別子銅山産業遺産巡りNo2 日浦登山口~銅山越+東平エリア
東赤石山・西赤石山・物住頭
(愛媛, 高知)
2025.10.28(火)
日帰り
【別子銅山を象徴する「旧別子・東平エリア」】
前日は、別子銅山産業遺跡の口屋(くちや)・惣開(そうびらき)、星越(ほしごえ)、上原(うわばら)・山根、立川(たつかわ)・端出場(はでば)エリアを訪問しました。
<10月27日活動記録 https://yamap.com/activities/43900709>
2日目のこの日は、別子銅山発祥の地「旧別子エリア」<写真03~68>と東洋のマチュピチュといわれる「東平(とうなる)エリア」<写真69~99>を訪問しました。
旧別子エリアは標高1,000m前後、東平エリアは標高750m前後と高地にあり、共に標高1,626mの西赤石山への登山ルートがあります。
西高東低の冬型の気圧配置による強烈な寒気と強風は午後からマシになるはずだったので、銅山越<写真64,65>で西赤石山にも登るかどうか判断するつもりでした。
しかし、午後になってもたまに風が強まり、ずっと上着と手袋を着用したまま歩きました。
歓東間符(まぶ)と歓喜坑のある場所<写真54~57>でお会いした方によれば、西赤石山頂上はガスって真っ白だったとのことです。
まだ風があるので、この日の最高到達点は標高1,294mの銅山越<写真64,65>までにとどめることにしました。
この高さでも岡山県では標高第3位なんですけれど・・・😓
遺跡巡りのみだったにもかかわらず、旧別子エリアで5時間半、東平(とうなる)エリアで1時間半程費やしました。
今回のログは旧別子エリアのみをアップしています。
【別子銅山発祥の地「旧別子エリア」山行】
最初に訪問したのは、旧別子エリアです。
西赤石山登山の起点となる日浦登山口駐車場に自動車を停めました。
8台駐車可能で8時頃には3台、14時前には6台ありました。平日でこれなので週末は満車になるかもしれません。
駐車場から少し歩くと登山口には「旧別子銅山案内図」<写真03>が設置され、登山口から銅山峰までの高低差約500m、総距離約9kmにもおよぶ道沿いに、元禄時代から大正5年(1916年)までの225年間にわたって造られた無数の産業遺産が眠っていることがわかります。
当時、このエリアの人口は1万人以上とされ、標高1,000m前後の高地に住居のみならず、寺院、神社、醸造所、接待館、小学校、劇場、病院など、生活上必要な施設がたくさん造られていました。
各ポイントには当時の写真と説明の書かれた案内板が整備されています。
何もなくてよくわからないレンガ建造物<写真10,39>などもあり、スルーした遺構も多々ありました。
周辺の山中にもまだたくさんの遺構があるようで、この山域はコースを変えて再訪してみたいと思いました。
登山口からしばらくは砂利道や石段で歩きやすく、たまに橋もあります。
途中で道標に従い別子銅山専用の墓所として建てられた円通寺小足谷出張所跡<写真05,06>に寄りました。
道の向こうに壁のように石垣が何段も続き墓石が点在しているのが見えました。
かつてここに村がありここで一生を終えた人々がいたという現実を受け止めた瞬間でした。
地形図の破線の道に戻り、道の右側に当然石垣が現れると、そこが小足谷集落跡<写真08>の入口でした。
接待館の道標に従い石段を上り下りすると、レンガ塀のある広場のような傭人(ようにん)社宅跡(採鉱課長宅跡)<写真11>に出ました。
ここが接待館だと勘違いしていましたが、苔むして崩れかけた石段<写真14>をおっかなびっくり下りて平坦な道に合流すると、道沿いに小足谷接待館跡<写真15>がありました。
さらに進むと西赤石山と銅山越<写真64,65>との分岐に小足谷疏水道(そすいどう)と収銅所跡の案内板があり、前方の道が二手に分かれました。南側の地形図にはない細道を進んでみました。
小足谷川に下りると小足谷疏水道(そすいどう)の坑口があるとのことですが、<写真16>の辺りで木の枝が絡まったヤブになり歩けなくなりました。
おそらく対岸がそうなのでしょうが、よく見えなかったので、足元の石垣を撮って引き返しました。
