雑賀衆VS織田信長
以前司馬遼太郎の『尻啖え孫市』と言う小説を読んだ事がありました。その話は、岐阜の織田信長の元に紀州から『清水寺で会った織田家の姫を是非とも自分の嫁に貰い受けたい』と言って奇妙な漢がやって来たことから始まりました。供の者を二~三人連れて来ていて一人に八咫烏の旗を持たせそれなりの身分がある人物と思われ暗にお市の方をさしているようでした。ところがお市の方は、既に浅井長政に嫁いでいて信長は、ちょうど越前朝倉氏を攻めようとあわただしく準備をしている最中でその者達を従軍させる事にしたのでした。漢は、雑賀孫市(鈴木孫市)と名乗り故郷の雑賀庄から50人の仲間を呼び寄せ織田軍と共に越前に向かったのでした。 敦賀の金ケ崎城に織田軍と共に押し寄せた孫市は、50人の雑賀衆と300人の織田軍の鉄砲隊を連れて城の堀際にたつと鉄砲隊に向かって雑賀衆に鉄砲を渡すように命じました。鉄砲を渡された雑賀衆は、金ケ崎城の城壁の狭間に正確に銃弾を撃ち込んで次々と敵の火点を沈黙させていき僅か50人の雑賀衆によって金ケ崎城は、完全に制圧されてしまったのでした。城の飛び道具が潰れた事を目撃した織田軍は、一斉に総攻撃に移り城は、呆気なく落城しました。 信長は、雑賀衆の実力を目の当たりにして驚き👀‼️ました。そして木下藤吉郎(秀吉)に『雑賀衆を帰してはならぬ!』と厳命を下したのでした。 その後木下藤吉郎がお市の方とは似ても似つかないとんでもない女を連れて来たため孫市は、騙された事を覚り頭に来て信長の元を退去したのでした。 信長の元を去った孫市は、石山本願寺の顕如上人の要請で今度は、織田信長と戦う事になりました。 何故本願寺と信長が戦う事になったのかと言うと原因は、本願寺が建っている場所にありました。石山本願寺は、現在の大阪城の場所にあり大阪湾に面する上町台地に立地していて水陸の要衝でした。この土地に目を着けた織田信長は、自分の居城を築くために石山本願寺に退去を要求した事から戦争が始まりました。本願寺の門徒からすると『仏敵!信長』でした。 その石山本願寺に雑賀孫市は、雑賀三千丁(鉄砲軍団)と言われた仲間達と立て籠り信長と戦う事になったのでした。 信長にとって実に厄介な戦いが始まりました。大河ドラマの豊臣兄弟でさらっと終わってしまいましたが播磨国の別所氏が毛利氏に寝返ったのも播州門徒と言われる一向宗の門徒達を無視できなかった一面がありました。更に信長のお膝元といっても良い伊勢長島でも一向宗の門徒達が反乱を起こし信長は、軍勢を割かなければなりませんでした。 石山本願寺の攻撃を始めた織田軍は、苦戦しました。門徒達の決死の戦いもさることながら雑賀衆の鉄砲隊の前に撃退され督戦にやって来た信長も負傷する有り様でした。 信長は、どうしたら石山本願寺を攻め落とす事が出来るか考えました。導き出された答えは、本願寺を支援している雑賀衆を潰せば良いと考え雑賀衆の本国紀伊国の攻撃を決意したのでした。 1577年(天正5年)3月2日織田信長は、配下の諸将に紀州征伐を命じ凡そ10万の大軍が紀伊国目指して進軍を始めました。先鋒が堺に到着したにもかかわらず最後尾の部隊は、まだ京を出発していない程の大軍でした。 対する雑賀衆は、現在の打越山から愛宕山・弥勒寺山・妙見山に砦や柵を築き防衛線を構築して和歌川の川底に大量の桶を埋めるなど迎撃の準備を整え4~5千の兵力で雑賀孫市を大将にして迎え撃とうとしていました。(諸説あり。小説では1万人) この状況に孫市は、『面白や』と言って全く動ぜず仲間達が戦々恐々としているなか鼻毛ばかり抜いていました。 織田信長は、河内若江城に止まり嫡男の織田信忠が全軍の指揮をとり海沿いを進んで防衛線の正面に向かう部隊と山地に迂回して背後に周り込む部隊と織田軍は、二方面に別れて押し寄せました。 海沿いを進んだ部隊3万が和歌川岸に布陣し山の手の部隊3万が紀ノ川を渡り布陣して堀秀政を先鋒に騎馬隊が和歌川を渡り始めた時でした。馬が川底に埋めた桶に足を獲られ身動きが取れなくなり立ち往生しました。すると雑賀衆の鉄砲隊が一斉射撃を始め堀秀政の兵は、次々と討ち倒されて大損害を出して退却しました。 雑賀衆は、地の利を活かして鉄砲隊を効果的に駆使して戦いは膠着状態になり一ヶ月に及びました。 大軍を動員したにも関わらず雑賀衆に一ヶ月に渡って粘られるとは流石の信長も想定外でした。紀伊国で織田軍の主力部隊が釘付けになっている事を聞いて毛利氏や本願寺が動き出し上杉謙信が上洛の準備を始めていると聞いた信長は、不利を覚り雑賀衆と和議を結び全軍撤退を命じました。 雑賀の人々は、歓喜のあまり負傷しているのも忘れて踊りを踊ったそうです。それが『雑賀踊り』の起源だと言う事です。




