「おいずしさん」へ――父から続く、僕の歩く道
※お山の話ではないので、貴重なお時間をいただきますが、よろしければご一読いただければ幸いです。 この話を書くきっかけになったのは、いつも楽しみに観ている「ポツンと一軒家」。 高知のご姉弟の物語に涙しながら、ふと亡き父のことを思い出しました。 ------------------------------------------------------------- お盆の棚経に合わせて、姉と一緒に実家へ帰省した。 家内は、実家のお父さんが誕生日ということで別行動。 先祖供養も大切だけれど、何より大切なのは、今、生きている人。 だからこそ、親孝行を最優先👍 僕も電話ではあったけれど、義父・義母にご挨拶し、祝意を伝えた。 アユ釣りやバードウォッチングなど、山を楽しんできた義父は、山登りを始めた僕のことをいつも気にかけてくれる。 かつて愛用していたアウトドア用品も譲ってくれた。 そんなご縁にも、あらためて感謝する。 棚経を終え、午後から母と姉を誘って金山出石寺へ。 出石寺(しゅっせきじ)。 母は昔から「おいずしさん」と呼んでいる。 僕も幼い頃、父がそう呼んでいたことを覚えている。 我が家の家業は牛乳販売。 毎朝、父と母が各家庭へ牛乳を届けていた。 雨の日も、風の日も、来る日も来る日も。 父と母が歩いた道のりが、僕たち姉弟の成長の道しるべだった。 夏にはアイスクリームの卸業もしていて、牛乳配達を終えると「おいずしさん」の売店へ商品を届けていた。 夏休みになると、僕たち姉弟は父の軽トラックの助手席を奪い合った。 お目当ては、売店で食べさせてもらえる「ご褒美のうどん」(笑)。 僕は冷やしうどんだったと覚えている。 姉は、とろろ昆布のうどんだったという。 45年以上前の記憶なんて、そんなものだ。 でも、父の軽トラックに乗って「おいずしさん」へ向かった夏の日だけは、なぜか今も残っている。 そして今日は、8月15日。 終戦の日でもある。 父は昭和19年、満州・鞍山生まれ。 敗戦後、祖父は故郷の長崎・五島列島へは戻らず、祖母の故郷である長浜に身を寄せた。 僕たちの世代は、戦後の貧しさを知らない。 父は多くを語らなかったけれど、何度も聞いた話がある。 父にとってのごちそうは、卵かけご飯だった。 麦飯やサツマイモばかりの食卓に、客人が来れば白米と卵が用意されたという。 お腹を空かせた少年が、白いご飯と卵を前に、つばを飲み込んだ姿が目に浮かぶ。 5人家族で食卓を囲み、小柄な父がどんぶり飯をかき込む。 それが、我が家の風景だった。 腹いっぱい、銀シャリで満たされる。 それが父にとっての幸せだったのだろう。 時が経ち、60代を迎えた父は家業を引退した。 電話番号簿や軽トラックには、父の名前ではなく、僕の氏名が入った商店名が載っていた。 結局、僕は跡を継がなかった。 父はようやく、ゆっくりとしたセカンドライフを過ごせるはずだった。 けれど、癌を患い、暮らしは闘病生活へと変わった。 最後に母と出かけた、さっぽろ雪まつり。 その思い出を胸に、父は家族に見守られながら旅立った。 父の姿を見て、僕はあらためて、命には限りがあることを知った。 この世とあの世の境が、僕にいつ訪れるのかは分からない。 だからこそ、残された時間を、誰かの評価や、他人が揶揄するようなつまらないことに振り回されて過ごしたくはない。 自分が大切だと思うことを大切にする。 自分が信じる道を、自分の足で歩く。 そんなふうに思うようになった。 そして、偶然なのか、必然なのかは分からないけれど、僕は山を歩くようになった。 最初は近くの山だった。 それがいつしか、想像を超えるほど遠くへ。 険しい道を歩き、見たことのない景色を追いかけるようになった。 振り返れば、不思議なものだ。 父が生まれた満州。 祖父母が戦後にたどり着いた長浜。 父と母が歩いた牛乳配達の道。 そして、45年以上前に父の軽トラックで向かった「おいずしさん」。 それぞれの時代に、家族が歩いてきた道がある。 そして今、僕は僕自身の道を歩いている。 山を歩くようになったことも、もしかしたら、父から受け取った「歩く」というものの続きを、僕なりに歩いているだけなのかもしれない。 人生は、どこまで歩けるか分からない。 だからこそ、これからも自分が信じる道を、自分の足で歩いていきたい。 父さん。 僕は今も、元気に歩いています。






