩10時間程。徒歩で金沢駅まで行くことも視野に入れたが事態が解明されていない状況で歩くのは無謀だと思った。そこで駄目もとで埼玉の方に金沢駅まで便乗させてもらえないかお願いしてみた。埼玉の方は快く受け入れてくれ、そこから埼玉の方と行動を共にすることになった、 時間は6時台であったため、まず宿が開いているか連絡をしたが留守録状態。緊急夜間連絡先がアナウンスされていたので、そちらへもかけるが話中。確認できないまま避難所を出て宿に向った。 同じように考えていた宿泊客が疎らに宿へ向かい、既に荷物を引き取り出てきた宿泊客ともすれ違った。正面の自動ドアは開閉しないが横の扉から入れるようになっていると教えてくれた。 宿のフロントにはスタッフがおり、部屋番号を伝えて入室するようになっていた。私たちの部屋は一番奥だったので辿り着く間、余震が来たらと思うと怖かったが、部屋の荷物は荷ほどきすらしていない状態だったため、荷物を持ち出して直ぐに部屋を出た。 館内の照明はほぼ点灯されておらずよく見えなかったが、ところどころ崩れた壁の破片が床に落ちていた。宿のトイレは貯水が残っているのか使用できた。 待ち合わせのロビーで待機している時にスタッフに声を掛けられ「安全が確認出来たら希望する宿泊客を金沢駅まで送るバスを出そうかと考えている。何時になるかわからないし、状況によっては出さないかもしれない」と説明され希望を聞かれた。私たちは内陸方面に進むこともあり、行かれるところまで進み、最悪歩くことも考えるとして申し出を断った。 宿を出るときにスタッフが小さなおにぎりを二個ずつ持たせてくれた。車の中で温かいうちにと皆でおにぎりを頂いた。とりあえず退避に向けて一歩進んだ安堵と、地元のお米で握られたであろうおにぎりの美味しさに、生きている実感が湧き上がってきたが、同時に私たちはここから逃れたらまた日常が待っているけど、この後ここで復旧していかなければならない住民の方々を思うと心から全く喜べなかった。 金沢への道は早朝ということもあり、ほぼ車はなく道路の不具合も感じず、スムーズに進んだ。 車窓からは倒れたブロック塀等を確認し、すれ違った被災地を目指す何台も連なる大阪市消防局の消防車を、祈るような気持ちで見送った。 ほどなくして金沢駅に到着し、埼玉の方に丁重にお礼を伝え別れた。 駅構内は大勢の人でごった返していた。北陸新幹線の運行情報も午後に予定しているのみで具体的な再開は決まっていなかった。長蛇の不明な列が、駅構内を埋め尽くしていたので、駅員に尋ねると外国人が集まっていたのがだんだん列になってしまって、何の列でもないと言っていた。 慌てても仕方のない状況に、まずまともなものを口に入れようと思い、落ち着いて食事をしながらこの後の計画を練ることができる場所を探し始めたが、金沢駅周辺も建物や道の亀裂で破片が散らばり、建物点検のためどこも「臨時休業」の張り紙がされ、マックさえ開いていなかった。とりあえず開店していないがカフェが併設されていたホテルのロビーに一旦座るも、ここでも余震が続いておりまだ被災地内であることを実感させられた。 新幹線に乗れなかった時のために、金沢泊も押さえておこうとネットで探し始めたが、同じ考えの人が多かったのか、検索している間に空室が無くなっていった。路線、高速バスも共に本日は運行休止を確認し、気力が失われた。 不安な気持ちからあれもこれもと手を出そうとして、より一層不安になっていることに気付いた。一旦シンプルな考えに戻し、金沢駅を拠点として、少しでも危険を回避できる選択をしながら、安全だと思う方向に進もうと決めた。最悪駅で寝泊まりし、再開した新幹線に乗ればいいと腹をくくった。駅の構内は広々しているし、雨風はしのげる。情報も早い。同じ立場の人もたくさんいることがポイントだった。 再度駅へ向かうと、15時ごろ新幹線の再開のめどが立ったことを知った。指定席が全て解除されたため、自由席のチケットを購入する人の長蛇の列が始まっていた。私もその列に並んだ。並ぶこと3時間。列の前の女性とおしゃべりに花が咲き3時間の列は苦にならなかった。不安を抱えている同士、多くの人はフレンドリーだった。女性は翌日のチケットを購入しに来ており、諦めていた指定席が取れたと喜んで別れた。 並んでいる最中に14時48分に始発が出ることが確定したので立ち席の覚悟を決めて乗り込んだ。駅員に乗車率とホームの混雑を確認すると「今は入場規制をしていないが、お客様の安全第一を考え、今後制限する場合はある」と言った。次の列車は未定。駅員の見解を聞いて乗車することを決めホームへ上がった。 ホームでは出発1時間前にもかかわらず既に乗車が始まっていた。スーツケースを荷物棚に乗せ時間があったので全車両状況を確認しに行ったが、満席は勿論のことどの号車にも余裕はなく、急いで荷物を置いた号車へ戻った。途中、自由席の切符やら、帽子、手袋等、混乱の中落し物が見られた。定刻通り列車は発車。一度地震が来て停止したのみ、その後は大きなトラブルはなかったが、ほぼ各停状態のため停車するたびに乗客が増えていき、通路も隙間なく埋め尽くされて東京への到着となった。 帰宅後、荷物の中からチェックイン時に誕生月のプレゼントとして宿から頂いた輪島塗のお箸が出てきた。 おめでたいはずの一年の始まりの日に被災地が大震災に見舞われたことを思うと、胸が締め付けられ、やりきれない気持ちでいっぱいになった。 *************** 最後までお読みいただき、ありがとうございました。 今後の支援や防災対策について考える際に、何か少しでも参考になることがあったならば幸いです。 #能登半島地震
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