03:39
8.1 km
632 m
モデルコース
03:00
7.1km
616m
616m
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03:39
8.1 km
632 m
03:35
10.8 km
801 m
04:36
10.9 km
825 m
雁峰山 (愛知)
2025.05.04(日) 日帰り
雁峰山は登山道の倒木、えぐれがひどく荒れてるとのことで、敬遠してましたが、怖いもの見たさで行ってみました(*^^*) ほんとに荒れてて滅入りました😭
02:26
6.9 km
594 m
船着山・常寒山・万燈山 (愛知)
2025.03.31(月) 日帰り
3月は、息子の就職で札幌から川崎への引っ越し作業で忙殺されてました。毎月登山危うしでしたが、ギリ間に合った。山には登っていなかったが、多摩川堤防を自転車で走り回っていたので体力は落ちてないはず・・。でも心配なので、軽めで低めの山にBOKKAにGO! 今回も、新城市設楽原の戦いにゆかりのある山です。
02:16
9.9 km
721 m
03:47
11.4 km
851 m
雁峰山 (愛知)
2025.01.26(日) 日帰り
新城マラソンの後、時間があったので近くの山に行ってみました。新東名長篠設楽原PAのぷらっとパークからスタート。すぐ近くに茶臼山のランドマークがあります。茶臼山は長篠・設楽原の合戦の際に織田信長が本陣を置いた場所。特に遺構のようなものはありませんが、信長の力を見せつける合戦に思いを馳せることができます。 さらに古戦場を深掘りするのも面白そうですが、「山⛰」としてはPAから茶臼山だけではちょっと物足りないので、PAの北側にある雁峰山にも登ることに。雁峰山は武田軍に包囲された長篠城から抜け出した鳥居強右衛門が、徳川家康のいた岡崎まで援軍の要請に行き、援軍が来ることを長篠城に知らせるために狼煙を上げた場所とされています。 車道からすぐに山道になりますが、倒木も多くコースは荒れ気味。中腹で林道に合流した所にまた「登山口」があります。その先は一部道が崩れていたり、わかりにくい所もあって難易度は予想以上でした。とりわけ涼み松の手前で(←訂正)登山道がV字状に深く抉れていて進めない箇所がありました。そこでは左側の崖?の上を進みました。道迷いもありなかなか苦戦😝 予定より遅れながらもなんとか山頂に到着。眺望はなくひっそりとしていました。山頂でゆっくりする時間はなく即退却。 帰りは時間短縮モードでできるだけ急いだことと、やはり登りでルートを学習したので、そこそこ速く進めました。暗くなる前には無事帰着しました。雁峰山を甘くみていたわけではないけど、予想以上に手強い山でした🙇♂️ 当日午前の活動:新城マラソン(2025) https://yamap.com/activities/37466045 ※「登山道がV字状に深く抉れていて進めない箇所」の写真がなく記憶が曖昧でしたが、休憩マークの位置からすると涼み松より上ではなく手前だったようなので記述を訂正しました🙇♂️
04:14
8.0 km
623 m
雁峰山 (愛知)
2025.01.12(日) 日帰り
今日は愛知に戻っての初登り🏔️に行きました🚗 新城市は雁峰山(がんぽうやまと思っていたら、今日の登山道にはかんぼうやまって書いてありました)ですが、今日も家から遠いですね💦 ここは長篠の戦いで鳥居強右衛門勝商が脱出成功のノロシを上げた山として有名です🤔 近くには陣跡や武田軍の馬を防ぐ防護柵もあるとかで下山後にウロウロしたかったのですが急用ができて珍しく高速で帰りました🚗💨💨💨 駐車場は登山口ちかくの須長公民館に停めさせて頂きました🙇♂️ 雪がちらついて寒かったですが、準備を急ぎスタートします🚶♂️ 登ってみてビックリですが、登山道相当荒れています😱 登られる方は足元と頭上注意です💦 山頂は残念ながら展望がなく、風が強く雪もチラついて寒かったのですぐに下山しました🥶 下山途中の風がない場所でゆっくりコーヒータイム☕をして身体を温めました♨️ いや、こんな荒れた登山道は初めてです😅 雁峰山:628.5m 108/130 【駐車場】須長公民館 トイレは近くの道の駅もっくる新城で済ませました 【ルート】須永公民館→登山口→山頂のピストン
02:33
8.1 km
618 m
05:39
14.6 km
906 m
04:52
13.9 km
818 m
雁峰山 (愛知)
2024.11.30(土) 日帰り
戦国時代の激戦地「長篠設楽原」(現在の愛知県新城市長篠)から雁峰山に行ってきました。 設楽原のあちらこちらに陣地跡があり、高台にある設楽原歴史資料館には当時を忍ばせる資料が展示されています。 参考;戦国時代に甲斐の虎と怖れられた武田信玄の嫡男勝頼は西に進出する足掛かりとして、1万5千人の兵を率いて天正3年(1575年)5月に長篠城に攻め込んだものの、時の城主奥平貞昌はわずか五百人の兵で大苦戦を強いられながらもギリギリのところで持ちこたえていた。 周りを敵に取り囲まれた城内から50キロ離れた岡崎に援軍を求める使者を走らせ、知らせを受けた織田信長軍3万人徳川家康軍8千人の連合軍は5月18日に設楽原に布陣を敷き、天正3年5月21日に三河の國長篠設楽原で激突しました。 また使者として岡崎に疾駆した鳥居強右衛門(とりいよりえもん)は、長篠に戻り援軍の吉報を知らせることはできたものの、狼煙を上げた雁峰山で武田軍に捕らえられ、雁峰山で磔(はりつけ)の刑に遭い非業の死を遂げました。 この戦いでは1万6千人もの兵が命を落とし、村人により古戦場を見下ろす高台の信玄塚に葬られました。