メルトダウン フォローする メッセージを送る このユーザーをブロック 不適切なユーザーとして報告 プレミアムユーザー ユーザーID: 1293993 大分, 熊本, 宮崎で活動 男性 大分在住。ソロで大分県、近隣県の山に登ってます。 くじゅう大好き、阿蘇大好き。でも低山も嫌いじゃないです。 山頂からの眺めが良ければどの山も好きです。 山頂でカップラーメンは基本であり、権利であり、義務です。 山行日記がやたら長いですが、駐車場、登山道、山頂からの展望などをなるべく書き残すようにしています。 日記を読んだ人の役に立ちますように。 活動日記 242 モーメント 1 フィールドメモ 0 道具リスト 0 登頂した山 352 フォロー 53 フォロワー 120 バッジ 17 メルトダウン 2023.02.17(金) 山城歩きの際に必要な大分の歴史の覚え書き。 200年頃 卑弥呼、宇佐の地で邪馬台国の女王となる。死後、宇佐神宮の比売大神として祀られる。(俗説です) 571年 大神(おおが)氏の始祖、大神比義(おおがのひぎ)宇佐八幡を開く ~1200年 大神氏、豊後に勢力を広げる 1150年頃 源為朝、九州に追放され豊後に来たる。大いに暴れて鎮西八郎と称される。別府に多くの為朝伝説を残す。別府市内の地名、伽藍岳、由布岳周辺に伝承多数あり。ちなみに13歳で別府でハーレム作ってました。 1196年 源頼朝の寵愛を受けた相模国大友荘の大友氏、守護大名として豊後に下向。大神氏系の地元の豪族は抵抗するが、大友氏はこれらを討伐、または養子を送り込み、自分の分家にしてしまう。大友氏の支配の確立。 1358~1371年 南北朝時代、大友氏は北朝に組みし、南朝軍を高崎山城で迎え撃つ。数度の大包囲、100度を超す合戦にも落城しなかった。 1400年頃 豊後の大友氏は周防の大内氏、筑前の少弐氏と北九州の覇権を賭け争う。 1534年 大内軍、豊後に侵入する。勢場ヶ原の戦い、大友軍勝利する。 戦国時代 大友宗麟は立花道雪、高橋紹運といった名将にも支えられ大いに勢力を広げ、九州の北半分を領有する。 1578年 宗麟、耳川の戦いで島津に大敗する。宗麟と次代の当主、大友義統との関係も悪化し、大友氏内紛する。以後、家臣の反乱も相次ぎ、大友氏急激に勢力を失う。 1586年 島津による本格的な侵攻、豊薩合戦始まる。大友宗麟、豊臣秀吉傘下に入り、援軍を請う。宗麟は丹生島城(臼杵城)に立て籠もる。 島津軍、各地の城を落とし進軍する。栂牟礼城の佐伯惟定、岡城の志賀親次、立花山城の立花宗茂など幾つかの城は奮戦し持ちこたえる。 仙石秀久、長宗我部元親などの四国勢が秀吉からの援軍としてくるが、戸次川の合戦で大敗。 大友義統は府内を捨て高崎山城に逃げ込んだあと宇佐の龍王城に逃げ込む。島津、豊後を席巻し大友氏滅亡間近となる。 1587年 秀吉の本隊来る。島津軍、豊後から引き上げる。根白坂の戦いに破れ、圧倒的な戦力差に島津降伏する。宗麟病死。大友義統には豊後一国と宇佐半郡が安堵される。 1593年 大友義統、秀吉の朝鮮出兵に従うが、味方を見捨てて勝手に退却したため、改易されてしまう。豊後は小藩が乱立する。 1600年 秀吉の死後、豊臣家と徳川家康の確執。7月に石田三成挙兵。大友義統、豊後に戻りお家再興のため西軍として挙兵。大友氏の旧臣はせ参じる。中津に隠居していた黒田官兵衛、東軍として豊後に侵攻。 10月、関ヶ原の戦いの二日前、別府石垣原において、大友軍と黒田軍の戦い。大友義統敗北。大友氏再興は失敗する。 戦国時代も終わり山城は放棄され、平城も一国一城令も出たことでほとんどの城が棄却された。 大友氏の支配確立後は南北朝時代以外にあまり戦乱がなかったので、山城の歴史は豊薩合戦に関するものが多いですね。 宗麟、義統は結構非道なことをやっており、総じて大友氏はダメだが家臣は有能、という感じです。 38 総計 1 件1 報告フォーム