勝家VS秀吉(3)『田上山城址』羽柴秀長の正体は?
呉枯ノ峰・田上山
(滋賀)
2025年12月23日(火)
日帰り
最初は我らが御殿様の勝家公
の敵側の陣城も少し覗いておこうか😄ぐらいの気持ちでいました。
賤ヶ岳に繋がる尾根の陣は何回か行ったし、まだ未知の所と言えば『田上山城』かな🤔
それくらいのきっかけでした。
今回は無精髭を生やして行こう、出会う人達が武将だけに😅
(これを書くために1週間剃りませんでした)
『田上山城』って誰が築城したんだ🤔
秀吉の弟の秀長なんだ!へ〜!
秀長ってどんな人🤔
ちょっと調べてみるか😄
秀吉の名代として戦い
秀吉の天下取りを手伝い
秀吉政権を下支えし
宰相として大名たちを束ねた
豊臣秀長(賤ヶ岳の時は羽柴秀長)
秀長は秀吉の弟(異父兄弟)
1540年に生まれ、少年時代の名は『小一郎』
幼い頃から23歳まで尾張名古屋の一介の百姓として生きていました。
貧しいけれども人と争うことなどない穏やかな日々をすごしていたことでしょう。
そんな小一郎の人生が激変することがおきます😰
3歳年上の兄、木下藤吉郎が突然訪ねてきて勧誘説得されて、武士になってしまったのです😱
秀長の生涯は「もし秀長がいなければ、秀吉の天下はなかった」とまで称されるほど、兄・秀吉の右腕として、秀吉の天下統一を終生にわたり支えました
そんな秀長が賤ヶ岳の合戦の時に城を築き1万5千の兵を率いて布陣したのが田上山城です
田上山城は北国街道を押さえ、前線における本陣であり、柴田勝家の侵攻を食い止める最終防御ラインでしたが
合戦の勝利にともない利用されなくなりました
現在城址には土塁や空堀のほか、虎口と竪堀など羽柴方の高度な築城技術が見られます。山麓の意冨布良(おほふら)神社に登城口があります。
1591年1月22日、秀長は大和郡山城にて病没しました(享年51)。
天下人へと邁進する兄・秀吉とともに歩み、その覇業を支え、政務・軍事・外交を取り仕切ってきた秀長の死は、豊臣政権にとって大きな痛手となりました。
「もし秀長があと数年生きていれば、豊臣政権はもっと長く続いた」といわれるほど、秀長の存在は大きかったのです。
常に誠実かつ謙虚でありながら、抜群の政治手腕と統治能力を発揮し、兄・豊臣秀吉の覇業を支え、豊臣政権の安定を担った秀長。彼は己を飾ることなく、政のため、そして兄のために尽くしたのでした。
秀長は温厚篤実な性格で、秀吉をよく支えた。実務能力も高かったという。もし秀長がいなければ、秀吉は天下人になれなかったかもしれない。
仮に秀長が長生きしたならば、朝鮮への出兵や秀次の死は回避できたかもしれないし、秀吉の死後は秀頼の後見として、力強く支えたであろう。それが実現したならば、もう少しマシな展開になった可能性は、十分にありうるのかもしれない、なんていわれてます。
それにしても
秀吉に勧誘される23歳まで、秀長は土を相手に生きる一介の水呑み百姓だった。
それが戦国の出世争いの真っ只中に身を投じてすぐ使い物になり、たちまち一軍を率いる優れた参謀武将として、また内政に長けた一国一城の主として、天下の政治を左右する宰相の補佐役としてと、とても信じられないスケールの大きな成長、出世を遂げることが出来たのは、なぜだろう?
という疑問が頭から離れない。
いずれにしても非常に興味深い😄