若草山・芳山・高円山(奈良)
2026.08.30 (日)日帰り
先週はかなり厳しい山行になってしまったので、今週は街近の低山で楽にのんびり散歩したいなぁ、なんて考えたわけです。ということでタイトルはズバリ、「夏の終わりの奈良散歩」!
実は「奈良散歩」という言葉を使うかどうかにはかなり悩みました。というのもこの「奈良散歩」というのは、フォロワーさんの人気シリーズのタイトルなんですね。しかし「夏の終わりの奈良散策」ではどうにも語呂が悪い。「夏の終わりの奈良散歩」の方が断然リズムもいいし響きもいい。地名と一般名詞の組み合わせなので、なんとか許してもらえるだろう…というわけで「奈良散歩」、使わせていただきます(^^)
今日歩く山は高円山。8月15日に大文字の送り火を灯す山として、地域の人々から愛され親しまれている山です。西麓に古刹、白毫寺があります。
奈良公園、東大寺、興福寺、春日大社といった奈良の観光名所の中心地からほんの少し南側にある白毫寺・新薬師寺エリアは、喧騒から離れ静かな奈良を楽しめる場所。古い集落の中に多くの寺社が点在しています。
さらに春日大社の御神体である御蓋山から花山、芳山は総称して春日山と呼ばれ、その大部分が神域であるため、平安時代から狩猟伐採が禁じられてきました。その結果生まれたのが春日山原始林。街に接するような形で原始林が残されているのは大変貴重で、そのことから春日山原始林は国の天然記念物に指定されていますし、世界文化遺産の一部に含まれています。
春日大社境内南側の道路沿いにある有料駐車場に車を停めて、明るくなってきた5:40、出発します。
まずは「滝坂の道」を辿り首切地蔵を目指します。天気は曇り、気温は28℃ですが、風が少しあって涼しく感じます。滝坂の道は柳生と奈良を結ぶ石畳の古道。江戸時代に物資輸送のため、牛馬が歩きやすいように奈良奉行によって整備された石畳です。傾斜も穏やかでとても歩きやすいし、何しろ道が能登川沿いにつけられているのでとても涼しい(^^)
途中に朝日観音があります。能登川の対岸の巨大な岩壁に彫り込まれた磨崖仏です。高円山から昇る朝日に照らされることから朝日観音と名付けられました…が、実は観音様ではありません(^_^;)三尊像形式の磨崖仏ですが、中央は弥勒仏、左右は地蔵仏です。
こういう巨大な磨崖仏っていうのは、どういう人がどうやって彫ったんでしょうねぇ…?行者が彫ったにせよ、仏師が彫ったにせよ、巨大な岩壁に立ち向かい仏の姿を刻み込む行為というのは、修行そのものだったんでしょうね…
出発してからおよそ50分、首切地蔵に到着。ここには休憩舎とトイレがあります。もちろん首切地蔵もありますよ!大きなお地蔵様の石仏ですが、首のところに水平に亀裂が入っています。江戸時代初期に活躍した伝説的剣豪、荒木又右衛門が試し斬りをした跡だと伝わりますが…説話でしょうね(^_^;)何かあって割れたんだと思います。
続いて春日山石窟仏に向かいます。道標に従って進むことおよそ15分、春日山石窟仏に到着。
覆屋が架けられた巨大な石窟には多くの仏像が刻み込まれている。凄まじい気迫を感じますよね…この石窟に起居しながら、日々一心不乱に仏様を彫り続けるわけです。まさに行です。大日如来を始めとする金剛界五仏があることから、密教か、または修験の霊場だったんでしょう。
それでは芳山へと向かいましょう。
ドライブウェイを渡って少しだけ舗装路を進んだ先に芳山への取付きがあります。道標も何も無いので、地図をしっかり確認してください。
序盤はかなり荒れた印象ですが、石切峠からの道が合流した後は、よく整備されていて歩きやすくなります。基本、どこを歩いても傾斜はとても穏やかなので、全く疲れることはありません。無限に歩けるような気すらしてしまいます(^^)
春日山石窟仏からおよそ20分、芳山南峰に到着☆ルート上の通りすがりの小ピークですが、ここが本日の最高点!