案内板がなくても石段を上ると敷地跡らしきものが広がっていることがあり、探検ごっこのようでワクワクします。
明治32年(1899年)3月には生徒数298名、教員7名もいた小学校跡の石垣<写真21>には苔やシダ植物のヒカゲノカズラがびっしりと生えており、かつての繁栄も今は昔・・・。
川沿いなので予期せぬ小さな滝もあり、ほっと一息。
目出度町(めったまち)ルートと木方・東延ルートとの分岐で橋を渡り素麺(そうめん)滝<写真43,44>へ。
明治19年(1886年)に完成した全長1,021mの別子銅山最初の通洞「第一通洞」<写真37,38>は、北口側は崩れてしまっているそうですが、南口はまだきれいに見えました。
東延斜坑<写真40>から素麺(そうめん)滝<写真43,44>の道標に従い歩いているうちに小石がゴロゴロした所を東に進んでしまい、円柱状のコンクリートの一本橋を渡ると二筋小滝<写真41>が見えました。
これが素麺(そうめん)滝・・・ちゃうな。ここから東は道がなさそうだったので、渡り返して黒いパイプ沿いに苔むした小石がゴロゴロした所を北東に進みました。
黒パイプ沿いに見えた三段小滝<写真42>が素麵滝かとも思ったのですが、連れがもう少し先らしいと言うので、崩れそうな左の石垣をよじ登ると階段状の砂利道に出合いました。
わずかに南東寄りに逸れていたようです。すぐに復帰できましたが、石垣が崩れると危険ですし文化財の破壊になるのでおすすめはしません。
砂利道の終点が素麵(そうめん)滝<写真43,44>でした。
素麵(そうめん)滝というと、細い流れが1本だけだったり、今にも涸れそうな糸状の流れが2,3本あったりすることが多いのですが、これは見上げる高さで幅もあり、なかなか見応えがありました。ここまで来てよかったです😊
引き返すと、小石がゴロゴロしていたり石段状だったりする明瞭な細道が東延斜坑<写真40>まで続きました。なぜ逸れたのか不思議です。
目出度町(めったまち)ルートと木方・東延ルートとの分岐まで戻って今度は小足谷川の南側の道に入りました。やはり砂利や石段などで歩きやすかったです。
土持谷<写真49>の東に蘭塔場(らんとうば)<写真58>までピストンできる道があったのですが、勘違いでスルーしてしまいました。
目出度町鉱山街入口<写真51>の分岐から石段を少し上り、延喜の端(はな)<写真52,53>へ。岩の上は展望が効き、前赤石山などが見えました。
大山積神社<写真48>は明治25年(1892年)までここにあったそうですが、狭いので小さな祠のようなものだったのかもしれません。
引き返す途中で道が二手に分かれたので右側の上り道に入ると、地形図の破線の道の東側に並行する細道で、歓東間符(まぶ)<写真54>に直接行けました。
周辺は開けてベンチやトイレがあり、ゆっくり休憩できます。
西側には元禄4年(1691年)に別子銅山発祥の記念すべき最初の坑道となった歓喜杭(歓喜間符)<写真56,57>があります。
元禄3年(1690年)に現岡山県高梁市成羽町の吉岡銅山(閉山)の支配人らが調査しめでたく開鉱となったそうです。
岡山がかかわっていたとは知りませんでした。案内板の「備中国(岡山県)」の文字を見ただけでなぜかうれしくなってしまいました😊
休憩していると下山してこられた方にお会いしました。西赤石山頂上はガスって真っ白だったとのことなので、標高1,294mの銅山越<写真64,65>で引き返すことにしました。
まだたまに風が吹き、手袋を外して栄養補助食品をつまんでいると体が冷えてきます。
予想以上に時間がかかり、12時を過ぎていたのですぐに諦めはつきました。
歓東間符(まぶ)と歓喜坑のある場所<写真54~57>から地形図の破線の石段道に入り、すぐに南西に延びる道へ。
勘違いでスルーした蘭塔場(らんとうば)は案内板から見下ろしズームすると見えました<写真58>。
元禄7年(1694年)の大火災の焼死者132名を埋葬し供養したのが始まりで、以来、殉職者の供養場となりました。現在も盆供養が行われています。
大規模で今もなお存在感のある史跡に衝撃を受けました。
