五月の空に紫八汐の揺れる~音江連山ぐるり
音江山・沖里河山
(北海道)
2026年05月21日(木)
日帰り
車のドアを開けると一筋の蝉の声が降りてくる。アァチ アァチ アァチチチチと堰を切ったように鳴くのはエゾハルゼミ。雪解け水もそろそろ落ち着いて沢音は低くなり、森の静けさを湛えている。靴紐を固く結んで、荷物を背負い、余計なものは何も持たずに歩き出す。6月に近い、からりとした陽気の朝。
緑が一段、深みを増した。コブシは散り、クルマバソウやニリンソウ、ハコベの花が覗いて、花々の合間をモンシロチョウが忙しく蜜を集めている。ルイヨウボタンは蕾を持ち、コウライテンナンショウが首を垂れ、三角形の葉の上で真っ黒なアカマダラの幼虫が2匹眠りこけている。ゆっくりと高度を上げては、次第にスミレやエゾイチゲが増えた。オクエゾサイシンのハート型の葉はもつれ合って生い茂り、花弁を持たない葡萄の実のような花がひとつひとつ、きちんとついている。この山でヒメギフチョウが多くみられるのは、食草のオクエゾサイシンに事欠かない為だろう。ふわふわと繊細に、やわらかく翅を使い、舞い散る一片の花に似て、この日も忙しく山間を飛び交っていた。
剣山への急登に軽く息を弾ませて途中で左手を仰ぎ見ると、ムラサキヤシオの優しいピンクが風に揺られている。やや遅ればせにして花をつけ始めたオオカメノキと。タケノコやネギなど、山菜にも恵まれた山ではあるが、こちらの採集にはとんと関心が薄い。代わりに風にあおられ、振り落とされたのであろうムラサキヤシオの花弁をふたつみつと捕まえて、手帳に挟み込んでおく。速足の季節に思いを巡らせる時、こんな落とし物たちがいつでも心の内をほぅっと明るくしてくれた。
ピンヨロと鳴くのはトンビだと、小学校で習い、クラスで合唱した記憶がある。分岐へ出ると、ぴーーーーん ぴーーーーん と緩急をつけながら、頭上高くを旋回する姿が見えた。こうして眺めていると、もう一度生まれ変わるのならばトンビ、という選択も悪くない気がしてくる。右手へ折れて、音江山。ダケカンバに挨拶をして、いよいよと春を歌い上げるザゼンソウに微笑み、小さな雪渓を跨いで無名山に出る。
お弁当を食べる。コーヒーを呑む。ごくありふれた、安らかな時間。
幸福、と名付けるにはあまりにささやかだったが、それ以上の名前が見つけられないぐらいに特別な気持ちで山頂に座っていた。いつまでも。
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温泉を出る頃には陽が翳り、ヒグラシが物悲しく鳴き始める。森に眠るアカマダラの子供たちが見る夢に似た、淡く心地よい春の日と、3片の花弁をそっと集めて、持ち帰る。
銀