【杉の迷宮、孤独な緑を漕ぐ】譲ヶ葉森・音無山
譲が葉森
(愛媛)
2026年05月04日(月)
日帰り
世に名の知れた山々には、それぞれに分かりやすい見どころというものがある。しかし譲ヶ葉森は、その類いの賑わいからはやや距離を置いた存在のようである。いわく地味、いわく分かりにくい。なるほど、ではその実際を確かめてみようではないかと、私は半ば物見遊山の気持ちで歩き出した。
登りはじめは案の定である。整然と並ぶ杉の林は、あまりに規則正しく、歩を進めても景色は大きく変わらない。踏み跡は曖昧で、時に道は消えたかのように見え、こちらの注意を試すようであった。山は多くを語らず、ただ歩く者に静けさだけを差し出してくる。
やがて人工林を抜けると、思いがけず視界がほどけた。木立の切れ間から、幾重にも重なる山並みが現れ、その向こうにかすかな海の色がにじんでいる。先ほどまでの単調が嘘のように、景色は奥行きを得て、しばし足を止めることになる。どうやらこの山は、ささやかな見せ場を、しかるべき場所に用意しているらしい。
しかし、その余韻に浸る暇もなく、山はすぐに次の顔を見せる。人工林を抜けるや否や、道は忽然と姿をくらまし、代わりに現れたのは容赦のない藪であった。枝は顔に触れ、足は思うように上がらず、進むほどに理不尽が積み重なる。ついには、これを百名山に加えた人物の顔を、一度拝んでみたいものだと、半ば本気で考えた。
そうして辿り着いた頂は、拍子抜けするほど素朴であった。標識は控えめに立ち、眺望も無い。達したという実感はあるのに、それを誇るようなものは何ひとつない。ただ、そこに在るだけである。
それでも不思議なことに、下りにかかる頃には、この山を悪く言う気はすっかり失せていた。華やかさも劇的な展開もないが、静けさの中で折に触れて見せる表情が、じわりと心に残る。譲ヶ葉森は、登る者に何かを与えるというよりも、むしろこちらの受け取り方を試しているのかもしれぬ。
帰路につきながら、私はふと思う。なるほど評判は様々であろう。しかし、こうして歩いた一日を振り返れば、この山は確かにそこに在り、こちらもまた確かにそこを歩いたのである。その事実だけで、もう十分ではないだろうか。