さらに進むことおよそ10分で芳山に到着☆四等三角点があります。本峰、南峰とも、木々に囲まれ展望はありません。
続いて地獄谷石窟仏に向かうためドライブウェイまで戻る。ドライブウェイを歩けば地獄谷石窟仏まではすぐの距離。しかしこのドライブウェイは有料の奥山ドライブウェイ高円山コース。自動車専用道路で自転車や歩行者の進入は禁止されています。ところが!このドライブウェイを歩く人がちらほらいるんですねー(~_~;)
こういうルールを守らない一部の人のせいで、ハイカーはみなマナーが悪いと思われてしまうんです。ホント迷惑。指摘されると「看板に気付かなかった」とか言う…人が通るところにはこれでもかとばかり歩行者進入禁止の看板が立ってるだろー!?それに気付かないと言うのか!?
こういう頭の弱い人が優れているのは言い訳とウソをつくことだけ。そして恥ずかしげもなくそのレポをアップする。厚顔無恥も甚だしい。
個人的にはそういう頭の弱い人には山に入ってほしくない。マジで迷惑。
私はルールは守ります!ドライブウェイを渡り、元来た道を戻って、途中で地獄谷新池に下る。芳山からおよそ35分、地獄谷新池に到着。池のほとりには遊歩道があって、ベンチがいくつか設えてある。風も吹いて涼しいし、ちょっとだけ休憩して行きましょう(^^)
地獄谷新池を反時計回りに回り込み、ドライブウェイへと向かう。ドライブウェイを渡ったところが地獄谷石窟仏への取付きになります。斜面を登ることおよそ600m、地獄谷新池からおよそ15分、地獄谷石窟仏に到着しました☆
こちらも覆屋の架けられた石窟です。中央奥に三尊像が線刻されています。中央は盧舎那仏(弥勒仏との説もある)、右に十一面観音、左に薬師如来。
こうしてみるとこの春日山一帯には石仏、磨崖仏、石窟仏がとても多い。古くから神域であり、霊場であったことがうかがえます。とても神聖な場所だったんですね。
お次はいよいよ高円山へ!ドライブウェイを歩けばすぐそこなんですが、当然ドライブウェイは歩くことができません。まずは地獄谷新池まで戻り、さらに首切地蔵まで戻り、さらには滝坂の道を戻ります。
この滝坂の道の途中から、高円山の山頂尾根に登るルートがあるようです。YAMAP地図にルートの表示はありませんが、たくさんの人が歩いた軌跡が表示されています。ここを登っていくことにします。
しかし取付きが全くわかりません!(>_<)地図を見ながら現在地と地形を確認し、方向を見定めてルートを探す。道無き急斜面をよじ登り、なんとかマーカーと薄い踏み跡を発見!
ルートは未整備で、たくさんの人が踏むことで自然にできた道のようです。それでもマーカーが付けられているので、踏み跡とマーカーを確認しながら急斜面を登って行きます。今回歩いたルートで急斜面と呼べるのはここだけです。
急斜面をひたすら登ることおよそ20分、なんとか高円山山頂尾根の正規ルートに出合いました!*\(^o^)/*ちょうど高円山と高円山西峰の中間辺りに出合うので、まずは左に進んで高円山山頂を目指します。
正規ルートのなんと歩きやすいことか!?10分ほど進むとドライブウェイの駐車場に辿り着く。実はこの高円山、山頂直下まで車で上がって来れるんです。
大伴家持の歌碑のある駐車場ですが、車は1台も停まっていません。静かでいいけどちょっと寂しい(^_^;)
駐車場からさらに舗装路を3分ほど登ると、目の前に現れる広大な広場!その真ん中に高さ1mほどの土盛りのようなピークがあります。そこが高円山山頂。広大な広場ですが周囲は木々に囲まれ、展望はほとんどありません。休憩する気満々でやって来たんですが、座る場所がない上、日陰が全くないので休憩は諦めます。西峰を目指しましょう。
西峰はルートの左の斜面の上。山頂の手前でルートを外れ、斜面を登って山頂に向かう。本峰からおよそ20分、高円山西峰に到着です!☆
そこそこの広さの山頂広場には二等三角点があります…というか、それ以外何もない(^_^;)山頂標示すらない。しかも木々に囲まれ展望もありません。ですが涼しい風が吹いているし、座れそうな倒木もある。ここで休憩することにします(^^)
20分ほど休憩して下山開始。急な階段を一気に駆け下り、さらに少し下ると突然目の前が開けました!西峰からおよそ5分、大文字の火床に到着しました!☆
広い範囲で木が伐採された野芝の斜面。そこにコンクリとレンガで作られた火床がズラリと並んでいる。この火床に火のついた松明を立てて「大」の文字を作るわけです。
街から「大」の字を眺められるということは、火床から街を眺められるということ!素晴らしい展望です!奈良の市街地が一望できます。京都の大文字山の火床からの眺めも素晴らしかったですけど、高円山の火床からの眺めも素晴らしい!
