北遠に立つG― 白倉山・登気野
白倉山
(静岡, 愛知)
2026年05月23日(土)
日帰り
黒光りのそれは、ロードノイズを纏い、天竜川を北へ走っていた。
灰色の空。 エメラルドグリーンの川面。 山肌へ張り付くように残る集落。
人の暮らしと山の境界線が、少しずつ曖昧になっていく。
本来なら、もっと気楽な山へ行くつもりだった。
だが今週は、夕方までには帰らなければならない事情があった。 遠出はできない。 それでも、どこかの山には立ちたい。
残された選択肢の中で浮かんだのが、白倉山だった。
以前から名前だけは知っていた。 白倉峡の奥にある山。 いつかは行こうと思っていた山。
だが最近、この辺りでは熊の話をよく聞く。
正直、気は進まなかった。
「……白倉山、行くしかないか⋯」
ため息混じりに呟いたとき、一人の男の顔が浮かんだ。
G。
自然を愛する男。 山の先輩。 ヒルにも獣にも動じない、“北遠の傭兵”である。
彼は以前、白倉山へ行ったことがあるらしい。
ただ問題が一つあった。
Gは、同じ山には二度登らない主義なのだ。
半ば諦めながら連絡を入れる。
すると返ってきたのは、短い一言だった。
「……わかった。」
まるで世界で活躍する某スナイパーのような返答だった。
理由はわからない。 だが、承諾された。
それだけで十分だった。
約束の場所へ向かう。
曇天の下、黒光りしたGの車が静かに現れる。
ボンドカー。 いや、“Gカー”だ。
Gは背中を向けたまま言った。
「今日は路面が悪い。落石もあるかもしれん⋯俺の車で行く。」
異論はない。
我々は霧の天竜路を北へ進んだ。
車窓の向こう。 深い谷の底を、エメラルド色の天竜川が流れていく。
やがて、「金山の滝」を過ぎた先の駐車場へ到着する。
トイレへ向かおうとすると、Gが一言。
「……今は使えない。」
見ると、たしかに施錠されていた。
さすがだ。 情報収集が早い。
Gは素早くゲーターを装着する。
ヒル対策らしい。
私はかろうじて持参していた忌避スプレーを足元へ吹きかけた。
出発する。
最初は沢沿いの舗装路。 だが、すぐ異変に気づく。
落石。 崩れた路肩。 倒木。 割れたアスファルト。
かつて車が通っていたであろう道が、少しずつ自然へ飲み込まれ始めていた。
やがて本格的な山道へ入る。
細い道。 崖際。 つづら折り。 濡れた落ち葉。
足を滑らせたら、ただでは済まない。
沢音だけが近い。
人の気配はなかった。
Gは淡々と進む。
私はただ、背中を追い続ける。
どれほど登っただろうか。
白倉山直下の急登へ差しかかる。
Gが振り返る。
「行くぞ。」
「……お、おう。」
私は返事だけで精一杯だった。
Gは急登を平地のように登っていく。
私は脚が止まりそうになる。
息が上がる。 太腿が張る。 汗が流れる。
それでも、なんとか山頂へ辿り着いた。
白倉山。 1027メートル。
Gがぽつりと呟く。
「……一等三角点。」
山頂に展望はない。
だが、その先に“遠州灘展望ポイント”があるらしい。
向かう。
そして、景色を見た瞬間、思わず息を飲んだ。
遠くに市街地。
アクトタワーも見える。
だが、それ以上に圧倒されたのは空気だった。
霧とも雲ともつかない白い塊が、猛烈な速さで尾根を越えていく。
山が呼吸しているようだった。
「……これは、すごい。」
声にならない。
Gは景色を見つめたまま呟いた。
「山が生きている⋯」
たしかに動いているのは霧だ。
だが、その言葉は妙にしっくりきた。
次は登気野を目指す。
展望はないとわかっている。
それでも、この静かな尾根を、まだ歩いていたかった。
霧。 新緑。 無音の森。
そして、Gの背中。
しばらく歩くと、白いものが目に入った。
ギンリョウソウ。
土から現れたばかりの個体ではない。
しっかり開いた“ギンちゃん”だった。
ふとGを見る。
ギンちゃんの前にしゃがみ込み、満面の笑みで眺めていた。
「ギンちゃん⋯」
その姿に、思わず吹き出した。
「ギンちゃんとG(じー)ちゃんのコラボだな⋯」
Gは無言で立ち上がる。
そして再び歩き出した。
だが、先ほどより少しだけ歩くペースがゆっくりになっていた。
こちらを気遣っているのだろう。
最後の急登を越える。
登気野。 三等三角点。
展望はない。
だが、不思議な達成感があった。
静かな山頂だった。
目的は果たした。
下山を始める。
だが、ここからが本番だった。
濡れた落ち葉。 ガレ。 ザレ。 露出した岩。
滑る。
何度もバランスを崩す。
尻もちもついた。
周囲を見る余裕はない。
Gだけが、何事もないように進んでいく。
その時だった。
「グゥ〜……」
低い音。
沢でも風でもない。
Gが即座に反応する。
「落ち着け。何かいる。」
懐からS&Wを抜く。
(ん?DAISO製…?)
乾いた破裂音が森へ響く。
パン! パン!
Gは気配の先を睨み続けていた。
数秒。
いや、もっと長かった気もする。
やがてGが口を開いた。
「……よし。もう大丈夫だ。先を急ぐぞ。」
私は黙って頷いた。
実を言うと、この時少し足が震えていた。
少しだけ。 本当に少しだけ、危なかった。
そんなこと、口が裂けても言えないが。
なんとか登山口へ戻る。
今回も、生還できた。
Gのおかげだった。
Gは言った。
「温泉でも寄って、飯食うか。」
異論はない。
温泉に浸かるGは、もう戦闘態勢ではなかった。
身体のメンテナンスに集中している。
その後、Gは東栄チキンの竜田揚げを頬張っていた。
「地産地消⋯」
私は思わず呟く。
「やはり、この男はプロフェッショナルだ。」
帰路。
Gカーは山道を滑るように下っていく。
アウトインアウト。 スローインファーストアウト。
完璧なライン取りだった。
霧の北遠を抜けながら、私は考えていた。
Gの次の任務に、私はついていけるのだろうかと。