北北西に延びる牛車道は石畳のような道で、濡れたら車輪が滑らないかと心配になります。
明治13年(1880年)に完成し、翌年には18頭の近江牛が働いていたとされています。
近江牛なんてもったいないと思いましたが、労働用なので霜降りではなく筋肉でカチカチの完全赤身だったかもしれません。
分岐で右折し銅山越<写真64,65>へ。階段状の砂利道や小石がゴロゴロした道は緩やかで歩きやすいです。
展望は期待していませんでしたが、東光森山など<写真61~63>が見え、ここが山の中であることが実感できました。
道標のない分岐を過ぎ、不意に石垣に囲まれた一角に出るとそこが銅山越<写真64,65>でした。
元禄15年(1702年)に別子銅山で採掘された粗銅(あらどう)はここを経由して新居浜市の大江の浜まで2日で運搬できるようになり、明治19年(1886年)までこの峠が主要通路でした。
峠といいますが標高は1,294m、岡山県では標高第3位の駒の尾山よりも高いとは😮
特に冬は風雪などによる犠牲者も多く、無縁仏の供養のために地蔵像が祀られました。
少し開けてはいますが展望は効きませんし、さすがにお地蔵様の前で休憩はしにくかったのですぐに下山開始。
銅山越<写真64,65>から引き返し、石埋まりや小石がゴロゴロした道を下りました。牛車道よりもこちらのほうが多少歩きにくいです。
そのうち石畳から石段になると途中に「坑夫修行の跡」の道標がありました。
地形図の破線の道から逸れて細道を進むと、道の左に直径3cm程の穴が多数開いた岩<写真66>が。削岩機の練習をしたのでしょうか。
さらに進み小石がゴロゴロして多少足元の悪い所を経由して歓東間符(まぶ)と歓喜坑のある場所<写真54~57>に戻りました。こちら側にも小さな道標があったのを思い出しました。
石段を下りて目出度町(めったまち)鉱山街入口<写真51>の分岐まで戻り、直進して後はたまに石畳のある道を下りるだけかと思いきや、こちらにも重任局などの案内板がありました。
足元に転がっていたヤマトアシナガバチの巣<写真68>に「なんでやねん」とツッコミを入れ、14時前に無事にゴール。
予想以上に遺構などの見どころが多く、山頂に行っていないのに5時間半もかかりました。別子銅山のすごさがよくわかりました。
今回は旬の時期ではありませんでしたが、銅山峰一帯は5月中旬から下旬頃にかけて国指定天然記念物のツガザクラの群生が見頃となります。
その時期に今回見落とした遺跡の見学に加え、アカモノとツガザクラの花見をテーマにこのエリアを再訪したいものです。
【東洋のマチュピチュといわれる天空のまち「東平エリア」訪問】
旧別子エリアを5時間半かけてまわった後に向かったのは東平(とうなる)エリアです。
実は、倒木等の影響により10月25日(土)より通行止めとなっており、今回は諦めていたのですが、幸運なことにこの日の10時より通行が再開されました。
ちなみに、マイントピア別子が「東洋のマチュピチュ(東平)観光バスツアー」を開催しています。
観光バス(マイクロバス)で東平エリアを往復しガイド付きで一部を観光するというもので、バスは毎日13時発、さらに毎週土日祝日および5・8・10月は毎日11時発も運行されます。
ちなみに、12月から翌2月末頃までは通行止めで自家用車でのアプローチもできません。
2時間コース(見学は1時間)で料金はガイド料込みで2,200円ですが、東平歴史資料館前に広大な駐車場がありますので、事前にネットで資料を入手した上でマイカーでアプローチしました。
ただし、すれ違いができない所も多いので、カーブの多い細道運転に恐怖を感じる方には、観光バス利用をおすすめします。
幸い、普通車2台、マイントピア別子の東洋のマチュピチュ(東平)バスツアーのバスともに待避スペースで出合いすぐにすれ違え、日浦登山口駐車場から車で40分程で別子銅山東平(とうなる)駐車場に到着。
東平は大正5年(1916年)から昭和5年(1930年)まで別子銅山の採鉱本部が置かれるなど、銅山関連施設や生活関連施設が整備され、最盛期には約5,000人もの銅山関係者とその家族が住み、昭和43年(1968年)の東平抗休止によって無人の地となるまで、鉱山の町として賑わっていました。