北側のすぐ近くには若草山の山頂、はるか遠く西側正面には生駒の山並み。目の前には広がる奈良盆地と奈良市街地。奈良の市街地も京都同様景観保護のため高い建物がありませんから、平らに街が広がっているような印象を受けます。
そんな中、一際目を引く大きな建物がある。東大寺大仏殿です!さすが、めちゃくちゃデカい!
景色をたっぷりと楽しんで山を下りる。火床からおよそ20分で登山口に到着です。それでは白毫寺へと向かいましょう!
白毫寺は登山口からすぐ近く。10分ほど舗装路を歩いたのち、白毫寺への石段を登る。草木に覆われた石段です。ハギの花が咲いています。白毫寺のハギはこれから秋にかけてが見頃です(^^)
山門を抜けてさらに石段を登る。登り切ったところで拝観料¥500を納め境内に入ります。
平地ではなく少し山を上がった斜面に建てられたお寺なので、それほど広い敷地ではありません。創建当初はもっと広い寺域だったんでしょうけど、現在は狭い敷地に本堂、宝蔵、御影堂を残すのみ。
まずは本堂を参拝。本堂には阿弥陀三尊像が祀られています。中央の阿弥陀如来に脇侍は勢至菩薩と観音菩薩。しかしこの脇侍のニ仏は今まで見たことのない独特の姿をしています!大きく前傾し、今まさに立ちあがろうとするかのような「倭座り」と呼ばれる姿勢です。
この身を乗り出すような姿勢は、亡くなる人をいち早く極楽浄土へ迎えに行こうとする「来迎」の瞬間をドラマチックに表現したものだと考えられています。
しかしこの三尊像は本尊ではありません。中尊です。本尊の阿弥陀如来は宝蔵に移されています。それはまた後ほど。
境内は草木に囲まれています。広い空閑地はほとんどありません。この白毫寺は関西屈指の花の寺としても有名。とっても自然豊かなお寺なんです(^^)
そして境内の隅にはひっそりと歌碑が置かれている。万葉集にも収められている、笠金村という歌人が詠んだ志貴皇子に対する挽歌(亡くなった人に対して哀悼の意を表す歌)の歌碑です。
「高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに」
〜高円山の野辺の秋萩は虚しく咲き、そして散っていくのだろうか…見てくれるあのお方はもういないのに…
志貴皇子を失った喪失感と深い哀悼を感じさせる悲しい歌ですね…(T-T)
ところでなぜ志貴皇子?それはこの寺の縁起に関係があるからです。
白毫寺の創建縁起については諸説あるのですが、その一つに、元々この場所にあった志貴皇子の離宮(山荘)を寺に改めた、という説があるんです。
志貴皇子が亡くなったのが716年、離宮が寺に建て替えられたのが715年と伝わりますから、おそらく志貴皇子の病気平癒を祈って寺を建てたのだと想像できます。
志貴皇子…これまた面白い人が出てきましたねー!とっても興味深い。それではここで少し行間を割いて、みなさんと一緒に志貴皇子について勉強してみたいと思います!(^-^)
志貴皇子と聞いて、おっ!?っと思う方なんて…いないですよねー(^_^;)歴史に興味のない一般の方なら名前すら聞いたことがない…歴史好きな方でも、名前くらいは聞いたことがあるかな?ってくらいの…教科書には載ってるのかなぁ?名前くらいは載ってるかもしれませんけど…それくらい地味で目立たない人なんですが、とっても数奇で興味深い人生を送った人でもあるんですよ。
志貴皇子は天智天皇の第7皇子。婢毋だったため、生まれた時から皇位継承とは無縁の立場であった。さらに叔父である大海人皇子(のちの天武天皇)と異母兄弟である大友皇子の間で皇位継承をめぐる争いが起きる。これが古代最大の戦乱である壬申の乱です。
この乱に勝利した大海人皇子は天武天皇として即位。敗れた天智天皇系の志貴皇子の立場は、さらに悪くなる一方。
