火剣山-2026-04-26
火剣山
(静岡)
2026年04月26日(日)
日帰り
4月のおはようハイキングは、金谷駅を起点に旧東海道を小夜の中山へと上り、遠州七坊のひとつに数えられる火剣山(ひつるぎさん)へ。復路は松島岩松寺を経由し諏訪原城跡ビジターセンターへと戻る周回コース。15名の会員が参加して春のウォーキングを楽しんだ。
金谷駅から東海道線線路を見下ろしながら歩き出すとすぐに金谷坂石畳登り口となる。江戸時代、金谷坂は急坂なうえに「あおねば」と呼ばれる粘土層が露出しており、そのため雨が降るとぬかるんで大名行列や旅人は大変苦労した。そこで、江戸時代末期に山石を敷き詰めて約400間(約720m)の石畳が造成されたという。現在の石畳は平成3年、町おこし事業として「平成の道普請・町民一人一石運動」が行われ、430mの石畳が復元された。石畳の中腹には「すべらず地蔵」が祀られているが、石角の露出が大きく少々歩きづらい坂道だ。坂を上り切って牧之原台地へ出ると、新芽が伸びて鮮やかな萌葱色となった茶畑が広がってくる。八十八夜も間近だ。
諏訪原城跡ビジターセンターで小休止の後、間の宿 菊川へと下る。この菊川坂にも石畳が敷設されていて、一部は江戸時代後期のものが発掘された。昨年開通したR473バイパス(金谷相良道路)菊川の里大橋の南には目的地 火剣山の姿が望まれる。菊川の里から小夜の中山へと150メートルほど登り返す。なかなかの急坂で今日一番のアルバイトだ。上り切った久延寺で一服して汗を拭う。久延寺には関ヶ原合戦のきっかけとなる会津上杉攻めの軍を大坂より進めてきた家康を掛川城主・山内一豊がもてなした茶亭の跡地や、夜泣き石伝説ゆかりのお寺としても有名だ。その夜泣き石・子育飴の扇屋はまだ開店前。
旧東海道を南に外れて火剣山へと進む。この辺りから北東方向に富士山が見えてくるが、残念ながら今日は雲がかかり見えない。火剣山の道標に導かれ山道に入る。ここまで汗をかかされたが、木陰の山道に吹く涼風が心地よい。10分ほど歩くと火剣坊大権現(旧富田山光龍寺奥之院)が祀られる山頂に到着した。火剣坊は1300年前、秋葉三尺坊大権現(秋葉寺)と同じ一本の木から行基が掘り出したと言い伝えられ、江戸時代には遠州七坊のひとつに数えられた修験道の拠点だった。古くから強い火坊(ひよけ)の信仰を集めていたようで、「火剣」という名もおそらくそこから付けられたものだろう。また、戦国時代には徳川方の砦が築かれ、菊川の谷を隔てて建つ武田の諏訪原城(国指定史跡)に対抗していた。
集合写真を撮影後、尾根を南に進むと三体の石仏が佇む小さな鞍部に出た。通称「墓の峠」と呼ばれ、かつての光龍寺(明治の廃仏毀釈により廃寺)住職の墓だと言われている。ここには、菱形基線測点の八角柱石が埋設されている。菱形基線側転は地殻変動の精密観測を目的に設置された4点1組の測量点で、ここ「菊川村」の外に「坂部村」(高根山150.3m)、「赤土原」(点名「布引原」149.6m)、「高天神」(点名「高天神山」220.7m)と共に「御前崎菱形基線」を成していた(4点間の各距離の変動を見ることで地殻変動を観測)。峠の先には展望台があって、南側・遠州灘方面の展望が広がっていた。
暫しの休憩で展望を楽しんだ後、今回は東の尾根を島田・菊川市境の大松峠に向けて下ることとした。放置された茶畑の脇を抜け、枯れた竹林を跨ぎながらのやや荒れた道ではあるが、参加皆さん易々と安定して歩かれた。下り口には「火剣山参道」の道標もあって、裏参道として利用されていたこともあったのだろうか。大松峠の先、松島岩松寺は遠江三十三観音霊場第二十五番札所、「歩き観音」の民話が伝えられる。松島からは茶畑の農道を上りR473バイパス工事用道路を廻って諏訪原城跡へと戻った。ビジターセンター前の茶舗では、思いがけず走りの新茶を振る舞っていただき、少し早い季節の香りを味わうことができた。