用瀬之岳
鬼ノ城(鬼城山)
(岡山)
2023.03.05(日)
日帰り
鳥取東部の地域と同じ地名の名が付いた山が有り気になっていたので向かってみることにしました。
鳥取の読みは「もちがせ」ですが調べてみるとこちらは「ようぜ」と読むようです。
地図で見る限り成羽川沿いは岩場の断崖絶壁の様なので山頂より標高の高い集落から下って行くことにしました。
ちょうどこの辺りは小泉銅鉛山鉱山跡が有るようなのでそこも見ておきたいと思います。
車は観音寺手前のスペースに停めて鉱山跡を先に見に行きます。
この鉱山跡は高梁市のサイトで紹介されています。
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小泉鉱山は言い伝えによると大同三年(八〇八)に開坑したと言われ、初期の頃は鉛や銀を産出していたが、後になって銅鉛山として稼業したといわれています。近世の頃の銅鉛山としての小泉銅山の歴史は明らかでありませんが、「成羽町史」によると、元禄九年(一六九六)江戸の町人泉屋七右衛門が名義人となって、大坂の泉屋吉左衛門を請負人に立うけおいてて、代官の平岡吉左衛門に銅山の稼業願いを出しています。
その後、吹屋村の大塚理衛門や地元の甚右衛門・中野村の広兼元治などが請負って稼業していますが、いずれも長く続いていません。幕末には地元の庄屋逸見松之助も稼業しています。明治三年になって住友が、その後明治二一年頃、三菱が買い取って稼業しました。明治二〇年頃が全盛時代だったのです。「成羽町史」の明治三年の「銅山絵図」によると銅山に長屋など多くの建物が描かれ、多くの鉱夫や銅山師が働いていて当時の繁栄が想像できるのです。現在、銅山の跡には山神社が祭られ(社はなくなっているが)石鳥居だけが淋しく残り、「願主摂州大坂小西吉兵衛、同多田銀山橋本喜兵衛」と刻まれ、大阪商人の銅山経営のなごりが印されています。
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鉱山には鳥居が有り扁額は山神宮となっていました。
鳥居の奥には社が残っていますが朽ちて崩壊寸前でした。
集落奥からランドマーク方向の尾根を進んで行きますが直前になるとかなりの急斜面で無理をすれば下れそうな感じもしましたが落ち葉の下にはダニが多く腕にも纏わり付いてくるので降りるのを諦めました。
ランドマークは何とか100m圏内に入ったので無事にゲット出来ました。
この集落の道には石仏が多く残されていますが、不思議だったのは崖に続く方向にも踏み跡が有り石仏が設置されていたことです。崖の手前には石碑やお堂跡が有ったのでもしかしたら崖にも何か祀られていたのか麓に下る道が有ったのかも知れません。
今日はここに来たついでに険道として一部では有名な岡山県道300号宇治下原線にある「羽山第二隧道」に向かいました。
しばらく舗装路を歩くと無事に県道に合流しましたがトンネル方向には看板バリケードが設置してあり現在は工事中で通行止めの様でした。一応この道は中国自然歩道になっているようです。
今日は日曜日で工事はお休みなのでトンネルと独り占め出来ました。
このトンネルに来るのは3回目ぐらいですが歩いてみるとより迫力が伝わってきました。