即位した天武天皇は鸕野讚良皇后とともに、諸皇子を吉野に集め、異母兄弟同士ですが互いに協力し合い争うことのないように誓約する儀式を行った。すなわち「吉野の盟約」と呼ばれるのがこれです。参加した皇子は天武系の高市皇子、草壁皇子、大津皇子、忍壁皇子と、そこに天智系の川島皇子と志貴皇子も同席しています。
この「吉野の盟約」については非常に複雑な思惑が絡んでいて、天武天皇自身が甥である大友皇子との戦争を経て即位した経緯から、皇子たちには争いごとを起こさないでほしいという願いがあったのは間違いない。それとこの時に事実上の時期天皇候補として草壁皇子を指名しています。ここに天智系の二皇子が参加しているのはさらに複雑で、つまり天智系の二皇子に対してある意味楔を打ち込んだ…よからぬ考えを起こすのではないぞ、と釘を刺したのだと思います。
その後天武天皇は朝廷の重要ポストを皇族で固める、いわゆる「皇親政治」を行うのですが、なぜかその中に志貴皇子の名前がない。しかも他の諸皇子に比べて叙位のペースが断トツに遅いんですよ!わかりやすく言えば、出世がめちゃくちゃ遅い(^_^;)
天武天皇という人は情に厚く男気のある人で、信用のできる人間であれば、敵味方関係なく重用し厚遇した。しかしその一方で猜疑心が強く慎重派でもあり、信用のできない人間には驚くほどドライな対応をとる人物でもあります。
どうも志貴皇子は天武天皇にあまり信用されていなかったみたいですね…
結局志貴皇子は中央の政治に直接関わることはほとんどなく、一歩離れた立場で文人や歌人としての人生を過ごしました。万葉集にも志貴皇子が詠んだ歌は多く収録され、歌人としての評価は非常に高い。自然をこよなく愛する、芸術的才能に溢れた人だったのでしょう。もしかすると天武天皇に信用されなかった理由は、政治家としての能力に欠けていたからかもしれません。
716年、志貴皇子逝去。壬申の乱以降は波風のたたない平穏な半生。それはまさに隠居生活のような半生だったと言えます。志貴皇子の人となりがわからないので、心中察することはできません。のんびりと歌を詠みながら平穏に暮らすのも悪くないなぁ…と思っていたのか、はたまた吉野の盟約によって手枷足枷を掛けられ、断腸の思いで苦渋の人生を送ったのか…それはわかりません。しかし彼は生まれながらにして皇位とは無縁であると自覚していたフシが垣間見える。今になって思えば意外と波風の立たない穏やかな隠居生活を楽しんでいたのではないかな?なんて想像してしまうのです…
…え?終わり?何も起こってないじゃん!数奇でもなんでもない!全然興味深くないよ!…なんて声が聞こえてきそうです(^^)でもね、これで終わりじゃないんですよ!志貴皇子は亡くなってしまいましたが、実はここからが面白い☆
天武天皇亡き後も天武系皇統は続きます。しかし聖武天皇が崩御した後は、政変が相次ぎ京は大混乱に陥りました。奈良時代というのは天平(天下泰平)の言葉とは裏腹に、政争相次ぐ暗黒の時代…
聖武天皇の後を受け継いだのは、聖武天皇の皇女、孝謙女帝です。皇太子を経て即位した初めての女帝です。
一度は淳仁天皇に皇位を禅譲したものの、孝謙上皇はこれを廃し、称徳女帝として再び重祚。もうこの頃になるともう殺った殺られたの繰り返し。皇位継承争いや権力闘争が絶え間なく繰り返される日々となっていました。そんな中、宇佐八幡宮神託事件や道鏡事件など、訳のわからないオカルトチックでふしだらな事件が起こったりもしました…
770年、称徳女帝崩御。運命付けられた中で即位した称徳女帝は未婚であり子がいなかった。有力な諸皇子も政争の果てに亡くなったり廃されていました。決定的な人材不足です。
ところがそんな時代を、目立たぬようにすり抜けながら生きてきた有力皇族が一人だけ残っていたのです。その人の名は白壁王。天智天皇の孫に当たる人物です。藤原氏の後押しもあって即位。これが光仁天皇です。天智系皇統の復活となりました。62歳での即位は、今上天皇に至るまで歴代全ての天皇の中で最も高齢での即位です。
そして実は…なんとこの人、志貴皇子の子供なんですよ!
