兜巾岳・五葉岳・鹿の子山・要山・夏木山・檜山・新百姓山
大崩山・五葉岳・新百姓山
(宮崎, 大分)
2026年05月16日(土)
日帰り
上見立の兜巾岳登山口から見立小谷に沿って見立鉱山跡の遺構を進み、兜巾岳に上がりました。兜巾岳から五葉岳、夏木山、檜山、新百姓山を縦走し、杉ヶ越に下山しました。
前日の夕方自宅を出て、阿蘇、竹田を経由し、県道6号日之影宇目線に入り、杉ヶ越トンネルを出たところにクロスバイクをデポ。水無平の駐車場で車中泊をしました。そして今朝上見立登山口に移動し、登山を開始しました。上見立登山口は県道6号脇にあり、車がやっと2,3台停められるほどのスペースしかありません。ここから入山します。
昔の作業道が部分的に残っており、それを進むと苔むした石垣の上に土台だけが残る住居跡の遺構が現れ、かなり上流まで見られます。石垣の上は平らに整地されていて,コンクリート製の竈や五右衛門風呂の跡、一升瓶,鍋などが転がっています。電柱や碍子,上流から水を引いた鉄管など、そこには昔日の人々の生活の跡が生々しく存在しいます。道のないところはときどき対岸に渡渉しなければなりません。谷川の岩は鉱山特有の酸化鉄を含む成分で赤茶色に染まっています。
やがて墓地が現れます。墓石には江戸中期の享保や幕末の弘化などの元号が見られるので,かなり古い墓地です。なお、私がこの地を初めて訪れたのは26年前ですが、そのときにはここにお堂が建っていて、中には石仏が安置されていましたが、現存していません。墓石も水害で流出して減ってしまっているようです。
さらに進むと神社跡の遺構が現れます。いかにも神社の境内らしく,大きな杉の木が数本立っていて,灯篭には幕末の安政の年号が刻まれています。26年前に訪れたときは、石段を登っていくと崩れかけた社殿がまだ残っていましたが、今はそこまで上がる石段も崩壊していました。
いくつか坑道跡が現れ、トロッコのレールも転がっています。10m余りの岩をくりぬいたトンネルを通過し、谷に沿って進み、鉱山の遺構がなくなると,急斜面を登って兜巾岳山頂に至ります。この登り、結構大変でした。昔はすんなりと登れていたのは低木があり、スズタケが生えていて、掴むものがあったからです。今は表土がむき出しになっていて、滑落の危険があり、下山にはこのルートは使いたくないと思いました。
兜巾岳に上がってしまえば、あとは一般道の歩きとなります。花の季節も終わり、めったに登山者に会うことはありませんが、それもまた静かでいい。久しぶりに訪れた夏木山の鋸尾根ですが、岩尾根は直進すべきがどちらかに下りるべきか、迷うことしばしばでした。
杉ヶ越に無事下山した後は、デポしていたクロスバイクに乗って7.1kmのサイクリング。全線下りなので、ブレーキをかけるだけで、ほとんど漕ぐことなし。上見立登山口に戻りました。
※見立鉱山について
この山系には錫、銅、鉛、亜鉛、砒鉱、硫化鉄、金、銀、マンガン、アンチモンなど我が国でも著名な鉱脈が潜在しているといわれている。江戸時代から採鉱冶金が行われ、生産原鉱石は現地で原木を燃料にたたら吹きという製錬法で粗鉱石とし、駄賃取り牛馬に積まれて鹿納山と日隠山の間、二十丁峠を越えて鹿川に下り、綱の瀬川、五ヶ瀬川を利用して延岡へ出されていた。最盛期は元禄、宝永年間で、以来盛衰を繰り返しながら明治時代にまで及んでいる。大正時代になり、イギリス人H・ハンターが東洋鉱山株式会社を設立し、イギリス本国から技師8人を招聘して道路、送電、選鉱と開発資材を投入し、採掘している。その後、国際情勢の悪化により外国人が去ったあとは、昭和15年ラサ工業と鯛生産業株式会社の合併で操業再発し、一時中断したが、採掘粗鉱の選鉱処理が昭和38年まで続き、閉山に至っている。