まずは東平歴史資料館<写真71~73>へ。無料であまり大きな建物ではありません。受付も無人でした。
鉱石などは前日にマイントピア別子で見ていたのと同じようなものがありました。
2階の周辺の生き物のコーナーでホシガラスが紹介されていたのが衝撃的でした。北アルプスなどにしかいないと思い込んでいました。
外に出て小マンプ内<写真74~76>を見学し旧第三変電所<写真78~80>へ。
広々とした第三広場<写真77>は大正5年(1916年)から昭和5年(1930年)まで採鉱本部があった所です。
さらに進むと第三通洞<写真82,83>の左に小女郎川<写真81>、右に寛永谷川<写真85>が見えました。
第三通洞は明治35年(1902年)に完成した長さ1,795mの多目的坑道で東延斜坑<写真40>につながっています。
ここから小石がゴロゴロした道を東に進んでみましたが、登山道らしいので引き返しました。
第三通洞前まで戻ると、石垣を登って苔むした木橋を渡り、寛永谷川<写真85>のすぐ東側を登ってみました。
かなり水量がありましたが、10月27日から11月中旬まで新寛永谷横坑から放水されるためのようです。
道標はないもののさらに南に道が続いているようでしたが引き返しました。
適当に下りていると、第三通洞<写真82,83>の上に小さなトンネル<写真86>がありました。こうした小さな発見が楽しいです。
駐車場に戻ると東平貯鉱庫跡と索道基地跡<写真92>が見下ろせました。両者が「東洋のマチュピチュ」としてよく紹介されています。
本家マチュピチュのあるペルーの大使が訪問され、似ているとおっしゃったそうで、「東洋のマチュピチュ」はペルー公認だそうです。
インクライン跡<写真93>は大正5年(1916年)頃に物資運搬の接続施設として設置されました。
現在は220段の階段に作り替えられています。途中で東平貯鉱庫跡<写真99>や索道基地跡<写真97,98>に寄れますがとりあえず一番下まで下りてみることにしました。
段差が小さいので歩きやすいのですが、下りきったらまた別の階段がありました。
下りたらまた次が😅これ、登り返しよなあと思いながら、下りきると社宅跡<写真94>でした。ここから見学しながら階段を上ります。
索道基地跡は明治38年(1905年)に設置された自動複式索道(ロープウェイやリフトなど)の中継所です。
山の斜面に連なる鉱石を一時的に貯め置く貯鉱庫とともに「東洋のマチュピュ」といわれ、日本の近代化を支えた別子銅山の栄華を今に伝えています。
この2日間、別子銅山産業遺産をエリアごとに個々に見てきましたが、最後の東平(とうなる)エリアを巡ることで、昭和48年(1973年)に閉山するまで江戸・明治・大正・昭和の4時代のべ283年にわたり銅を産出し続け、工業都市新居浜発展の原点となった別子銅山の歴史とその意義がより深く心に刻まれることになりました。
また、今回の目的は別子銅山産業遺跡の見学でしたが、知的好奇心が満たされ冒険心がくすぐられただけではありませんでした。
別子銅山を支えた名もなき人々の存在に気づかされ、我々が立っている現在という足元にはたくさんの人生が積み重なっていることを実感しました。
遺跡ならば発掘され日の目を見ることもあるでしょうが、普段、我々の無意識から掘り起こされることもない多くの魂。
今でも供養を続けているという住友金属鉱山株式会社の姿勢は見習いたいと思いました。
遺跡や廃墟に我々が惹かれるのは、自分たちにたどり着くまでに経てきた歴史が垣間見えるからだけではありません。
滅び廃れゆくものに我が身を重ね命のはかなさを思うとき、同情ではない仲間意識、愛おしさが募るからではないでしょうか。
おそらく、後世の人々の意識からは漏れてしまう平凡な人生。
それでも悔いはありませんが、せめて終わるまでになるべく多くの魂を掘り起こし光を当てたい。自分はともかく、より多くの誰かを。
誰かに語られる人生を歩むことはできませんが、誰かを語り心揺さぶられ一生を終えることはできるかもしれない。光が見えました。