なんとなんとの急転直下!死んでから54年も経ったのち、自分の子供が天皇になってしまったのです!そして自らは天皇の父親という立場になった。天皇の父親は天皇と同等に扱う、というのが当時の慣わしです。志貴皇子は「春日宮御宇天皇」を追尊され、天皇と同格に格上げされたのです!
これにはあの世の志貴皇子もびっくりしてひっくり返っちゃったんじゃないでしょーか!(^_^;)生まれながらにして皇位とは無縁だと自覚し、壬申の乱後は中央政界とは距離を置き半隠居生活。穏やかに一生を終えたはずの志貴皇子…そんな志貴皇子が、亡くなってから54年も経って天皇と同格になってしまったんですから、人生って…いや死んでからも何が起こるかわからないもんですねー!
さらに!現在の天皇の血統は光仁天皇に始まることが確実視されている。つまり現在の天皇には志貴皇子の血が流れているんです!これを数奇と言わずして何が数奇か!?
お寺の展望所から奈良の街を眺めながら、志貴皇子のことを考えていた…ここは志貴皇子の離宮のあった場所。志貴皇子もきっと私が立っているこの場所から奈良の京の風景を眺めたに違いありません。心の中で志貴皇子に語りかけてみる…
「奈良は大きな街に生まれ変わりました。皇子が眺めた奈良の京の風景とは、大分変わっちゃったんでしょうね…でも皇子の血は、皇子が亡くなってから1310年経った今もなお、天皇家の血筋として脈々と受け継がれているんですよ!」
そんなことを聞かされたら、皇子はきっとまた、びっくりしてひっくり返っちゃうんじゃないかな…(^_^;)
志貴皇子についての勉強が長くなってしまった!ここからは急ぎ足で行きましょう!
宝蔵には本堂から移された本尊の阿弥陀如来をはじめ、重要文化財に指定された8体もの仏像が安置されています。閻魔王や太山王など、地獄に関する仏像が多い。このお寺、何か地獄と縁があるのかな?
参拝を終え白毫寺を離れます。
古い街並みを抜けて駐車場まで戻る。いや〜、めちゃくちゃ静かですよ!人もほとんどいません。いくつかの神社を参拝し、新薬師寺や不空院に立ち寄る。白毫寺からおよそ30分、無事駐車場に帰着しました☆
それでは今日の総括を。
奈良もいろんなところを訪れましたが、白毫寺エリアはあまり歩いたことがなかったので新鮮でしたねー。とにかく静か!きっと奈良公園や東大寺なんかは外国人観光客で溢れ返り相当賑やかなんでしょうけど、ほんの少し離れた新薬師寺や白毫寺辺りはほとんど人を見かけません。静かにリアルな奈良を楽しみたいという方は、ぜひこの新薬師寺・白毫寺エリアを歩いていただきたいと思います。
山についても話しておきましょう。まずは高円山。本峰も西峰もほとんど展望はありません。この山の見どころは何と言っても大文字の火床でしょうね!ここは素晴らしい展望地です。奈良の中心街や大和郡山、果ては生駒の山並みまでを一望することができます。
序盤に歩いた滝坂の道…この道は今日一番の感動でした。鬱蒼と生い茂る原始の森の中、古い石畳の道を登って行く。沢沿いなので涼しいし、空気も瑞々しい。ちょっと熊野古道を思い出したりもしました。素晴らしい道です。ぜひ歩いていただきたい☆
このエリアは石仏、磨崖仏、石窟仏が多いのも特徴的。芳山、高円山を含むこの山域は、おそらく修験の霊場だったんでしょうね。
距離にして14km弱、累積標高で900m弱。かなり歩いたような気はしますが、データの数字ほどの疲れは全くありません!傾斜が穏やかで歩きやすいからでしょうね。こんな道なら永遠に歩けそうです(^^)
志貴皇子について考えるいいきっかけにもなりましたし、やっぱり奈良は第2の故郷だなぁとしみじみ感じました。たまには古代の息吹を感じながら奈良を歩かなきゃダメですね!
いい山行、いい一日になりました☆奈良に感謝、山に感謝、そして志貴皇子!ありがとー!*\(^o^)/*