第22回孫市まつりと、雑賀衆 VS. 信長・秀吉との戦跡を訪ねる
和歌山市
(和歌山, 兵庫)
2026年03月29日(日)
日帰り
平成17(2005)年に始まった「孫市まつり」も、もう22回目。まつりは、戦国時代に活躍した鉄砲大将「雑賀孫市」と戦国時代最強と伝わる鉄砲集団「雑賀衆」の活躍を今に伝えるイベント
雑賀孫市は、戦国時代から江戸時代にかけて紀伊国で活躍した鉄砲の達人で、鉄砲隊である「雑賀衆」を率いた武将と云わる
雑賀孫市の本名は「平井孫一」とも、「鈴木孫一」とも、「鈴木重秀」とも云われる。紀伊国を本拠とした戦国時代末期最強の鉄砲集団・雑賀衆の棟梁で、5,000~10,000人近くの戦闘員を動員出来た
一方、雑賀孫市という人物は、一人の人物を指すのではなく同時期に存在した複数人であるという説もある。雑賀孫市に関する正確な情報は焼失などにより記録が少ないため、正体は謎に包まれたままである。「本願寺文書」などの記録には、石山合戦で鉄砲隊を率いたのは「鈴木孫一重秀」と記載される
この中で司馬遼太郎の作品として有名な「尻啖え孫市」のモデルは、戦国時代に鉄砲技能集団を率いたとして名高かい鈴木孫一である
他方面からの援助要請により、近畿地方と四国などを転戦したこともあったと言われている。鉄砲が伝わる前から傭兵的な役割も担っていた雑賀衆は、鉄砲を大量に生産することでさらに戦力を増し、各地の大名などから援助要請を受けて「雑賀を制す者は全国を制す」と言われるほどであった
元亀元(1570)年に始まった石山合戦において、雑賀孫一が率いる雑賀衆は織田信長をおおいに苦しめた。当時、織田信長から迫害を受けていた石山本願寺から援助を要請され、雑賀孫市は織田信長を討ち取るべく、石山本願寺の主戦力として石山合戦に参戦。戦いは10年以上に及び、雑賀孫市に長年苦しめられた織田信長は、天正5(1577)年に雑賀衆を攻撃するため紀州遠征
しかし、最後は織田信長側から和睦を取り付け、雑賀衆は実質的に勝利をおさめたのである。石山合戦の後、石山本願寺と織田信長の間で和議が成立したが、雑賀衆の内部で分裂が起こり、雑賀孫市は雑賀の地から追われる
その後は「豊臣秀吉」に仕えて「鉄砲頭」となり、朝鮮出兵では九州を防衛しました。「関ヶ原の戦い」では「石田三成」率いる西軍として「徳川家康」の重臣「鳥居元忠」を討ち取るも、西軍が敗戦
その後、東北の大名「伊達政宗」に取り立てられ、得意な騎馬鉄砲術を伝授した。伊達政宗の働きかけにより、晩年は水戸藩の旗本として余生を過ごしたと云われる